2025年10月21日の出来事*カダフィ大佐の命日の翌日、元フランス大統領サルコジ氏が収監される
ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(1955年1月28日 - )は、ハンガリー系プロテスタントのハーフ、ギリシャ系ユダヤ人のクォーター、フランス系カトリックのクォーター。
第23代フランス大統領を務めた。任期 2007年5月16日 – 2012年5月15日

疑惑調査から収監までの流れ
2011年3月に、2007年のフランス大統領選挙で、リビアのカダフィ大佐から5,000万ユーロに及ぶ違法な政治献金を受けた疑いが浮上しました。
この疑惑は、フランスがリビア内戦に介入した後、カダフィ大佐の息子サイフ・アル・イスラム・カダフィ氏の主張により表面化しました。
サルコジ氏はアラブの春(2010年~2012年)におけるリビア内戦へのNATOの軍事介入を主導したことで知られています。

2012年10月、フランスの治安判事は後にサルコジへの支払いが言及された元リビア石油大臣シュクリ・ガネムの日記を入手した。
しかし、その直後、ガネムはオーストリアのドナウ川に浮かんで死体で発見され、日記の裏付けが妨げられた。
◆2013年、司法警察中央総局(DCPJ)は、サルコジの2007年の選挙運動にリビアが資金を提供した疑惑について正式に調査を開始した。
◆2015年3月6日、サルコジの元首席補佐官クロード・ゲアンが逮捕された。彼はマネーロンダリングと偽造の罪で起訴された。
捜査当局は、ゲアンがリビアからの資金移動を促進するのに尽力し、個人的に50万米ドルを受け取った可能性があると主張している。
ゲアンはこれらの疑惑を否定し、そのお金はマレーシアの弁護士に売ったアンドリース・ファン・エルトベルトの絵画2点の代金であると主張した。彼は、売却はサウジの実業家ハリド・アリ・バグシャンによって手配されたと主張している。
ゲアンの逮捕と同じ日に、ハリド・アリ・バグシャンも尋問のために警察に拘留されたが、起訴はされなかった
◆2018年3月、サルコジ時代の内務大臣ブライス・ホルトフが自発的にフランス警察に出頭して尋問を受けた。この調査に関連して数人が逮捕された。
◆2018年3月20日、サルコジは身柄を拘束されパリ郊外の警察施設で事情聴取を受け、聴取後に釈放されたが、3月21日に汚職、違法な選挙資金調達、リビアからの公金の隠匿の容疑で訴追された。
この捜査は、サルコジと彼の弁護士ティエリー・ヘルツォークの間の盗聴された会話に関する別の汚職事件につながった。
サルコジは2021年3月1日に汚職容疑で有罪判決を受けた。この有罪判決はその後、2023年5月にパリ控訴裁判所によって支持され、懲役3年の判決が確認された。

2004年のクリアストリーム事件でヘルツォークはサルコジを擁護している。
2010年に億万長者のリリアンヌ・ベッテンクールが小説家のフランソワ・マリー・バニエとサルコジに関連するフランス政府のメンバーに違法に支払った疑惑を含むベッテンクール事件でサルコジを弁護した。

◆リビア資金供与疑惑に関する本裁判は、2025年3月27日、金融検察庁からの量刑請求で終了した。検察はサルコジ氏に懲役7年、罰金30万ユーロ、選挙出場禁止5年を求刑した。
◆2025年9月25日、パリの裁判所は「側近や支持者を通じて資金獲得を図る行為への関与」が認められるとして禁錮5年の有罪判決を言い渡した。一方、汚職や違法な選挙資金受領の罪については無罪とした。
有罪判決には控訴の有無に関係なく収監される「仮執行」がついており、10月21日、パリのサンテ刑務所に収監された。フランスで第5共和制が始まった1958年以降、大統領経験者が収監されるのは初めて。
サルコジ氏のホロスコープ
(データバンクより)

