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終電をやり過ごした夜にだけ見えるもの

 終電を逃したことなら誰にでもある。でも、終電をわざとやり過ごしたことのある人は、案外少ないのではないかと思う。

 何年か前の冬、僕はそれをやった。
 理由は自分でもよくわからない。仕事の帰り、ホームに立って、滑り込んでくる終電を眺めているうちに、ふと「これに乗らなかったらどうなるのだろう」と思ったのだ。
 ドアが開き、人々が吸い込まれ、発車のベルが鳴った。
 僕は動かなかった。ドアが閉まり、電車は行ってしまった。
 ホームには僕と、夜だけが残された。

 最初の感想は「やってしまった」だった。
 次の感想は「やれやれ」だった。
 そして三番目に、奇妙な静けさがやってきた。

 考えてみると、僕らの一日は予定の連結でできている。
 起きる時刻、会議の時刻、昼食の時刻、そして終電の時刻。それらは線路のようにつながっていて、僕らはその上を、おおむね正確に走っている。
 終電というのは、その一日の最後の連結器だ。あれに乗る限り、今日は明日にきちんと接続される。

 でも、あえて乗らないと、接続が切れる。
 すると、時刻表に載っていない時間が現れるのだ。
 誰のものでもない、予定の外側の時間が。

 僕は駅を出て、深夜の街を歩いた。
 驚いたのは、街がまるで別の顔をしていたことだ。
 昼間は気にも留めなかった看板が、消灯して、ただの四角い板に戻っていた。自動販売機が、暗い通りでひとりだけ律儀に光っていた。タクシーが何台か、ゆっくりと泳ぐように流れていき、コンビニの店員が店の前で、長い長い伸びをしていた。
 世界が、営業を終えて、楽屋に引っ込んだあとの素顔を見せていた。

 そして気づいた。
 普段の僕は、街を「通過」していたのだ。目的地と時刻があり、その二点を結ぶ最短線の上だけを移動していた。
 終電を捨てた僕には目的地がなかった。目的地のない人間の目には、すべてが等しく入ってくる。効率という名のフィルターが外れて、世界の解像度が、夜なのに上がっていた。

 結局、僕は始発まで歩いた。
 途中、二十四時間営業の店で生姜焼き定食を食べた。
 人生で食べた生姜焼きの中で、三本の指に入る味だった。たぶん料理の腕ではなく、時間の味だったのだと思う。

 誰にも勧めるつもりはない。
 翌日は眠かったし、体は正直に冷えた。
 でも、覚えておいて損はないと思う。予定という線路から一駅ぶん降りるだけで、世界は素顔を見せてくれるということを。

 終電は行ってしまう。
 それは喪失ではない。夜への、招待状である。

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