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備忘録:イギリス第一次産業革命とカロライナ植民地の奴隷貿易

アメリカのイギリス13植民地時代、もっとも早く成功したのはバージニア植民地でした。

1607年にバージニア会社によって設立され、1624年にバージニア王室領植民地(Crown colony, 1624年 - 1776年)となった。
1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ合衆国最初の13州の1つ、バージニア州となった。

バージニア植民地は、当初は金の探求を行うはずでしたが、病気、飢餓おびインディアンとの紛争で死亡者が多く、また金も見つからなかったためタバコ栽培に切り替えました。


バージニア植民地の地図

しかし、タバコの栽培は短期間で土地が痩せてしまうため、新たな土地を求める膨張主義が生じ、ひんぱんにインディアンとの衝突が起きて、戦闘に発展しました。
アングロ・ポウハタン戦争

さらなる領地争いが高じて、1754年頃からオハイオ川流域ではイギリスとフランスの対立が顕著になり、当時のヨーロッパの覇権争い(第二次百年戦争)の一環であるフレンチ・インディアン戦争(1754年 - 1763年)に繋がりました。




イギリスの経済成長と年季奉公人の減少

産業革命は、1760年代に始まり1830年代まで長期にわたり進行しました。
初期の軽工業中心の時代を「第一次産業革命」、電気・石油による重化学工業への移行は「第二次産業革命」と呼ばれています。

産業革命以前の生産形態は、主としてマニュファクチュアでした。
イギリスにおけるマニュファクチュアの発達は、中世末期には毛織物業が中心であり、毛織物工業で蓄積された資本がのちに綿織物工業に利用され、産業革命につながったと分析されています。

第一次産業革命は、イギリスにとって最初の帝国拡大期でもありました。
植民地産品の国内への流入に加え、ヨーロッパ諸国への再輸出や、雑工業製品の植民地への輸出によって急激な商業の成長が起き、イギリスは産業革命に必要な資本を蓄積しました。

初期の植民地の労働者の多くは(アフリカ人を含む)出稼ぎの年季奉公人でしたが、イギリス本国の経済成長に伴い、年季奉公人が減少していきました。
そのため人手不足を補うために植民地では奴隷貿易が盛んになっていったわけですが、奴隷所有は年季奉公人に比べて高い買い物だったそうです。
4年契約の年季奉公人の価格は一人約15ポンド、奴隷は一人25~30ポンドで取引されていたとのこと。

投資と考えれば、奴隷は終身労働なので「死にさえしなければ」お得な買い物だと考えられるようになった
奴隷をなるべく死なないように使役すれば割が良い、という風潮が強まり急速に年季奉公人から黒人奴隷労働への転換が進んだ。
1650年にチェサピーク湾地域の黒人奴隷はたったの300人(全人口の2%)しかいなかったのが、1700年には1万3000人(13%)に跳ね上がった。

<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2


奴隷制は、非キリスト教徒および非ヨーロッパ系の人々と結び付けられていました。
1705年のバージニア議会の宣言では、「輸入され、国に連れてこられたすべての使用人で、母国でキリスト教徒ではなかった者(女王陛下と友好関係にあるトルコ人、ムーア人、および船で送られる前にイングランドまたはその他のキリスト教国で自由であったことを正当に証明できる者を除く)は、奴隷とみなされ、その後キリスト教に改宗したとしても、ここで売買される」とありました。

奴隷輸入禁止法(1807年)が成立するまで南部では奴隷制が常態化するようになっていき、1750年までに13植民地の23万5000人の奴隷のうち85%がバージニアを含む南部植民地に居住していたそうです。


蒸気機関の発明による機械化の開始

ジェームズ・ワットは、1769年に新方式の蒸気機関を開発しました。
1767年に複数の糸を同時に撚ることができるジェニー紡績機が発明されていましたが手動だったため、1769年には水車を動力とする水力紡績機が作られました。

