自己表現の強迫観念
今回は「客観性の檻」から這い出した現代人が、次に等しく陥る「内面という名の蟻地獄」を覗き込んでみよう。
エビデンスという外部の権威を剥ぎ取られた後、我々に突きつけられるのは「では、お前は何者なのか」という、あまりに残酷な問いだった。
「自分らしさ」という地獄
「あなたらしく、自由に生きなさい」
この一見、慈愛に満ちた福音ほど、現代人を呪縛している言葉はない。
かつての封建的なムラ社会や、戦後の画一的なサラリーマン社会であれば、人は「役割」を演じることで、自意識の暴走を食い止めることができたであろう。父親であり、社員であり、地域の一員であるという外枠が、空虚な内面を保護する外骨格として機能していた。
しかし、ポストモダン以降の「自由」は、そうした外枠をすべて「抑圧」として撤廃してしまった。その結果、我々は剥き出しの自意識を抱えたまま、終わりなき「自分探し」の荒野へと放り出されたわけだ。
ここで、かつての「中二病」を思い出してみるのも一興かもしれない。
彼らは「自分には隠された特別な力がある」という妄想を抱くことで、何者でもない自分という現実に耐えようとした。
しかし、それはあくまで「いつか発動するはずの秘密」であって、社会に対して即座にプレゼンテーションすることを求められるものではなかった。ところが現代のSNS空間においては、中二病的な自意識は、直ちに「コンテンツ」としての換金能力、あるいは「いいね」という名の承認を奪い合うための武装として動員されることを強要さはじめた。
自分らしさとは、もはや静かな内省の果てにあるものではなく、市場という名の戦場で他者より優位に立つための「差別化戦略」へと変質してしまったのだ。
「オンリーワン」であれという強迫観念は、凡人にとってこれ以上ない拷問だ。何しろ、社会の九割九分は、歴史に残るような天賦の才もなければ、語るに足る劇的な物語も持ち合わせていない、善良で退屈な「普通の人々」なのだから。
それにもかかわらず、学校でもメディアでも、絶えず「自分だけの物語を持て」と煽り立てる。この埋めがたい格差に直面した大衆が、手っ取り早く「何者か」になるために縋りつくのが、皮肉にも、かつてのオタク文化や特定のライフスタイルといった「記号のパッチワーク」だ。
特定の「推し」に自らを同化させ、その属性を身に纏うことで、あたかも自分に特別な輪郭が備わったかのように錯覚する。
しかし、それは借り物の衣装に過ぎず、脱ぎ捨てればそこには、以前にも増して痩せ細った、透明な自意識が残るばかりだ。
自己表現という名の強迫は、表現すべき確固たる「自己」を、皮肉にも内側から食い破り、空洞化させていく。
自意識が自己の境界線を越えて肥大化し続ける状態は、一種の精神的な失調に近い。
かつての日本人が持っていた「私」を殺して「公」に奉じるという作法は、実は自意識の暴走から精神を守るための、極めて高度な生存知恵でもあった。
しかし、現代人はその知恵を「古臭い教条」として捨て去り、全方位に対して「私」を全開にすることを美徳としている。
誰からも注目されない自分、誰からも承認されない「ただの人」であることに耐えられない。この病的なまでの「個性の飢餓感」こそが、メンタルヘルス産業の隆盛を支える最大のパトロンとなっている事実に、我々はもっと自覚的であるべきだろう。
結局のところ、「自分らしさ」という地獄から脱出する唯一の方法は、皮肉にも「自分などどうでもいい」と居直ることにしかないのかもしれない。
何者かになろうとする努力を放棄し、歴史や伝統、あるいは日々の単調な労働といった、自分よりも遥かに大きな「大きな物語」の一部として自らを埋没させること。
自意識を拡張するのではなく、むしろそれを「去勢」し、小さな「役割」の中に安住すること。それこそが、現代という「過剰に自由な監獄」で正気を保つための、知的な「あきらめ」の作法なのかもしれない。
さて、あなたは、画面の向こう側に映る「演出された自分」を維持するために、どれほどの精神的コストを支払い続けているのだろうか。
その「自分らしさ」という名の重荷を下ろしたとき、初めてあなたは、他者の視線に怯えることのない、真の意味で「自由な凡人」になれるのかもしれない。
しかし、そうした「降りる」勇気さえも、現代の市場原理は「負け犬のルサンチマン」として再回収しようと待ち構えているのだが……。
