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利他/ケアという共通言語をつくる(前編)|オリンピア2025

近内悠太(教育者・哲学研究者)


※2025年3月15日に開催したビジネスモデルオリンピア 2025ケアと共感のビジネスモデル〜共生社会の新経済圏〜一般社団法人ビジネスモデルイノベーション協会主催)での講演禄です。

心と言葉

いま、「教育者。哲学研究者。統合型学習塾「知窓学舎」講師。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師」と紹介してもらいました。なんだか肩書きだけ聞くとすごそうな人だなと思うんですけど、僕は大学に所属してるわけでもなくて、「野良の哲学者」と言っていますが、ふだんは塾とか予備校で数学とか小論文も教えていたりします。

ヴィトゲンシュタイン哲学、あまりピンとこないかもしれませんが、僕は人間の心と僕らが扱っている言葉、言語に関心があって、心ってなんだろう、言葉というものはなんなのか、言葉と心ってつながっているんじゃないかとか、そのあたりに強い関心を持っています。

僕らは同じ言葉を喋っているか?

みなさん、自分が喋ってる言葉と周りの仲間友人が喋ってる言葉、同じですか? もちろん同じ言葉を喋ってるという感覚があると思うんですが、実は、そうじゃないかもしれない、ということを今日は感じ取っていただけたらと思っています。

「同じ言葉を話している」と思うから理解されないことにいらだったりするわけですが、そもそも言葉がずれてるとすれば、理解されないのもしょうがないかなと思えると思うんです。たとえば、科学哲学者のハンソンという人物が、科学哲学に関する書籍『科学的発見のパターン』(講談社、1986年)のなかで、こんなふうに言っています。

馬車が暗い路地で歩行者を轢いてしまってその人は死亡したとする。そのとき事故の『原因』は一体何か?

『科学的発見のパターン』(N. R. ハンソン著、講談社、1986年)

みなさん、どう思いますか。馬車を自動車と置き換えて考えてもらってもいいです。事故が起こった原因、いろいろと頭に浮かんだと思うんですが、この本にはこんなふうに書いてあったんです。

事故あるいは死亡したこのときの原因はなにか。医師は「出血多量が原因」だと言い、弁護士は「運転業者(つまり運転手ですね)の不注意が原因だ」と言い、馬車の専門家(車でいうと整備の専門家ですね)は「そもそもブレーキの利きが悪かった」と言う。そして、少しフェーズが違うのが都市計画専門家、まちづくりや行政に携わる人からすると「そこには高い植え込みがあって、見通しが悪かった。つまり構造上、事故が誘発されやすい場所であった」と言う。ある同じ出来事も、立場が違うとまったく違う観点で「これが原因だ」と捉えるわけです。

ハンソンは、また違う例も挙げておりまして、こちらのほうがよりわかりやすいかもしれません。感染症、ペストの突然の発生の原因を、細菌学者は「原因は微生物だ」と言い、昆虫学者は、微生物そのものがあっても蔓延はしないので、微生物が寄生してる「ノミが大量に発生したことが原因だ」と言う。もう少しマクロなレベルで、疫学者は、「船から逃れてその港町に病気を持ち込んだネズミが原因だ」と言う。

ビジネスのシーンでも、「部署が違う」とか「立場が違う」とか、あるいは「生まれ育った時代背景が違う」と前提がかなり違ったりしますよね。

僕らは、文法レベルでは同じ日本語を喋っています。でも、この事例にあるように、医師、弁護士、馬車の専門家、都市計画専門家という立場、身分、経歴が異なると、同じ出来事を見てもまったく違う原因を言い出す。専門性セクションの違い、専門性背景あるいは部署、立場によって、同じ出来事なのにまったく異なる視点から見ているということがわかります。

いま、僕らはこれらを引きで(全体像を)見られますよね。「医師はたしかにそういうだろう」「弁護士がそう言うのもわかる」などと、立場が違えば言うことも違うだろうなと、思ってもらえると思います。

今日、僕が、「ケア」というキーワードで、みなさんのビジネスにおいてなにか貢献できることを話せるとしたら、おそらくHR(人的資源)的な側面で役立てていただけるのではないかと思っています。どんな仕事においても、HR的なこと、組織論的なことは根底の共通の部分だと思います。組織の最適化とか、離職率を下げるとか、組織のパーパスを浸透させるなどの場面で活かしてもらえるかもしれません。

