観音龍詠唱 第二章・龍鱗顕現
観音龍詠唱 第二章・龍鱗顕現
ネノネノネオンネノネ
根の音は 深き水底を離れ
形なきゆらぎより 龍の鱗を纏ひゆく
あまねく世界に ひかりの粒をば 撒き散らしゆく
まだ 誰も それと気づかず
ただの 朝霧と 思ふうちに
細きひかりは 塀の割れ目にも
閉ざされた窓の 端にも しのび入りぬ
オンナリトアマノネヨ
天の裂け目に 爪を立て
地の断層に 息を吹き込む
静止せしもの 動き出で
行き詰まりしもの 流れ出づ
止まるを 悪しと定むるにあらず
ただ 凍りつきしものの 筋をなで
忘れられし 血潮を
ふたたび めぐらせ給ふ
観音の 千の手は 絡まる糸を ひとつずつ解きほどき
龍の尾は 淀みし川の 底を打つ
さやけく 荒ぶる 慈悲の舞ひ
裁かんと 振るふ刃にあらず
むさぼらんと 掻き集むる掌にもあらず
ただ 詰まりし処に 風を通し
声なき声を 水面に 浮かべ給ふ
ヒビケソワカ
迷ひ子の 泣き声さえも 龍の鱗は掬ひあげ
哀しみの 澱を磨きて 星の砂へと変えゆく
響け 響け
この世の軋みを 調律の調べへと
夜半の 嗚咽に 寄り添ひて
朝の 溜息を そっとあたため
こぼれし涙の 塩までも
ひとつの 旋律に 組みかへ給ふ
龍が吐く息は 春の風となりて 氷を解かし
観音の眼差しは 冬の夜を 月明かりへと変ゆ
対なる力 ここに混じりて
白き龍と 慈しみの龍が
ひとつの渦と なりて昇る
その渦は 都の屋根のうへにも
病室の 小さき窓のそとにも
海底の 黒き岩間にも
しづかに 影を 落としゆく
ネノネノネオンネノネ
名前を呼ぶな 形を問ふな
ただ いまそこに 龍の鱗が舞ひ散りて
触れしものみな 本来の「音」へと 立ち還る
傷ついた石も 折れた木々も
忘れ去られし 祈りの言葉も
みな 龍の鱗に 映し出され
あるべき色を 取り戻しゆく
その色を 誰が見届けずとも
いと小さき 道端の草ひとつ
ひそかに 根を 伸ばしゐて
観音龍の 証と なりにけり
オンナリトアマノネヨ
天地の 響きの橋を 渡り終へ
観音龍は 汝の魂の 内側にて
静かに 爪を 収め給ふ
外にて 荒ぶることを止め
内にて 息を ひそめゐて
ただ 汝の まなざしのゆくさきごとに
ひと鱗ずつ 光を 置きて回る
ヒビケソワカ
終はりは始まり 始まりは終はり
輪を描く龍の 背中を撫でて
また 根の国へ 深く 深く
響きは帰る 永遠の海へと
去りゆく波を 惜しむなかれ
その背に乗りて 数多の記憶
ふたたび 根音へ 溶け入りて
あらたなる 龍鱗の 素と ならむ
ネノネノネオンネノネ
オンナリトアマノネヨ
ヒビケソワカ
※巻末読み解き
――第二章「龍鱗顕現」に寄せて
第二章「龍鱗顕現」は、第一章で生まれた「根の音」が、少しずつこの世界に現れてくる章です。
けれど、それは空から大きな龍が降りてくるような出来事ではありません。
朝、カーテンのすき間から細い光が入ってくる。
長く閉めきっていた窓を開けると、部屋の空気がふっと動く。
固まっていた肩を少し回すだけで、血がめぐり始める。
そういう小さな変化の中に、龍の鱗のような光が現れる。
この章は、その気配を描いています。
言えなかった言葉。
しまい込んだ悲しみ。
動けないまま残っている記憶。
そうしたものは、無理に壊すのではなく、少しずつ風を通していく。
観音の千の手は、絡まった糸をほどく手。
龍の尾は、淀んだ水をそっと動かす力。
やさしさだけでは届かないところに、龍の力が触れる。
強さだけでは壊れてしまうところに、観音の慈悲が添えられる。
この、第二章の観音龍は、裁く存在ではありません。
止まっていたものに、もう一度流れを戻す存在です。
涙も、ため息も、怒りも、恐れも、ただ捨てるものではない。
それらも磨かれれば、ひとつの音になる。
この章では、その変化を「龍の鱗」として描いています。
そして最後に、観音龍は外で荒ぶるのではなく、読む人の内側へ静かに宿ります。
目の前の人を少しやわらかく見ること。
閉じていた窓を開けること。
忘れていた祈りを、もう一度思い出すこと。
そうした小さな所作の中に、ひと鱗ずつ光が置かれていく。
第二章「龍鱗顕現」は、遠い神話の話ではなく、日々の中で止まっていたものが、少しずつめぐり始める章です。
龍は、まず小さな光として現れるのです。
