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映画監督が被る後遺症について

ボクサーやフットボール選手は、頭部に繰り返し衝撃が加えられると"パンチドランカー"と呼ばれる遅延性の神経変性疾患に見舞われる。

症状が後年になってから現れることが多いため、症状の進行具合などはまだ解明されていないが、ダメージの蓄積が選手のパフォーマンスを著しく減退させるというのは、よく知られる事実だ。

そのリスクを軽減するため、試合会場にはレフェリーやリングドクターが待機しているが、完全に安全なスポーツなど存在しないため、どうしても試合中に命を落としたり後遺症を患う選手が出てくる。

無論、選手もそのようなリスクは織り込み済みで、同意書へサインをし、ある覚悟を持って試合に臨んでいる。だが本当に安全を期すなら、いっそのこと試合をしない・させないのがベストなのではないか。

そんなことをいいだしたら、世の中からあらゆるスポーツが消え、オリンピックもなくなり、人類が進歩しなくなるではないかと反発の声が聞こえてきそうだ。だが、人間の代わりに機械が対戦するとしたらどうだろう。F1のようにメカニックを競い合うのだ。これはこれで、存外面白そうではないか。

コロッセオの殺し合いを現代人が野蛮だと思うように、現在のスポーツ観戦が、未来の観客から観た時、野蛮に映る可能性はかなり高いように思う。

しかし、機械がすべてを代替する時、カウンターとなるのもやはり肉体だから、すべてが安全・快適な社会では、危険なスポーツは寧ろ希少価値が増すかもしれない。そうなると、またぞろコロッセオのような見世物としての殺人を正当化し、家族で楽しむエンタメみたいなものになるかもわからない。

ところで、私が末端にいる映画ギョーカイにも、ボクサーよろしく命がけで映画を作っている猛者共がいる。
勿論、物理的に戦うわけではないから単純な比較はできないけれど、寝る間を惜しみ、借金を厭わず、作品と心中する覚悟で成功を掴み取ろうと必死になっている姿は、ファイターのそれと近しい気がする。
彼・彼女らの自己実現の舞台が、リングかスクリーンかの違いでしかないようにも映る。

だが、そんな猛者ですらも、大作に挑んで一回失敗したりすると、もう映画を撮れるような状況ではなくなってしまう。(ここでいう失敗は、興行的な失敗を指すのではなく、中断された作品やお蔵入りになった作品をも包含する)スタッフが愛想を尽かすとか支援がなくなるとか、そういった副次的な理由ではなく、シンプルに監督からモチベーションが消失して、映画から遠ざかってしまうのだ。

作品制作にまつわる大きな失敗は、監督自身にとって可塑性のないダメージを与え、その後のキャリア形成が困難になってしまう。有名監督ならまたチャンスがあるだろうが、そうではない大多数の監督にとっては、プロスポーツ選手における選手生命の終焉と似た状況を招き寄せてしまう。

しかし、ギョーカイは、そういったリスクに関して特に注意喚起などしていない。ゆえに今も、”情熱”だったり”気合い“がまかり通っている。

これは、一見すると美点のように思えるのだけど、その実かなり危険な態度ではないだろうか。

一昔前は、映画がポシャって借金を背負い、夜逃げしたという監督の話をよく聞いたが、今はどうなのだろう。クラウドファンディングなどがあるから、そこまで大事には至らないのだろうか。夜逃げする人間が「おれは今から夜逃げするからな!」等というわけもないので、気づかれてないだけで今も結構な数いるのかもしれない。(何しろ、日本だけでも映画は年600本近く作られているのだ)

私はギョーカイの末端にいるから、そのようなチャレンジ精神に共感はできなくとも理解はできるが、世間一般的には、映画で破産した人物もオンラインカジノで破産した人物も大差がないように映ることだろう。

そうなる前に、誰かが止めたり休ませたりしなければいけないわけだが、それは身内であるところの助監督やスタッフではなく、もっと関係ないところにいる第三者のほうがいいように思う。ボクシングにおけるレフェリーやリングドクターのような部外者であり専門家が必要なのだ。

明確なジャッジがあるわけでもなく、隣席する医師も存在しない中で、ファイトマネーが出るアテもないのに、映画というキメラと戦う監督(ファイター)の映画(試合)は、幾分耽美的だが概ね滑稽で、Don Quijoteよろしくの仄かな哀愁を誘う。

だが、当の監督は、本当に自覚しているのか。
1本の映画を撮る時、それがどれだけのリスクを背負い込み、どれだけのダメージを蓄積させることになるのか。
失敗すると、映画が撮れなくなるほどの心理的ダメージを引き受けることになり、しかもそのダメージは可塑性がないかもしれないということを。

パワハラ・セクハラですら後手後手に回った映画ギョーカイゆえ、監督の心理的サポートなどに手が回らないのは詮無い事だとしても、彼・彼女らの苦悩を美談と片づけ、失敗を見世物として享受するのは、コロッセオ同様野蛮で悪趣味極まりないものだ。

突貫的な対策として、私はエスキースとしての短編製作を推している。
大作と比較した時、予算や人員が少なくて済むため、失敗しても回復可能なダメージしか負わないからだ。

成功例は、当時高校生のケイン・パーソンズが作った『The Backrooms』シリーズであろう。

オリジナル版はそれこそ素描のような感じだが、ブレンダーを駆使した独自のリアリティと、4chan由来の都市伝説から導かれたゲーム的世界観、ジャンル分け不能な展開が話題を呼び、メジャーどころのA24らとタッグを組み、劇場用長編にセルフリメイクされることになった。(完成は今年?)

劇場用になって逆に魅力が削がれる可能性も多分にあるとは思うが、監督やその周囲の人間がノーリスク・ノーダメージで映画を作り果せるならば、それに勝る立ち回りはないだろう。

マイク・タイソンが今も健在なのは、現役時代に深甚なダメージを負わなかったからであり、それはとりもなおさず、ボクシングの技術が高いということを意味する。

ギョーカイにおいても、監督自身がダメージを負うことなく映画を作るスキル、立ち回りのようなものが浸透していくことを願ってやまない。



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