「言葉はあるのに入っていかない」ということってありませんか。お題目はあるんだけど、マインドとしてインストールされない。それはやはり、僕たちが同じ言葉を話しているようで、実は全然イメージするものが異なるからではないか。そういった観点で聞いていただけたらと思います。

利他とケア

今日は、利他とケアという言葉を共通言語にするべく、少なくともケアという言葉はこういうものを指す、と定義できれば、ある意味最も広い意味でケアというものを捉えられるんじゃないか。あるいは利他という言葉も同じです。最近よく耳にはするし、漢字の雰囲気でなんとなく意味するところはわかると思うんですけども、そこをある程度設定しておきたいと思っています。このあとのパネルディスカッションでもお話しできますので、疑問など浮かんだらぜひSlidoに書き込んでいただいたり、考えたりしながら聞いていただければと思います。

さきほどの馬場さんのお話を聞きながら、改めて思いました。まずいちばん最初に僕らが「ケア」という言葉に、感覚として持つのは、「命の世話」っていう言い方かなと思ったんですよね。哲学者の鷲田清一さんが著書のなかで、ケアというものは子育てをしたり、人を看取ったり介護をしたりすることだという話を書かれているんですが、それって「命の世話」とたしかにいえますよね。鷲田さんの大変わかりやすい表現ですね。ケアのいちばん重要な、中心にあるものだと思います。

さきほど、いろんな写真を見せていただきましたけど、馬場さんがやられてることは「命の世話」であり、「命の世話をする人の世話」でもあると感じておりました。やはりもちろん、ケアの中心には命に関する部分、子育てであったり介護であったり、病にある人をサポートしたりすることなんですけども、さきほど馬場さんもおっしゃっていたように、それだけがケアではないとも思うんですね。そういう概念を中心に置きながら、会社組織のなかでの1on1、あるいは、病にあるわけでもなく健康であったとしても、家族や仲間内、あるいはサードプレイスにおける人間関係のなかにもきっとケアはあると思うんです。

今日はそのあたりの、もうちょっと開かれた広い意味でのケアを捉えるお話ができればと思っております。

僕らは、同じ言葉を喋っているように見えて、実はまったく同じ言葉を喋っていない可能性がある。だから、「あのときにこんなふうにアドバイスしたのに、あいつはぜんぜん理解してなかった」というのは、理解“して”なかったんじゃなくて、理解“できて”なかった可能性がある。あるいは、その人に伝わる言葉、その人がイメージしやすい言葉を伝えられていなかった可能性があるわけです。

たとえばみなさん、いま僕が、「結局、愛が大事なんです」って言うと、なんとなくわかる気がしますよね。でも、たぶん、一人ひとり「愛」のイメージが違うはずなんです。

でも言葉ってすごく不思議で、「愛」と言われるとなんとなく伝わった感覚になっちゃうわけですね。おそらくわれわれが心から大事にしてるものを言葉にしようとすると、こういうことが起こる。同じ言葉を話しているように見えて、あるいは同じ出来事を目撃しているのに、言葉が違っている。あるいは同じ言葉なのに違う意味で受け取ってしまうことがあり得る。

正しいことをするために生きているわけじゃない

ケアを考えるときに、ユング派心理学者、カウンセリング臨床心理の大家である河合隼雄さんの指摘を、僕らはちゃんと受けとめなきゃいけないと思っています。

河合さんは著作の中でこんなふうに書いています。

結婚式を目前にして最愛のひとが交通事故で死んでしまったひとがある。このひとは「なぜ」と尋ねるに違いない。「なぜ、あのひとは死んでいったのか。」これに対して、「頭部外傷により……云々」と医者は答えるであろう。
この答えは間違ってはいない。
間違ってはいないが、このひとを満足させはしない。なぜ、この正しい答えが、このひとを満足させないのか。それは、この「なぜ」(Why)という問いを「いかに」(How)の問いに変えて答えを出したからである。

河合隼雄『ユング心理学入門』(岩波書店、2009年)

