パリとイシスとメロヴィング~ノートルダム大聖堂復活記念①
5年前の2019年4月15日の大規模火災で損傷を受けた、パリのノートルダム大聖堂の修復が終わり、2024年12月8日に一般公開が始まります。
パリ ノートルダム大聖堂 修復された内部が初公開 5年前の火災からの再建工事経て12月に一般公開へ | NHK | フランス
12月7日に各国の首脳なども招いて式典を開いたあと、8日に最初のミサが行われます。
フランス紙Journal du Dimanche(JDD)は、ノートルダム大聖堂の開会式に、スペインのフェリペ6世国王、イギリスのチャールズ3世など、多くの人が招待を辞退したと報じています。
New footage from inside the resurrected Notre-Dame de Paris — opening again on 7 December.
— Culture Critic (@Culture_Crit) November 29, 2024
Yeah, I'm thinking we're back.pic.twitter.com/EFMeP3O02H
前回、パリ・ノートルダム大聖堂がひどく破壊されたのは、1790年代のフランス革命でした。
フランス革命では他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像は破壊されて埋められました。
ノートルダムまたはノートル=ダム(Notre-Dame)はフランス語で「我らの貴婦人」という意味。イエス・キリストの母である聖母マリアを指す。
フランス革命の頃と同じように冥王星が水瓶座に入り、革命と破壊が始まることを案じずにはいられないですが、この記事ではパリの成り立ちについて備忘録を兼ねて書いていきます。
パリジャンとはパリシィ人のこと
パリのセーヌ川には2つの自然島があり、ひとつがサン・ルイ島(旧ノートルダム島)、もうひとつがノートルダム大聖堂が建っているシテ島です。


現在のノートルダム大聖堂が建てられたのは1163年と言われていますが、それ以前のシテ島はどういう場所だったか、あまり語られていません。
ユリウス・カエサル(シーザー)の『ガリア戦記』によると、パリシイ族(Parisii)が住んでいたと記されています。
ローマ人が船着き場としても使える島を放っておくはずはありませんね。
パリシィ人の集落ルテティア(ルテシア)
パリの名前の由来は、先住民族のパリシィ人にちなんでいるという説があります。パリジャンとはパリシィ人のことです。
パリシイ人は鉄器時代のケルト民族の1つで、紀元前3世紀中頃からローマに征服されるまでセーヌ河岸に住んでいました。
民族名Parisiiは、ガリア語のParisioiのラテン語化です。

紀元前52年にローマはパリ盆地を征服し(ルテシアの戦い)、シーザーは兵士とガリアの補助部隊の基地として、ルテティアLutetia、またはルテシア(Lutèce)という名前の都市を建設しました。
この名前はラテン語のlutaに由来し、泥や沼地を意味するようです。
ルテティアは、セーヌ川とローヌ川を経由して、英国とローマ植民地のプロヴァンスと地中海を結ぶ主要な貿易ルートにありました。
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ルテティアの正確な場所は長らく不明でしたが、1900年代に入り地下鉄や高速道路を建設するため地下を掘削しているときに15ヘクタール以上(シテ島の2倍の大きさ)もある遺跡や墓地が発見されたということでした。
都市の大部分はセーヌ川の左岸にあり、標高が高く洪水が発生しにくい場所でした。2つの木製の橋をシテ島にかけていたそうです。
船着き場は、現在のノートルダム大聖堂の前庭(パルヴィスノートルダム – ジャンポール2世広場)に作られていたようです。


紀元3世紀後半、フランク人とアレマン人という2つのゲルマン民族の侵略により、左岸の住民の多くが安全なシテ島に移りました。
ルテティアにはまだ要塞がなかったため、ローマ式浴場や円形劇場を壊して、その石を島の周りに城壁を建設するために使用したそうです。
そのため都市の大きさは、100ヘクタールから、左岸の10〜15ヘクタール、シテ島の10ヘクタールに縮小され、新しい大聖堂と浴場が建設されました。
その跡はノートルダム大聖堂の前にあるパルヴィスノートルダム – ジャンポール2世広場の地下で見ることができます。
パリシイ族は、ケルト人の大移動の時にイギリス諸島に移住したと言われています。
遺産:ノートルダム寺院前の広場の下、パリの歴史 - Le Parisien



