共感という名の全体主義
「共感」という言葉は、いまや社会で一番の人気者だ。
学校でも、ネットでも、「人の気持ちに寄り添いましょう」「共感する力が大切です」と教えられる。
だが、一度立ち止まって考えてみてほしい。
本当にその「優しさ」は、相手のためになっているのだろうか。
実は、その耳ざわりのいい言葉が、相手の個性を消し去り、みんなを同じ考えに縛り付けるための強力な「武器」になっているとしたらどうだろう。
私たちが「わかるよ」と言うとき、心の中では何が起きているのか。
本当は、自分とはまったく違う考え方や、理解できないほど深い悩みを持つ相手を目の前にしたとき、人間は怖さを感じるものだ。
だからこそ、相手を自分の理解できる小さな箱の中に無理やり押し込めて、「あなたも私と同じだよね」と安心したい。つまり、共感とは、相手を理解するためのものではなく、相手を自分の都合のいいように「処理」するための手段なのだ。
そこに、相手への敬意も、未知の世界に飛び込む勇気もない。あるのは、自分が不安にならないための防衛本能だけだ。
今のSNSを見れば、この空気がよくわかるだろう。
何かの事件や問題に対して、みんなが「正しい」と決めた感情を表明しないと、即座に「冷たい人」「教養のない人」というレッテルを貼られる。
ここには、あえて沈黙したり、距離を置いたりする自由はない。「私は加害者ではない」「良い人間である」とアピールするために、みんながどこかで拾ってきた「正解の感情」を必死に着飾っているのだ。
自分の頭で考え、血を流して絞り出した言葉ではなく、ただ世間に流通している感情を消費しているに過ぎない。
では、本当の「頭のよさ」とは何か。
それは、安易に「わかる」と言わずに「わからない」という絶望を抱え続けることだ。
世界には、どうしても分かり合えない人間がいる。
決して解決しない問題がある。そんなグロテスクで複雑な現実を、そのまま受け止めることこそが、知的な体力だ。
誰かと同じ感情を共有してホッとするのではなく、自分とは決定的に違う「異物」を目の前にして、それでも立ち尽くす。その苦しさから逃げないことこそが、教養というものだろう。
私たちが「共感」という言葉を口にするとき、それは思考を停止させるための免罪符になっていないか。
相手の痛みを自分好みに書き換えて、裁いていないか。
これからは、安易な「共感」を一度疑ってみることから始めてほしい。
他人の痛みは、あなたの理解や同意を求めてなどいない。
ただそこに、圧倒的な事実として存在しているだけだ。
その事実を前にして、慌てて言葉を並べずに、じっと沈黙すること。その沈黙の厚みこそが、誰かのコピーではない、あなた自身の本当の知性となる。