わかりますよね。この人からするとそんな答えが聞きたいわけじゃないわけですよね。

僕は、河合隼雄さんを先達として本当に敬愛しているんですが、ケアのポイントってここだと思うんです。たとえば、アルコール依存症の方たちへのカウンセリングの場面では、「いますぐ(お酒を)やめないと死んじゃうぞ」とは言わないわけです。そんなことを言っても、その人はお酒をやめません。たぶん、お酒を飲むことはその人にとって人生の一部なんですよね。だから「少しずつ減らしましょうか」とか「今日はこの分だけはやめませんか」と言う。

科学的、医学的に言うと、“いますぐ”やめることが正しいわけです。だけど、相手が納得する、相手が満足する関わりじゃないと、その人はまったく動いてくれないわけですよね。

僕らは正しいことをするために生きているわけじゃない。たとえば喫煙する、お酒を飲む、ジャンクなものを食べる。それら含めて、僕らは「生きている」という感覚を味わっているわけです。

組織においても同じですよね。「あなたはこういう部署のこういう人間でこういう部下を持ってるんだから、あなたの正しい振る舞いはこれです」という答えはもちろん間違っていないんです。けれども、それを伝えたら、その人がうまく組織のなかで動いてくれるかというとそうではない。「なるほど」と、腑に落ちたときには、その人は動く、自分で自ら動けるようになると思うんです。

でも、ついついやっちゃいませんか? 正論を言うのは気持ちがいいじゃないですか。1on1で部下の話を聞いたときに、「それって甘えじゃないかな」って言いたくなるじゃないですか。それどころか「自分が若い頃はさ」って、話を聞くはずが自分の話をしちゃってるとかありますよね。

1on1の目的は、なんでしょうか。「問題が解決する」のももちろんあるでしょうが、問題解決するのなら、打ち合わせや会議でいいわけじゃないですか。わざわざ1on1で話を聞くのだから、その人が心底納得して行動することが目的ですよね。そのときに、お互いの言葉がずれてるところをすり合わせることもできるわけです。言葉のズレによって苛立ったときに、ついつい強い側の立場が正論を言ってしまう。でもそれではおそらく組織というものは空中分解するわけですよね。

僕らはしばしば正しい回答(正論)を相手に提示してしまう。でも、相手だって、何が正しいかぐらいわかっています。そのときに「こうするべきだ」と言っても意味がない。正しいことを言っても機能しません。

ケアとは、他者が「大切にしているもの」を、共に大切にする行為である

僕はケアをこのように定義しております。

ケア:その他者が「大切にしているもの」を、共に大切にする営為全体のことである。

これは、必ずしもケア論とか哲学、あるいは思想におけるメジャーな定義ではありません。「その人の生(生きること、生き方)を支援する」というのが定番の定義だったりします。あるいはさきほど出ました「命の世話である」、あるいは、ケア(Care)=気にかけること、配慮すること、などなど。さまざまな定義があります。

僕は、「その他者が「大切にしているもの」を、共に大切にする営為全体のことである」と言ったほうが、僕らの関わりが変化できる可能性があると思っています。

もうひとつの今日のテーマである「利他」。僕は「ケア」にある特殊条件が加わったときに利他になると考えています。これも僕の定義です。

利他:自分の大切にしているものよりも、相手の大切にしているものの方を優先する行為である。

   

つまりケアというのは自分を犠牲にすることなく、ふつうに関わってその人が大切にしているものをともに大切にすること。「命の世話」も、これに包摂できていると思うんですよね。

ホテルの副支配人が見せたケア

みなさんも、自分の命が大切ですよね。自分の身体も大切。当然、痛みを避けたいとか、恥をかきたくないとか、自分の威厳や尊厳を守りたいですよね。われわれがケアを必要とするのは、「このままでは自分の尊厳が守られない」と感じるとき、あるいは、「いま自分の体が痛めつけられている」、「心が傷ついている」というときです。極めて抽象化すると、「大切にしているものが、いま脅かされてる人がいる」、そういうときに発動するものがおそらくケアである。