357年から358年にかけて、(キリスト教会に背教者と呼ばれた)ユリアヌス帝は、歴代のローマ皇帝の別荘地であるキリスト教化されたドイツのトリーアからルテティアにガリアの首都を移しました。
ユリアヌス帝はローマがキリスト教を認めたあと、政府機関の中枢にキリスト教徒が重用されたことに納得がいかなかったので、政治や教育部門からキリスト教徒を排除すべく、異教として禁止されてしまった古代ローマの神々への信仰を支持していました。(ユリアヌス帝は、志半ばで戦死してしまいましたが)
ローマと違ってガリアにはまだ多くの異教の神殿が残っており、異教の復活を願ったユリアヌス帝がルテティアを首都にした理由だろうと思います。
ユリアヌス帝は、ルテティアをパリシウス(後にフランス語でパリスとなるラテン語の名前)と改名したと言われています。

ノートルダム大聖堂の地下で発見された記念碑「船頭の柱」のローマ名はNautae Parisiaci (ガリア人の部族であるパリシイ族の船乗りたち)
この柱は、パリシイ族のルテティアの船員組合によって公的に設置された(publice posierunt) 。
碑文はラテン語で書かれ、ガリア語の特徴もいくつか残されており、ローマの神々とガリア特有の神々が混在している。
これらの船員は、セーヌ川沿いを航海した商人であったと思われる。
水上商人によって発展したパリ市の紋章

セーヌ川の由来となったのが、ケルトの泉の女神セクアナと言われています。セクアナがケルト神話に分類されているのは、ローマ人なら川に男性的な名前をつけるはずだから、ということのようです。
パリ市のモットー たゆたえども沈まず(Fluctuat nec mergitur)
「どんなに強い風が吹いても、揺れるだけで沈みはしない」ことを意味する。
もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だった。
フィリップ2世(在位:1180年 - 1223年)の時代に、パリ水運商人組合が結成され、パリ市の紋章の原型となるパリの水商人の印章が作られました。
のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになります。


ナポレオン時代には紋章が変更され、フルール・ド・リスに代わって3匹の蜂が描かれました。船は女神イシスが正面に座っていると表現され、星が加えられています。


現在の紋章は1949年8月20日に付与されたもので、船は14世紀と同様のデザインの大きなガレー船のように描かれています。
古代エジプトの女神イシスの船『Bar-Isis(バリス)』と言われています。


パリ4区の紋章は、シテ島を象徴する図像の2つの要素が描かれています。
紺碧とフルール・ド・リスはシテ宮殿とフランス王を、銀の十字架はパリのノートルダム大聖堂をイメージしています。

パリ市の紋章と同じガレー船を紋章に取り入れたのは、パリの大司教だったヴェルディエ枢機卿 Le cardinal Verdier (1929-40) 。
枢機卿であることを示す飾り房付きの帽子、アヴェ・マリアのモノグラム AM と2つの六芒星 が描かれています。
メロヴィング朝とシテ島
5世紀、メロヴィング朝のクローヴィス1世の息子キリデベルト1世(在位:511年 - 558年)は、シテ島にサンテティエンヌ大聖堂を建てました。
シテ島はメロヴィング朝の本拠地だったそうです。
サンテティエンヌ大聖堂は、聖ステファノ(エティエンヌ)に捧げられた教会でした。当時としては非常に大きかったそうです。

ステファノは、新約聖書の『使徒行伝』に登場します。ギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人)で、キリスト教における最初の殉教者と言われています。
ステファノは、ファリサイ派によって石打ちの刑に処せられましたが、当時まだファリサイ派だったサウロ(後のパウロ)がこれに加わっていました。
ステファノは最初の殉教者として崇敬され、キリスト教国では広く洗礼名として用いられる。
ステファノス(ギリシャ語)
ステファノ (イタリア語)
スティーヴン(英語)
エチエンヌ(フランス語)
シュテファン(ドイツ語・セルビア語)
エステーベ、エステバン(スペイン語)
ステファン、ステパン(ロシア語等スラヴ語圏)
イシュトヴァーン(ハンガリー語)
ファリサイ派(聖書ではパリサイ人と書かれている)は、現在のユダヤ教の主流となっており、正統ユダヤとも呼ばれています。
イエスの時代のユダヤ教は、神殿と礼拝重視のサドカイ派(富裕層が多かった)と、モーセの律法重視のファリサイ派(市民階級)、イエスが所属していたと見られているエッセネ派は「神殿によらずして神に仕えることができる」という発想を持っていました。
エッセネ派は第二神殿が破壊された西暦70年以降、ファリサイ派に吸収されたと見られています。

