【短編】海の唄
港町の外れに、もう誰も使わなくなった古い防波堤があった。
錆びた手すりと、崩れかけた石段。
潮風に削られたその場所へ、老人は毎週ひとりで通っていた。
夕暮れになると、海は赤く染まる。
その時間になると老人は、決まって小さなラジオを取り出した。
けれど流れているのは音楽じゃない。
ザー……という雑音ばかりだ。
それでも老人は目を閉じ、静かに頷いていた。
昔、この海で妻を亡くした。
若い頃、漁に出た帰りの嵐だったという。
船は戻らず、見つかったのは壊れた浮きだけ。
けれど妻は歌うのが好きで、網を直しながらいつも古い民謡を口ずさんでいたらしい。
だから老人は言う。
「波の音の奥に、たまに聞こえるんよ」
誰も信じない。
子供達ですら「また始まった」と笑う。
だが老人には、本当に聞こえていた。
風の強い日。
雨の前の日。
海が静かすぎる夜。
ザー……というノイズの隙間から、遠く懐かしい声が混じるのだ。
『おかえり』
その一言だけを聞くために、老人は今日も海へ来る。
春が終わる頃、町の人が言った。
あの老人を見なくなったと。
数日後、防波堤に古いラジオだけが残されていた。
電池も切れているはずなのに、不思議と微かな音が鳴っていたという。
ザー……
ザー……
