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ボクのいた風景




ボクがいなくなったあと、
この部屋はどうなるのだろうと、ときどき考える。




もう五十だから、そんな何十年も先ではなくて、
十年後、数年後、ひょっとすると何か月後・・・
いずれにせよ、ボクが本当の世界に帰る日が来る。




いま、こうして寝転んでいるベッド。
身体を悪くしてから、
マットレス探しに、あちこちの店に足を運び、
実際に寝てみて、ようやく出会えたものだ。



―― そうそう、この大きめの枕。
身体を悪くしてから、首が痛くて枕が使えなくなった。
通販からお店まで、一体いくつの枕を買ったろうか。
”まくら難民”なんて、世間では言うらしいけど・・・




結局どれも合わなくて、
枕なしで寝ることが当たり前になった。
何かの時に、ふと、身体を悪くする前から
使っていた、この大きめの枕を置いて寝たら、
痛くならずに寝られ、それから枕生活に戻った。




いまは毎晩、その枕に頭を預けて眠っている。
寝る時、起きた時、首の痛む時はあるが、
それでも、ようやく取り戻した、当たり前の眠りである。




そんなベッドも、枕も、ボクがいなくなれば、
当然のことながら、誰も使わなくなるだろう。




枕のへこみも戻り、布団もしばらくしたら畳まれて、
しまわれるのか処分されるのか、
とにかく「ボクの寝床」ではなくなる。




今こうやって、座って書いてる椅子はどうなんだろう。
ボクがいなくなった後は、誰か使うのかしら。




ベッドと一緒に買った椅子。
両肘かけの黒い社長の椅子 ――
座った瞬間に気に入った。
なにより、他の椅子と違い腰が痛くならないからだ。




一日の大半は、この椅子に座り、
ノートパソコンを広げ、
仕事というほどお金にはならないが、
それでも仕事は仕事なので、仕事をして、
noteを悪戦苦闘しながら書いている。




机の上には、読みかけの本や、
あとで見ようと思って置いた紙や充電器、
なんだかわからない小物が並んでいる。
生きているあいだは全部に意味があるようで、
いなくなってしまえば、たぶん全部、
誰かにはただの“片づけるもの”になってしまう。




生活というのは不思議で、本人には必要なものばかりでも、
いなくなった途端、ただの残置物(ざんちぶつ)になる。





ボクという「意識」が、この世から消え去ったその瞬間。
この部屋は、計り知れない静寂に包まれるに違いない。




そこには、もうボクのキーボードを叩く音も、
深夜に淹(い)れる紅茶の香りも、
ましてや心の奥底で叫んでいた、
あの熱い衝動さえも存在しない。





―― でも、しばらくは残るものもある。





カーテンの日焼け跡。
ベッドの置いてあったへこみ。
壁の小さな傷。
長く染みついた空気。





そんなものが、ここに誰かいたことを黙って証明する。






3月20日に墓参りに行った。




墓石には、「〇〇家之墓」と刻まれている。
―― ボクが入る墓だ。




近所で、同じ苗字の数軒の家で、
出しあって建てた墓だ。




そんなたくさんの方々のいる中で、
ボクだった身体の骨が、
申し訳なく隅にでも置かせていただくのだろう。




ボクには妻も子もいない。
仲の良い友人もいない。
だから、手を合わせに来てくれる人間もいないので、
名前だけが墓誌に刻まれて、それで終わりかもしれない。



まったくボクとは、
縁もゆかりもない人が、
ボクじゃない人のために手を合わせてくれるので、
誰も手を合わせてくれないわけでもないのかな・・・




ボクは、妻も子もある人生がしあわせだと思ってるけど、
世の中を見渡すと、どうもそうでもないらしい ――




妻も子もいることで、
不幸になる、男、女、そして子ども。
悲しいことが多すぎて、
人の世とは、わからないものだとつくづく思う。





―― まあ、人に覚えられ続けることだけが、
存在の証明ではないのだろう。




使っていた部屋。
眠っていたベッド。
名前の刻まれた石。
誰にも気づかれないまま過ぎていく季節。





ボクがいなくなっても、窓からは昨日と同じ朝日が差し込み、
埃(ほこり)が光の粒子となって、舞い踊る。






ボクのいた風景は、ボクがいなくなることで、
ようやく「完成」するのかもしれない。








E・N・D






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