天王星が双子座に入ると(1775年)、アメリカ独立戦争が始まりますが、戦闘は北米大陸で行われため、イギリス本国の産業革命が停滞することはなかったようです。
1779年にミュール紡績機が発明され、改良が重ねられて1830年代には完全自動化となり、労働形態も変化していきました。


1785年に蒸気機関を動力とした世界初の力織機 (power loom) が作られました。

かつてイギリスの綿織物は製品をインドから運んでいましたが、イギリスの主力産業であった毛織物の輸出を綿製品が上回るようになり、1800年代の始めには綿織物は新たなイギリスの主力産業となっていったのです。

(イギリスの毛織物と綿織物について熱く語りたいのですが、長くなるので今回はやめておきます(苦笑)

1793年にアメリカで綿繰り機(コットンジン)が発明され、1825年にはこちらも完全に自動化されました。

コットンジン


タバコ栽培から綿花栽培へ変化

イギリスの綿織物の発展によって綿花需要が大幅に増加し、アメリカ南部のプランテーションに大きな影響を与えました。

綿花は非常に労働集約的な作物であり、綿花の綿実から繊維を手摘みする必要がありましたが、綿繰り機コットン・ジンの発明後は南部全域に綿花プランテーションが出現しました。

コットン・ジンによって加工費が下げられたので、綿花は利益の出る作物になりました。

大勢の入植者がジョージア州やノースカロライナ州、そしてバージニア州のタバコ栽培地域からも移ってきました。
1798年から1820年にかけて、人口は9,000人未満から22,000人以上に急増しました。


濃赤色の地域がコットンベルトと呼ばれる。ただし桃色の地域でも綿花は育つ。

コットンベルト(綿花地帯)
一般的にはミシシッピ州、アラバマ州を中心に、東のジョージア州やサウスカロライナ州、西のアーカンソー州やアラバマ州、北のテネシー州などが該当し、そしてさらにその周辺であるノースカロライナ州、バージニア州、メリーランド州、フロリダ州、テキサス州なども定義に含まれる事がある。

ミシシッピ州ナチェズのプランテーションで、高地帯でも栽培可能な新しい交雑種が作られ、ナチェズはいち早く大生産地となりました。

ナチェズの公式紋章

ナチェズは、ミシシッピ州では最も活発な奴隷貿易市場にもなりました。

アンドリュー・ジャクソン大統領も、1788年から1844年までナチェズの奴隷商人だったと言われています。

建国の父たちの大統領とは異なり、ジャクソンは両親から奴隷や土地を相続していなかったため、財産を築くために奔走した。
彼は食料品、乾物、ワイン、ウィスキー、毛皮、毛皮、家畜、馬を売買し、闘鶏を奨励し、競馬場を建設し、フラットボートを販売し、海運業を営み、軍用地の証券に投機し、インディアンから奪った土地を転売し、彼の奴隷と監督官が十分な量の貴重な換金作物である綿花を栽培した。
彼は弁護士をしており、裁判官であり、黒人の売買も行っていた。


カロライナ植民地と治安維持法

現在のサウスカロライナ州におけるヨーロッパ人の入植は、1651年以降に大規模に始まりました。1567年にスペイン人が入植していたそうですが、先住民の攻撃で全滅しました。

「カロライナ」はラテン語で「チャールズ」(Carolus)に由来し、チャールズ1世に敬意を表して名付けられた。

1729年にカロライナ植民地がノースカロライナとサウスカロライナに分かれ、どちらもイギリス王室の直轄植民地になりました。
1729年以前は8人のイギリス貴族に勅許された所有植民地でしたが、イギリス王室が7人の領主から買い上げて王室領にしたわけです。

土地を売却しなかったのはチャールズ1世の廷臣ジョージ・カートレットの子孫だったグランヴィル伯爵でした。
グランヴィル伯爵はノースカロライナの半分を所有していましたが、独立戦争後に土地はノースカロライナ州に没収されました。現在はグランビル地区という名前が残っています。


地理的な条件は悪かったノースカロライナにはバージニア植民地からの開拓者が定住し、多くはタバコ栽培農家でした。入植者のほとんどはイギリス人でしたが、スイス人とドイツ人で構成された地域もあったそうです。