具体例をいくつか出します。書籍『利他・ケア・傷の倫理学』のなかでも挙げている例ですが、三谷幸喜監督の『The有頂天ホテル』というコメディ映画の冒頭のシーンです。

利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学(晶文社 、2024年)

この映画は、ちょっと高級なホテルを舞台にした大晦日の顛末のドタバタ劇なんですけども、最初の冒頭のシーンで、副支配人がホテルのロビーを見渡して「今日も賑やかだな」と思っているときに、部下から報告が入ります。

「レストランで食事中のカップルの男性のお客さまが、テーブルに置かれた灰皿を取り皿として使っちゃってます」と。「おいしいね」とか言いながら思いっきり灰皿を取り皿として使っちゃってる。すると副支配人役の役所広司さんが、少し考えたあと、こうしましょうと言うんです。「他のすべてのテーブルから灰皿を撤去してください。そして、もっとわかりやすい灰皿を他の全テーブルに置いてください」と。

他のテーブルにも同じ形の灰皿が置いてあって、隣の席の人がそれを灰皿に使い出してしまったら、その男性客は「これ、灰皿だったんだ」と気づいて恥ずかしい思いをするわけですよね。しかし、他のテーブルからその灰皿を撤去してしまえば、最初からそれが取り皿だったように見えます。

このときに、部下が「そこまでしますか?」って言うんですよ。ホテルのサービスとしてそこまでやるべきなのか、と。そのときの役所広司さんのセリフがいいんです。「紛らわしい灰皿を置いたわれわれの落ち度です。」

これは身体的なケアとか、命に関わる話ではないですが、このエピソードには、ケアの眼差しを感じますよね。おしゃれなホテルでの大晦日、レストランで食事を楽しむカップルの男性客がこのままでは恥をかいてしまう。それを未然に防ぐ。これって、その人が大切にしている時間を大切にしていることになりますよね。そんな大切な時間を過ごしているときに、恥をかかせないために機転を利かせる。お客さんが灰皿を取り皿と間違えたのは、こちらの落ち度でお客さんは悪くないんだと言う。これは、僕のケアの定義に当てはまっています。

ルールを破らないとケアできないこともある

「他者をケアするために愚行を為す」こととなる。

これが僕の利他論の主張なんですけど、「なんで、利他が愚行なんですか?」という質問もけっこういただきます。馬場さんの壁を壊したお話、いま、われわれはあの場が素敵な場所になったってわかってるから、あれはいいエピソードだと受け取れます。ですが、実際に、壁を壊しているときは怖くなかったですか?(馬場さん:笑いながら頷く)本当に大丈夫かな、地域で浮かないかな、とか。向かいのガソリンスタンドで給油している人たちから「こいつらなにやってるんだ」って見られたっておっしゃってましたよね。まさに、愚行ですよね。だれかのためになることをするために、そのときの周囲の価値観からすれば馬鹿げていると思われるようなことをしなければならないときがあります。

ビートルズの歌に "The Fool on The Hill" (丘の上の馬鹿)と歌があるんですけど、あれはガリレオのことだという話があるんですよ。丘の上に立ってずっと星を見上げて、地球が中心じゃなくて太陽が中心なんだよなと天体観測してるガリレオのことだそうですが、言うまでもなく、僕らからするとガリレオ・ガリレイは偉人です。科学史における人類の理性、科学の勝利の人物じゃないですか。だけど、当時、地球が中心に決まってるという常識を持つ人々からしたら「こいつ、なに言ってるんだ、頭がおかしい」って思われていたわけです。つまり、歴史が変わったから彼は偉人になり、丘の上での愚行も美談になるんですが、リアルタイムではとんでもなく勇気が必要なことだったと思うんです。

この人がいまこのままでは傷ついてしまう。この人をケアするためには、なにか自分の大切なものを捨て去らなければならない。社会のルールに反してでも、あるいは社会から白い目を向けられたとしても、いまこれをしなければならない。

というのが僕は利他だと思うんですよね。

後編につづく)

近内悠太(ちかうち ゆうた)

1985年生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。デビュー著作である『世界は贈与でできている』(NewsPicksパブリッシング刊)で第29回山本七平賞・奨励賞を受賞。2024年に2冊目の著書『利他・ケア・傷の倫理学』(晶文社)を上梓。


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