エッセネ派とキリスト教の儀式には多くの共通点があります。
クムランで発見された死海文書には、救世主によって開始されるパンとワインの食事を説明しています。
新約聖書は、クムランのコミュニティが使用した著作を引用している可能性もあります。(ルカ1:31-35)
メシアへの期待、肉体の復活の概念、天使への信仰、そして最後の審判が共有されています。そのほか、砂漠、光のテーマなど。
しかし、イエス自身は独身主義でも禁欲主義でもなく、洞窟に籠って修養するでなく公の場に出て衆前に道を説くことを弟子たちに示しています。
パリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴ
420年頃にフランス中央部のナンテールで生まれたとされているジュヌヴィエーヴは、クローヴィス1世の妻クロチルダと懇意でクローヴィス1世をキリスト教の改宗に導いたと言われています。
クローヴィス1世の王妃クロティルダについて書きました。
よかったらこちらもご覧ください。
ジュヌヴィエーヴという名前はケルト語で「白い頬」を意味するそうです。

両親の死後、ジュヌヴィエーヴはパリに移住し、祈りと慈善活動に専念し、病人を治すなど数々の秘跡を行ったそうです。
サンテティエンヌ大聖堂の北側に、洗礼者聖ヨハネに捧げられた洗礼堂が建てられており、彼女はそこの鍵を持っていた(管理者?)と言われています。
この洗礼堂は18世紀までは存在していたようです。
フン族が451年にパリを攻撃する直前、ジュヌヴィエーヴはパリは免れるが、パリから逃げた者は殺されるだろうと予言しました。
ジュヌヴィエーヴと教会の助祭長は、パリの女性たちに祈りと懺悔の行為をしてパリを難から救うよう説得しました。
ジュヌヴィエーヴの祈りのとりなしによって、アッティラの軍隊はパリを避けオルレアンに向かったと言われています。
これは「祈りのマラソン」と呼ばれ、ジュヌヴィエーヴの「最も有名な偉業」となりました。
メロヴィング朝の初代王メロヴィクスとその息子キルデリク1世は、異教徒でありながらジュヌヴィエーヴを女神とみなして、特に尊敬していたそうです。
キルデリク1世の息子で後継者であるクローヴィス 1 世は、496年にキリスト教に改宗したと言われていますが、私の調べはもう少し後です(笑)

フランス革命で破壊されたカトリック
502年にジュヌヴィエーヴは89歳で死去し、クローヴィス1世は彼女の為に教会を建て弔い、クローヴィス1世もクロティルダも死後はそこに埋葬されました。

サントジュヌヴィエーヴの古代教会は1746 年に再建され、その頂上には新古典主義様式の大きなドームが取り付けられました。
フランス革命では歴代の王の墓が破壊されただけでなく、アンシャン・レジーム下で支配的なイデオロギー装置であった教会も破壊され、共和制への従属を拒否したカトリック聖職者の多くが処刑されました。
1791 年、制憲議会はサント・ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会を著名なフランス人の遺骨を安置する霊廟に変えることを決定し、それを「栄光のパンテオン」と呼びました。
1793年、聖人の遺物が入った棺は、グレーヴ広場でジャコバン派によって公開で焼かれ、ジュヌヴィエーヴの遺骨遺灰はセーヌ川に捨てられたそうです。
1852年にナポレオン3世がパンテオンをカトリック教会に返還し、教会堂として使用しましたが、1885年以降また偉人の墓所となりました。

フーコーの振り子の実験が行われた場所でもあり、現在も天井からつるされた振り子が1日の時を刻むよう展示されている。
フランスについて「カトリックの長女」という表現されることもありますが、フランス革命の時にカトリックの長女は死んだんじゃないかと思うんですよね。
別の記事に書きたいと思いますが、ノートルダム大聖堂の処遇についてもうカトリック国の看板を外したほうがよい気がする。

イシスに捧げられた街パリ
私が昔、読んだ記事で「パリはイシスに捧げられた町だった」というのを知りました。
古代ガリア語Par - Isisは、「イシスを通して、またはイシスによって」という意味があると言われています。
過去には、ボートに乗ったイシスの大きな像がサンジェルマンデプレ教会にあったそうです。
サンジェルマンデプレ教会は、前述のキリデベルト1世が558年に建てた教会です。キリデベルト1世以降のメロヴィング朝の霊廟でした。
フランス革命中は刑務所として使われ、9月虐殺の現場でもありました。
マリー・アントワネットの親友ランバル夫人が惨殺された場所です。

