ちゃんと暮らしていてもお金が足りない
夕方のスーパーで、冷蔵ケースの前に立ち止まる。
白い霧の向こうに並ぶ牛乳の値札を見て、ほんの一秒、呼吸が浅くなる。特売の赤い文字は前と同じなのに、なぜか身体の奥がざわつく。
かごの中には必要なものしか入っていない。それでも、レジに進む足取りは軽くならない。
ちゃんと暮らしているはずだった。
朝は目覚ましで起き、仕事に行き、帰りに買い物をして、家では電気をこまめに消す。
衝動買いもしないし、身の丈を超えた贅沢もしていない。
それなのに、月末が近づくと胸のあたりがきゅっと縮む。理由を探そうとすると、いつも同じ言葉に行き着く。
もっと節約しなきゃ。
私のやり方が悪いのだ、と。
けれど、その考えはどこか不思議でもある。
これほど気をつけていて、これほど我慢していて、なお足りないのだとしたら、それは本当に個人の問題なのだろうか。
性格や努力の差だけで説明できる話なのだろうか。そう思った瞬間、頭の中で小さな音がする。かちり、と何かがずれる音だ。
お金の話になると、私たちはすぐに自分を責める。
計画性がないからだ、欲が深いからだ、もっと勉強すればよかったのだ。
そうやって、原因をすべて自分の内側に集めてしまう。
そのほうが話は簡単だし、誰にも迷惑をかけない。でも、その代わり、身体はずっと緊張したままになる。肩がこわばり、眠りが浅くなり、数字を見るたびに胃の奥が重くなる。
お金は、本来とても冷たい存在だ。
紙と数字でできていて、感情など持っていない。
ところが現実では、お金はいつも私たちの感情と一緒に動く。不安や焦りや、取り残される感じと、ぴったりくっついている。だからこそ、足りないと感じるとき、それは単なる残高の問題ではなく、生き方そのものを否定されたような気分になる。
ここで、ひとつ立ち止まって考えてみたい。
もし、ちゃんと暮らしているのにお金が残らないのだとしたら、それは「がんばりが足りない」からではなく、最初からそう感じるようにつくられた仕組みの中にいるからではないか。
そう考えると、胸の奥に少しだけ風が通る。責める相手が自分だけではなくなるからだ。
これは、今すぐ解決策を出す話ではない。
節約術や投資の話でもない。
ただ、これまで当たり前だと思ってきた前提を、そっとひっくり返してみるだけの試みだ。お金が足りないのは、私が間違っているからだ、という思い込みを、一度だけ棚に置いてみる。
スーパーのレジで、会計が終わる。
レシートを受け取り、袋を持ち上げる。その重さは、さっきと変わらない。でも、心の重さはほんの少し違っている。
もしかしたら、この違和感には名前があるのかもしれない。個人の失敗ではなく、構造の問題という名前が。
この連載では、その正体を少しずつ言葉にしていく。安心するためではなく、考えるために。誰かと話すために。ちゃんと生きているのに、お金が残らない理由を探す旅は、ここから始まる。