21日の天秤座新月は。サルコジ氏の天秤座海王星にコンジャンクションでした。
また、ネイタル蟹座木星のリターンが起きています。そして蟹座木星に対して、トランシット冥王星がオポジションの範囲。
木星と冥王星のハードは権力への渇望。
9月21日の日食の4日後に有罪判決が出されています。
このときの日食は天秤座28度に火星があり、冥王星とスクエアでした。
フォーチューンが牡羊座28度にあり、サルコジ氏の木星を加えるとグランドクロスでした。
カルマの清算なんでしょうかね。
あるいは別の「証人保護」の可能性もあるかも。警護が2名ついているそうです。
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ところで、サルコジ氏が収監される2日前のルーブル美術館の宝石強盗と同じ日に起きた別の博物館の金貨銀貨コレクションの盗難は、何か関係があるのかしら?
(ルーブル宝石強盗事件については別記事にします)
サルコジ氏が収監された独房↓
狭いけどバストイレ付だし、病院の個室のようで悪くなさそう。

受刑者らがサルコジを脅迫し、カダフィ大佐の復讐を誓う(ビデオ) — RT World News
フランスとリビアの関係
中東から見ると、「カダフィはサルコジに裏切られた」と思っています。
リビアは、1967年6月の6日間戦争(イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダンの間で起きた第三次中東戦争)後、フランスと緊密な関係になりました。
しかし、フランスはイスラエルの主要な武器供給国でもあり、1978年にカダフィ大佐は、経済関係は良好ではあったが政治関係は良好ではなかったと述べています。

1980年代のチャド内戦でリビアとフランスの間に不和が生じ、1989年9月19日のUTA772便爆破事件の余波で大幅に悪化しました。
乗客と乗組員170人全員(フランス国民54人を含む)が死亡した爆破事件は、フランス当局はリビアによって引き起こされたテロ事件としている。
動機として、チャドに対するフランスの軍事的関与に対するリビアの反発があったとされる。
リビア人5名がテロに関与したとして告発され、2003年になってリビア政府は事件に対する法的責任を認め、事件の犠牲者の家族に対して15億ドルの補償を行った。
2007年12月、サルコジ大統領は就任後、カダフィ大佐をフランスに招待しました。
カダフィ大佐のフランス訪問は35年以上ぶりの訪問で、フランス政府はカダフィ大佐のルーヴル美術館訪問のために交通をすべてストップしました。
訪問中、フランスはリビアにエアバス機21機を売却することに合意し、両国は核協力協定に署名しました。

2011年リビア内戦
アラブの春(2010年~2012年)は、チュニジアで起きたジャスミン革命が中東に飛び火して始まりました。
翌年にはヨルダンでも反政府運動が始まって、2月に内閣が総辞職するというハイ・スピード。エジプトでも革命が起きて大統領が辞任などなど。
2008年に冥王星が山羊座に入って、古い社会の崩壊が始まったタイミングでした。アメリカ大統領はオバマ氏でした。
2011年2月に始まったリビア内戦でカダフィ政権は崩壊し、同年10月20日に身柄を拘束されたカダフィ大佐はその攻撃で死亡しました。
10月23日に内戦終結が宣言されましたが、その後も親カダフィ勢力およびイスラム国の台頭を招き内戦は現在も継続しています。
2011年リビアへの軍事介入(2011年3月19日〜2011年10月31日)
◆3月10日:サルコジ大統領はリビア国民評議会(NTC)をリビアの正統政府として承認した。会談は哲学者ベルナール=アンリ・レヴィが手配した。

ユダヤ人姓(レヴィ)のベルナール=アンリ・レヴィ氏は、フランス領アルジェリアで、セファルディム家系の家に生まれた。
1976年まで、フランソワ・ミッテラン(第21代フランス大統領(在任:1981年5月21日 - 1995年5月17日)のアドバイザーを務めていた。
リビア内戦の際には、旧知の仲であったサルコジ大統領にカダフィ政権打倒を目指す国民評議会議長ムスタファ・モハメド・アブドルジャリルとの会談を進言した。サルコジはこの進言を受け入れ、アブドルジャリルと会談を行った上で国民評議会をリビアの合法政権として政府承認した。
◆2011年3月14日:G8外務大臣との首脳会談に先立ち、G8議長でもあるサルコジは、ヒラリー・クリントン米国務長官と会談し、リビアへの介入を推し進めるよう圧力をかけた。
ヒラリーは、のちにカダフィ大佐が殺害された報告が届いた際、ローマ皇帝ユリウス・カエサルの有名な言葉「来た、 見た、勝った」をもじった ”来た、見た、死んだ”(”We came, we saw, he died”)と言い換えて行ったと報道された。
◆2011年3月18日:オバマ米大統領は、ホワイトハウスからの国民向け演説で、リビアに対する軍事空爆を命じた。
◆2011年3月19日:フランス軍はリビアへの軍事介入を開始し、その後連合軍が加わった。ユニファイド・プロテクター作戦

