「自由にしていいよ」の不自由さ
「なんでも自由にしたらいいよ」
上司からそう言われたとき、あなたはどんな気持ちになるだろうか。
ワクワクする?
それとも、ちょっと不安になる?
本来、「自由」はポジティブな言葉だ。
自分の意思で選び、動けること。誰からも制限されないこと。
だが実際には、「自由にしていいよ」と言われて戸惑う人は少なくない。
どうしていいかわからず、かえって思考が止まり、『正解』を探し始めてしまう。
自由は解放のはずなのに、不安と混乱を招いてしまう。
その理由は、私たちが育った構造にある。
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義務教育は、そのほとんどが『枠の中で生きる』練習だった。
問題には必ず「正しい答え」がある
評価は「決められた基準」によって下される
やるべきことは「上から与えられる」
このような「従属型の構造」のなかで育てられた私たちは、「答えのない状態」に耐性がない。
つまり、自由=判断の連続=自己責任という構造に、身体が慣れていないのだ。
そのため、「自由にしていいよ」は、 「自分で決めて、自分で責任を取ってね」という無言の圧力として受け取られる。
この構造の怖いところは、表面的には「あなたを信頼している」というポジティブな形をとっていることだ。だが実際には、自由を与えることと、設計や支援を放棄することが混同されているケースも少なくない。
たとえば──
新人に「自由にやって」と言いつつ、失敗すると評価を下げる
裁量を渡したのに、進め方の正解は暗黙で決まっている
自由に動いた結果、「そんなやり方じゃ困る」と否定される
このように、「自由」と言いながら、実際には『許容範囲が不明確』という構造が、不安や躊躇を生み出してしまう。
では、自由とは本来、どう扱うべきものなのか。
自由とは、「好きにやっていいよ」ではない。
選べる構造の中で、目的と責任を共有することだ。
つまり
なぜそれをするのか(目的)
どこまで裁量があるのか(設計)
どんな形で成果を共有するのか(評価)
この3つが整ってはじめて、『自由』は不安ではなく“動機”となる。
ところが、多くの現場では『設計』が抜け落ちたまま『裁量』だけが投げられる。その結果、「自分の判断が正しいか?」という問いに、ひとりで苦しむことになる。
『自由』は、与えられるものではなく、支えられるものだ。
設計のない自由は、「放任」であり「責任の丸投げ」になりやすい。そして、設計された自由は、人を最も強く、創造的にする。
つまり、「自由にしていいよ」と言われて動けなくなるのは、あなたの意志が弱いからではない。『自由を支える構造』が存在しないからなのだ。
自由に動けないことを、「自分のせい」と思わなくていい。
「自由」を怖いと感じたなら──
それ、たぶん“構造”のせいです。
前回の #構造分析論シリーズ は…
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