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推しという名の精神の配給制

 今回は、昨今の流行病とも言える「推し活」なる現象の深淵を覗いてみようと思う。
 かつて、若者が自らを「選ばれし者」と妄想した「中二病」は、世間という大きな物語に対する稚拙ながらも必死の「抵抗」だっと。
 しかし、今やその情動は、資本主義が用意した「推し」という名の精神的配給制へと見事に飼い慣らされてしまったようなのです。

自律を放棄したファン

「推しが尊い」
「推しは健康にいい」

 こうした言葉が、もはや一種の社会的な合言葉として通用する時代になった。しかし、少し穿った視点からすれば、これは自律的な自意識を維持できなくなった現代人が、自らの魂の拠り所を「公式オフィシャル」という名の外部権威に全面委託した姿に他ならない。

 かつてのオタクは、たとえ偏執的で独善的であっても、自らの審美眼(それがどれほど歪んでいようとも!)によって作品を解釈し、時には公式の設定すら踏み越えて妄想を逞しくする「不遜な主体」であった。

 そこには、中二病特有の「俺だけが真実を知っている」という、孤独で高慢なプライドがあったのだ。

 ところが、現代の「推し活」に邁進する群衆はどうだろう。
 彼らは公式オフィシャルが提示する「解釈」や「設定」を聖典のように奉じ、そこから一歩でも逸脱することを極端に恐れる。自ら物語を生成する苦しみを避け、運営側が周到に用意した「感動のテンプレート」をなぞることで、安価な一体感と多幸感を得る。
 これは、自らの内面に宇宙を築こうとした中二病的な「自意識の冒険」の完全なる去勢であり、消費社会という名の巨大な養鶏場で、決まった配合飼料(コンテンツ)を食べて卵(金)を産み落とす、極めて従順な家畜への退行と言わざるを得ない。

 経済学的な観点から見れば「推し」というシステムは、宗教が失われた後の「お布施課金」の代替品として完璧な機能を果たしている。
 実体のないデジタルデータや、原価数円のプラスチック片アクリルスタンドに対して、自らの労働の対価を惜しみなく注ぎ込む。
 それは「自分自身の人生を豊かにするため」ではなく、「対象を存続させるため(支えるため)」という名目で行われる。
 しかし、その「支える」という献身的な物語自体が、プラットフォーマーによって設計された高度なマーケティング手法であることに、彼らは気づこうとしない。
 自分の人生が空虚であればあるほど、人は「自分より輝いている何か」によりかかることで、代理の充実感を得ようとする。これこそが、現代版の「精神的プロレタリアート」の姿ではなかろうか。

 さらに醜悪なのは、この「推し」を通じた繋がりの排他性である。
 SNS上で行われる「推し活」のコミュニティは、一見、同じ志を持つ仲間たちのサロンに見えるが、実態は「解釈の一致」を強要し合う、かつてのムラ社会以上の相互監視空間だ。
 少しでも公式の意向に背く者、あるいは独自の批評性を発揮する者は「アンチ」や「不謹慎」として村八分にされる。

 中二病が持っていた「世界全体を敵に回してでも自分の美学を貫く」という孤独な勇気は、ここには微塵も存在しない。
 あるのは、多数派という名の「正解」に守られながら、身内の顔色を伺い続ける、薄ら寒い同調圧力だけなのだ。

 あなたが「推し」に捧げているその熱狂は、本当にあなた自身の内側から湧き出たものだろうか。
 それとも、空っぽになった自室の静寂に耐えかねて、公式が鳴らす鈴の音に反応しているだけではないか。

 「推し」という名の檻は、内側から鍵がかかっている。
 その鍵を捨てたのは、他ならぬあなた自身だ。自らの「中二病」的な不遜さを取り戻し、公式の首根っこを掴んで揺さぶるような、かつてのオタクの「野蛮な生命力」を思い出す日は、もう二度と来ないのだろうか。

 サブカルが、いかにして「正しさ」という名の検閲に屈し、教育的で無害な「教養」へと成り下がったか。

 あなたは、誰をも傷つけない「清潔な物語」に、本当に心が震えていますか?

#現代人のための処方箋シリーズ
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#酔った勢いで変な事を書いてるが後悔しない
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#ウイスキー山陰を3ショットだけ

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