アメリカ軍最初の攻撃だったオデッセイの夜明け作戦(2011年3月19日)は、リビアの首都トリポリや西部ミスラタの近郊など沿岸部の計20ヶ所のリビア軍防空・通信施設を標的に、計114発のトマホーク巡航ミサイルを発射した。この攻撃により民間人40人以上が死亡、150人以上が負傷。
報告書によると、フランスが介入を開始した動機は、人道的だけでなく経済的、政治的でした。
ヒラリーの顧問シドニー・ブルメンタールは、フランスの高官によると、フランスがカダフィ大佐を打倒した動機は、リビアの石油生産に占めるフランスのシェアを増やし、アフリカにおけるフランスの影響力を強化し、国内でのサルコジ大統領の地位を向上させることだったと報告しました。
リビア内戦の余波(ヨーロッパの難民危機)
リビア内戦の総犠牲者数(民間人を含む)は、死亡3万人以上、行方不明4千人、負傷5万人と言われています。

内戦勃発当初、毎日4,000人もの難民が陸路でリビア・チュニジア国境を越えました。リビア人だけでなく、エジプト人、チュニジア人、トルコ人も含まれていたそうです。
多くの人々が隣国のチュニジア、エジプト、チャド、また地中海を渡ったヨーロッパ諸国に避難し、ザ・ウィーク誌は2011年5月の記事で、約74万6000人がリビアから逃れたと主張しました。
第二次リビア内戦(2014~2020年)では、さらにリビア人口のほぼ3分の1、約200万人のリビア人が難民としてチュニジアに逃れたと推定されています。
リビアは、ヨーロッパへの移民の主な出口となり、イタリアのランペドゥーザ島には、2011年の最初の5か月間で4万5000人以上の難民が到着しました。このほとんどが20代や30代の若い男性であり、この事態が現在のヨーロッパでの移民問題の原因になっています。

南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領は、「NATO軍による組織的な爆撃は治安を損ない、リビアと近隣諸国で続いている紛争を引き起こした。リビアへの砲撃とその指導者の殺害が水門を開いたのです。」と述べています。
シリア内戦
リビア内戦終結により、民主化闘争の中心地はシリアに移りました。
リビア・フレンズ会合で議長を務めていたサルコジ大統領は、シリアの友人たちの結成を主導しました。
国営のシリア·アラブ通信社は「シリアに対する一連の陰謀に関与する集まり」と批判し、参加者は「シリアの敵」と呼びました。
シリア内戦では、2024年12月にアサド政権が崩壊し、暫定大統領が任命されたものの内戦状態はまだ継続しています。


国際連合は、2012年5月下旬の時点でシリア内戦の死者数の推計は不可能と判断しています。シリア人権監視団は2013年8月末の時点で死者が11万人を超えたと発表しました。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の推計によると、2017年までに元の居住地を離れて国内で避難生活を送った人の数は約630万人にのぼり、500万人以上が国外に逃れています。世界最大の難民が発生しました。
シリア難民の主な行き先はトルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトがあり、トルコなどを経由してヨーロッパなどに渡ったケースも多くあります。


2012年7月23日にウィキリークスによって漏洩されたヒラリー・クリントンの電子メール。
「シリアのアサド大統領の失脚は、この地域のシーア派と多数派のスンニ派の間で宗派戦争を引き起こす可能性があり、それはイスラエルと西側同盟国に利益をもたらすだろう。」

つまり・・・シリア内戦はイスラエルとアメリカのためでもありました。
シリアは石油パイプラインの通り道で、西側の国はみんなシリアを占領したいのです。
シリアについてはまたいつか。
今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。
