選択肢の過剰が生む牢獄
「やりたいことが、わからないんです」
就活生や転職希望者、あるいは人生の節目に立つ多くの人が、こうした言葉を口にする。まるで「自分には意思がない」「方向性が見いだせない」ことが欠点かのように。
だが、少し立ち止まって考えてみてほしい。
そもそも、人間とは本来そんなに明確な“やりたいこと”を持って生きている存在なのだろうか?
もしかすると、「わからないこと」が問題なのではなく 「わかっていなければならない」という構造が問題なのかもしれない。
***
近年、「好きなことを仕事に」「やりたいことに全力を」などのメッセージが溢れている。
SNSを開けば、夢に向かって突き進む人、自分の使命を語る人、自信満々に未来を描く人たちの言葉が目に飛び込んでくる。
そして私たちは、知らず知らずのうちに比べてしまう。
「あれ、自分には、あんなふうに熱く語れる何かがない」
「それって、ダメなんじゃないか?」
しかしここに、構造的なすり替えがある。
本来、“やりたいこと”とは、歩いているうちに輪郭が見えてくるものだった。ところが現代では「最初からはっきりしていないとスタートすらできない」構造になってしまっている。
ではなぜ、こうした構造が生まれてしまったのか。
ひとつの理由は、「選択肢の過剰」にある。
昔の社会では、進路も仕事も、ある程度“選ばれた道”があった。
やれることが限られている分、「迷う必要がない」という前提で人生が設計されていた。
しかし現代は違う。
進学、就職、副業、海外移住、起業、NPO、フリーランス──やれることが無限にある。そのぶん「選ばなければならない」という負荷が圧倒的に増している。
しかも、それぞれの選択肢には「やりがい」「意義」「自己実現」といった正解っぽい言葉が乗っている。
だから選べない。間違いたくない。後悔したくない。
このとき、「やりたいことがわからない」の正体は、意思の欠如ではなく、“失敗の回避”が最優先される構造なのだ。
さらに厄介なのは、「選んだあとの評価構造」も強烈であるということ。
何かを始めるとすぐに──
「成果は?」「お金になる?」「ちゃんと続いてる?」と、外からの視線が飛んでくる。
つまり、現代の構造はこうなっている。
最初からやりたいことが明確であることが求められ
それをやっと事もないのに“正解”として選び
しかも成果を出さないと“やりたいこと”と認められない
これはもう、“やりたいこと”を探すというより、「失敗しないストーリー」を探すゲームである。
だから、動けない。
そして、「わからない自分」を責めてしまう。
では、どうすればこの構造から抜け出せるのか。
ひとつの方法は、「やりたいこと」を『思い出すもの』ではなく『育てるもの』と捉え直すことから始めなければならない。
つまり、「まず動いてみる」「気になることに触れてみる」「小さく試す」。
その過程で、“違和感”や“面白さ”を感じたものが、“やりたいことの種”になる。
そしてもうひとつは「選ばない自由」を取り戻すこと。
「今はまだわからない。でも、別に焦って決めることでもない」
そう自分に言えるだけで、かなり生きやすくなる。
やりたいことがわからないのは、あなたが劣っているからじゃない。
それはむしろ、情報が多すぎる中『選ばされているだけ』なのかもしれない。
選ばなきゃ、進めない。
でも選んでも、後悔したくない。
そんなジレンマに苦しんでいるのなら──
それ、たぶん“構造”のせいです。
前回の #構造分析論シリーズ は…
エンディングテーマ