サンジェルマンデプレ教会にあったイシス像は、18世紀から行方不明だそうで、フランス革命で破壊されたのか別の場所に避難されたのか、わからないそうです。
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パリ五輪のオープニングセレモニーに帆船が出て来たのをおぼえていらっしゃいますか?
私はあれを見てすぐに「イシスの船だ」と思いました。本当は単純にパリ市の紋章が船だからということかもしれませんが、私にはイシスの船に見えました(苦笑)
シテ島自体もセーヌ川に浮かんでいる船のようです。

イシス信仰と黒いマドンナ
イシスという名前の意味は、エジプト語で玉座(王権)を意味します。

ヘレニズム時代には、イシスが海と港を管理していると考えられるようになり、船乗りたちは航海の安全と幸運を彼女に祈願しました。
この役割から、彼女は「海のイシス」を意味するイシス・ペラギア、あるいは帆やアレクサンドリアの灯台があるファロス島にちなんでイシス・ファリアと呼ばれました。
ノートルダム大聖堂の前身、サンテティエンヌ大聖堂が建つ前、その場所にはイシス神殿があったと言われています。
異教の神殿を壊してキリスト教会を建てるのはよく行われていたことなので、不思議ではありません。
正体不明の20世紀のフランスの錬金術師、フルカネリFulcanellによれば、「かつて寺院の地下室は、イシス信仰の場として機能していました。
キリスト教がガリアに導入されたときに、黒いマドンナと言い変えられました」と。


ブラックマドンナは、シチリア島、スペイン、スイス、フランス、ポーランド、チェコスロバキア、トルコの津々浦々の大小の教会、修道院で崇拝されています。
中国ではブラックタラ、インドではカーリー、メキシコでは「グアダルーペの聖母」として祀られています。
(フランスのブラックマドンナ像の多くはフランス革命中に破壊されました)
ブラックマドンナは、地球の女王として、また天の女王としてのメアリー(マリア)として知られています。
「ブラックマドンナ」と「メアリー」は、その存在の本質において、聖なる知恵を宿し、神聖な魂を封じ込めた契約の箱と聖杯を表しています。
イシスは、ブラックマドンナの最初の記録された外観でした。
フェニキア人がヨーロッパで貿易を始めたのは紀元前1550年頃。
彼らは、イナンナ、アスタルテ、キュベレー、アルテミスなどの浅黒い肌の女神の信仰を持っていました。
イシス崇拝は、ローマ時代後期の地中海の支配的な宗教であり、ガリアを含むローマ占領地に広まりました。
フェニキア人によって設立されたマルセイユはアルテミスに捧げられ、リヨンがキュベレーに、パリはイシスに捧げられました。

キリスト教が広まるにつれ、現地の人々が崇拝する女神像が洞窟や地下室で発見され、「マドンナ(聖母)」としてカトリック社会に再導入されたのです。
イシスが膝の上に幼い息子ホルスを乗せたり、抱きしめている多くの像は、すぐにキリスト教に受け入れられました。

メロヴィング朝はブラックマドンナをマグダラのマリアと特定し、マグダラのマリアの血統を通じてメロヴィング朝はキリストの子孫であり、ブラックマドンナの腕に描かれた幼児であるフランスの正当な王であると主張しました。

1655年、ポーランドはスウェーデン王カール10世の軍隊に制圧されました。
修道士たちはブラックマドンナの肖像画を守り、マドンナの介入の結果として、ポーランドは侵略者を追い出すことができたと言われています。

海の星の聖母ステラ・マリス
聖母マリアの古い名前「Stella Maris」は、海の星の聖母と訳されています。
海の星とはポラリス(こぐま座アルファ星)又は北極星のことで、その理由は古からこの星が海上で天測航法に使われてきたからだそうです。
実際には「海のしずく」を意味するヘブライ語ミリヤムという言葉を、聖ヒエロニムスが「スティラ・マリス」と翻訳し、後に転記した者が「ステラ・マリス」と誤記したため、誤訳のまま一般的に広がってしまいました。

海の星の呼び名は、航海によるカトリック宣教や、船員司牧、そして多くの海岸線沿いの教会の名称に使われています。
9世紀の聖パスカシオ・ラドベルトは、ステラ・マリスについて「海の荒波の真っ只中にひっくり返らないように」キリストへの道を歩むためのガイドとして書いたそうです。
これもイシスが「海のイシス」と呼ばれていたのと似ていますね。
885年から886年にかけてヴァイキングのロロたちによるパリ包囲戦の後、アルボンという僧侶によって書かれた詩の写本がフランス国立図書館に所蔵されており、黒衣の女性が描かれています。

パリ包囲戦については書いています。
パリの街の秘密

長くなりましたので今日はこのへんで。
次回はノードルダム大聖堂について書きたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた!
