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大人になってもオタクであるということ

前回までの『中二病』は…

中二病を掘り下げる自虐的シリーズ【8】

 「いつまでそんなことやってるの?」という問いは、オタクにとって最も暴力的な言葉のひとつだ。
 アニメやゲーム、小説に夢中になる時間を「子どもっぽい」と切り捨て、フィギュアやグッズを「無駄遣い」と嘲笑するまなざし。年齢を重ねれば、自然と“卒業”するものだと決めつけるその価値観は、まるで正論の顔をして、こちらの存在を否定してくる。

 だが私たちは、いつまでたっても中二病をやめられない。いや、“やめようとしない”と言った方が正確かもしれない。

 この社会には「成熟」という名前の幻想がある。責任を取り、安定した収入を得て、家庭を持ち、趣味よりも仕事を優先する。それが“大人”とされる生き方だ。しかしその「成熟」は、どこか薄っぺらく見える。まるで、何かを捨てて、誰かに配られたテンプレートに人生をはめ込んでいるような、そんな窮屈さがある。

 中二病は、そんな“正しすぎる大人”へのささやかな抵抗だ。

 現実に妥協し、言い訳ばかりを覚えていく毎日の中で、それでも「本当の自分はこんなものじゃない」と思ってしまう瞬間がある。誰にも気づかれないように、ポケットの中でこっそり拳を握るような感覚。中二病とは、そうした自己保存のための最終防衛ラインなのだ。

 浅羽通明は、社会に適応できない者の自閉的な文化装置としてオタクを分析したが、令和の現在ではもはや“逃避”ではなく、ひとつの“立場”になってしまった。社会の中で生きるには、いくつかの嘘を呑み込まなければならない。だが物語の中では、まだ正義が通用し、感情が純粋で、理不尽に立ち向かう力がある。それを「子どもじみている」と笑う者がいる一方で、私たちはその力を必要としてきた。

 それに、どれほど年齢を重ねても、物語は古びない。ガンダムのファーストシリーズを語る者もいれば、エヴァの碇シンジと共に人生をこじらせ続ける者もいる。推しのために生きているという人も、いまだ中学生のようなノートに自作設定を書き溜めている人もいる。それは滑稽だろうか? それとも、生き延びる知恵なのだろうか?

 むしろ、“卒業”という言葉自体が虚構なのかもしれない。
 人は趣味を卒業しないただ変化するだけだ
 10代の頃は「なりたい自分」に執着し、20代では「なれなかった自分」に葛藤し、30代以降になると「それでも自分であること」を肯定しはじめる。オタクであるということは、その変化の過程を物語という鏡で見つめ直す行為でもある。

 「いい歳して」と言われたって構わない。中二病的な視点は、むしろ社会の“見えすぎた嘘”を暴く装置でもある。権威や常識、規範の構造を疑い、フィクションの中にオルタナティブな現実を探し続けること。それは思春期だけの特権ではない。

 むしろいま、私たちに必要なのは、“大人の中二病”なのではないか。現実を知ったうえで、それでも物語を信じる力。世の中のルールを理解しながら、あえて逸脱する勇気。何も変えられないと知っても、それでもなお、剣を抜く理由だ。

 中二病は、卒業すべきものではない。それはきっと、生き延びるために必要な“もうひとつの知性”なのかもしれない。


 次回は最終回。「“オタクとは誰か、中二病とは何か”」と題し、この文化が私たちに何を遺し、どこへ向かおうとしているのか、その輪郭を静かに描いてみたいと思います。

 厨二病……自分はなぜこの禁断のテーマについて書き始めてしまったのだろうか。身をよじりながら書き、何とも言えない感情に口の中が乾く💦
 今回は、まさに何故書くのかという自分の内面をえぐってみた。論という体裁は、かろうじて自分を守る防護服の役割を果たしてくれた。

 できれば積極的に♡を押していってください。かつて抱いた思いたちへの供養のために。

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