多数決という名の宗教
民主主義を隠れ蓑として「多数決」という名の、とてつもなく巨大な宗教が私たちを取り囲んでいる。
教養があることの証明だとばかりに、誰もが民主主義から多数決を賛美し、そこから少しでもはみ出せば「野蛮だ」「無教養だ」と烙印を押される。
だが、少し冷静になって考えてみればいい。
この「予定調和な信仰」こそが、私たちの知性を根底から腐らせている原因だということは、あまり語られない真実だ。
多数決とは、もともとそんなに高潔な理想ではなかった。
価値観の違う人間たちが、殴り合って血を流さずにどうやって一緒に暮らしていくか、そのためにひねり出した、「妥協の産物」にすぎない。
本来の教養とは、このシステムの不完全さを冷徹に見つめ、「まあ、完璧ではないけれど、なんとか動かしていくしかないか」という、ある種の知的な忍耐力を備えていることを指していたはずだ。
なのに現代の私たちは、多数決を「無謬の正義」だと信じ込み、自分の意見が通らないと「システム不全だ」と騒ぐ。
この「正しさ」への依存が、決定・合意を子供じみた勧善懲悪劇に変えてしまっている。
複雑な利害関係や、どうにもならない歴史の矛盾なんて無視して「私たちは光の勢力、相手は闇の勢力」と、自分を主人公に仕立て上げているだけではないか。
これは理性的な議論ではなく、自分の情緒を満足させるための「記号的なコスプレ」にすぎない。
もっと滑稽なのは、この信仰が他者の自由を奪う暴力として機能していることだ。
「人間は自由で平等であるべきだ」なんて看板を振りかざして、そこになじまない文化を「遅れている」と断罪する。
これはかつて宗教を掲げて世界を支配しようとした帝国主義と、構造的には何ひとつ変わりがない。自分たちの信じる正義が、相手にとってはただの押し付けでしかないかもしれない――。
そういった想像力こそ、記号的な知識しか持たない現代人に欠けている決定的なものだ。
教養というものは、自分が信じている言葉がいかに危ういバランスの上に立っているかを自覚するところから始まる。
世界を救うための魔法の言葉を探すのではなく、世界がいかに救いようのない矛盾に満ちているかを、見極める力を養うこと。無知の知を体得する事だ。
多数決を「正義」として拝むのをやめて、それを装置として使いこなすための、リアリズムを取り戻す必要がある。
正義の味方に浸って思考を停止させるのは、たしかに心地よい。
だが、その心地よさの代償として、私たちは「個」としての、たった一人で立つための自律まで売りはらってしまっている。
今こそ私たちは、多数決という巨大な宗教を妄信するのではなく、冷たくて鋭い知性を鍛え直すべきではないだろうか。