サウスカロライナよりは少ないが大規模農園を所有するプランターがおり、奴隷を所有しない「ヨーマン」農民よりも政治的、社会経済的に大きな影響力を持ちました。
港湾の劣悪さと危険な海岸線のため、バージニア州またはサウスカロライナ州から奴隷を輸入していたそうです。

ノースカロライナの奴隷人口は、1712年の800人から1730年には6,000人、そして1767年には約41,000人に増加した。

興味深いことにノースカロライナでは、白人女性と自由黒人の男性の結婚が認められていた時期があったようです。


サウスカロライナの奴隷貿易港チャールストン

サウスカロライナにはバルバドスのプランテーション所有者(後述するラドソン家)が移住し、藍と米栽培を中心に大規模な奴隷プランテーションを設立しました。
藍は衣類や糸を青く染める染料として使用されました。アメリカ開拓時代を象徴するようなデニムジーンズの色ですね。


チャールストン市旗


サウスカロライナ州の州都チャールストンは三角貿易(大西洋奴隷貿易)の主要な港となり、13植民地の中で最も繁栄した植民地の1つになりました。1770年頃の人口は11,000人で、その半数強が奴隷だったそうです。
チャールストンでは、奴隷は家事奉公人、職人、市場労働者あるいは作業員として働いていたそうです。

イングランド王チャールズ2世の名に因み、チャールズタウン(CharlestownあるいはCharles Towne)として1670年にアシュレー川西岸に建設され、1680年に現在の場所(オイスター・ポイント)に移された。
現在の都市名は1783年に採用された。

チャールストンは同じく貿易港を持つジョージア州サバンナとは姉妹都市(姉妹港)


チャールストンは初期の開拓者は主にイングランドから来ていましたが、非カトリックに限定されていた都市でした。

初期の移民グループには、ユグノー(フランス)、スコットランド、アイルランド、ドイツ人、そして数百人のユダヤ人が含まれます。
セファルディ(イベリア半島のユダヤ人)のディアスポラとなり、チャールストンのユダヤ人コミュニティは北アメリカで最も著名で裕福でした。

1736年にアメリカで最初の劇場が造られ、1748年には裕福な市民によってチャールストン図書館協会が設立されるなど、文化的に成熟していました。南北戦争では、チャールストンは激しい攻撃対象にもなりました。

1865 年、南北戦争で廃墟と化したチャールストン


インディアン奴隷貿易

チャールストンの初期の経済は、鹿皮の交易によって発展しました。
先住のインディアンの協力で鹿皮を得ていたほか、インディアンにも奴隷制度があったため、部族同士の戦いで捕虜になったネイティブアメリカンを入植者が買って自分の使用奴隷にしたり、チャールストンの港から西インド諸島の砂糖プランテーションの労働力として輸出していました。
のちには北部の植民地にも輸出されたそうです。

歴史家は、1670年から1715年の間に2万4千人から5万1千人の捕虜となった先住民がカロライナの港から輸出されたと推定しており、カロライナに輸入されたアフリカ人奴隷よりも上回っていたと言います。

この背景には、先住民インディアンが「捕虜を多く獲得することが勇敢な証」と考えていたため部族間で常に争っていたことや、入植者にとっては「アフリカ奴隷よりもインディアンのほうが安かった」ということがありました。

アメリカ合衆国における先住民の奴隷制度

1675年12月、カロライナの大評議会は、ネイティブアメリカンの奴隷化と売買を正当化する文書を作成し、イギリス人入植者が友好関係を築いた部族の敵対者が奴隷の標的であり、奴隷にされた者は「無実のインディアン」ではないと主張した。
また、評議会は「同盟インディアン」が捕虜を捕らえることは彼らの意向の範囲内であり、捕虜は国内で働くか、他の場所に移送される意思があると主張した。

1715年から複数の部族と入植者との間で壮絶な争い(ヤマシ―戦争)が1年以上続き、数百人の入植者が殺害されたことからカロライナはインディアン奴隷をやめアフリカ奴隷にシフトしました。

ヤマシ―戦争の原因は複雑に絡み合っていますが、鹿の乱獲によって鹿の生体数が枯渇したこと、プランテーションの拡大(領地争い)がありました。
そのほかに見逃せないのがフランスの勢力拡大(浸食)があると思います。

ヤマシ―戦争はカロライナが王室直轄になった経緯でもありました。ジョージア植民地設立にも影響したそうです。


奴隷反乱と黒人法

1739年9月9日に、南部で最大の奴隷反乱(ストーノの反乱)がサウスカロライナ植民地で起きました。
25人の入植者と35~50人の奴隷が殺されたそうです。
捕らえられた奴隷のほとんどは処刑され、生き残った者は西インド諸島の市場に売られました。

背景には、マラリアの流行によりチャールストンでは多くの白人が死亡し、奴隷所有者の力が弱まったことがあると言われます。
その後、ジョージア州でも奴隷の蜂起が起こりました。

奴隷の反乱により、1739年の治安維持法ですべての白人男性は教会に行く時も武器を携帯することを義務付けられたそうです。
州議会は1740年に黒人法を可決し、奴隷の自由を制限し、新しい奴隷の輸入を一時的に停止しました。

この法律は、どのプランテーションでも白人1人に対して黒人10人の比率を要求しました。奴隷が自分で食べ物を育てたり、集会、食料調達、お金を稼ぐこと、書くこと学ぶことは違法になりました。
さらに所有者は反抗的な奴隷を殺すことが許されました。この法律は1865年まで有効でした。


チャールストンの奴隷商人

やがて綿がサウスカロライナの主要輸出品となり、チャールストンは奴隷貿易の主要な港として有名になりました。

チャールストンで有名な奴隷商人ジョセフ・ラッグ(1698年 - 1751年)は、兄のサミュエルとともに移住してきたイギリス人でした。
二人ともサウスカロイナで大規模な奴隷貿易商となり、1717年から1744年の間に、アンゴラから約1万人の奴隷を輸入したと言われています。
ジョセフもサミュエルものちにサウスカロライナの政治家になりました。

ラッグバラ地区は彼にちなんで名付けられ、チャールストンの 2 つの市立公園と 7 つの通りは、彼とその子孫にちなんで名付けられています。


ウルズラ・フォン・デア・ライエン氏との関係

ジョセフ・ラッグには、実業家、弁護士、政治家としてアメリカ社会で活躍した多くの子孫がいます。
EU委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏は、アメリカ人の曾祖母メアリー・ラドソン・ロバートソンを通してラッグの子孫とのことです。

ウルズラ・フォン・デア・ライエン

余談ですがウルズラさんの父は、ドイツ・ニーダーザクセン州首相(CDU所属)を務めたエルンスト・アルブレヒト氏で、アルブレヒト家は17世紀以来、ハノーファー選帝侯国のヒュプシェ(上流階級)の家で医師、法律家、公務員として活躍していました。

ウルズラさんの曽祖母は、チャールストンで何百人もの奴隷を所有していたラドソン家の一員でした。ラドソン家はクェーカー教徒だったそうです。
クェーカー教徒はのちに奴隷廃止運動を先導するようになります。

ラドソン家とジョセフ・ラッグの孫娘ジュディス・スミスが結婚してウルズラさんの先祖に繋がりました。
ちなみにウルズラさんは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学していた頃、ドイツの過激派からの誘拐を避けるためローズ・ラドソンという偽名で生活していたそうです。

1986年に医師のハイコ・フォン・デア・ライエンと結婚。フォン・デア・ライエン家は絹織物商として財を成したハノーファーの貴族の家系です。

ちなみに夫のハイコ氏はドイツ福音教会のルーテル派信徒。
2020年12月からは、遺伝子治療を専門とするOrgenesis社の医療ディレクターを務めています。

オルジェネシスは、新型コロナウイルス感染症のパンデミックを背景に、さまざまな医薬品の開発に投資しています。

今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。

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