人は無料で判断を狂わされる
「無料」という二文字を見た瞬間、あなたの脳内で合理的な計算装置がショートしている――そう言われて、素直に頷ける人は少ないだろう。
だが、これは根性や性格の問題ではない。
タダという言葉の前で、人間の損得計算能力は構造的に麻痺する。それを実験室で証明してみせた経済学者がいる。
行動経済学者ダン・アリエリーは、著書『予想どおりに不合理』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)のなかで、こんな実験を紹介している。
二種類のチョコレートを用意する。高級なリンツのトリュフを一個十五セント、平凡なハーシーのキスチョコを一個一セント。この価格だと、多くの人は質を考えてリンツを選ぶ。ここまではまとも。ところが、両方の値段を一セントずつ引き下げると、事態は一変する。リンツは十四セント、ハーシーはゼロセント――つまり無料。差額は一セントのまま、まったく変わっていない。にもかかわらず、人々は雪崩を打ってハーシーの無料チョコに殺到した。
合理的に見れば、一セント高くても高級品を選ぶ判断は変わらないはずだ。だが「無料」は、その一セントの計算そのものを吹き飛ばしてしまった。
アリエリーはこれを「ゼロコストの魔力」と呼んだ。
無料が特別なのは、そこに損をする可能性がゼロになるからだ。
一セントでも払えば、「損したかもしれない」というリスクが生じる。前回も触れた損失回避――人は損失を利得の二倍重く感じる――が、ここでも効いている。無料はそのリスクを完全に消してくれる。だから人は、より価値の高い有料の選択肢を蹴ってでも、損失可能性ゼロの無料に飛びつく。
無料とは値引きの極端な一種ではなく、質の異なる別の魔法なのである。
値段が下がるのと、値段が消えるのとの間には、断絶がある。
この魔法は、日常のいたるところに仕掛けられている。
「送料無料にするために、いらないものをもう一品カゴに入れた」経験はないだろうか。
送料の五百円を節約するために、八百円の不要品を買う。冷静に計算すれば三百円の損だが、脳は「送料ゼロ」の快感に支配されて、その差引を無視する。
「二個目無料」
「初月無料」
「今なら無料お試し」
――これらはすべて、あなたの計算装置を狙い撃ちにする精密な罠だ。
企業がなぜこれほど無料を多用するのか。
答えは単純で、無料が最もよく効くからにほかならない。
そして、この罠に特にかかりやすいのは、皮肉にも「節約上手」を自認する堅実な人だったりする。
損をしたくない、無駄遣いをしたくないという気持ちが強い人ほど、損失可能性ゼロの無料に強く反応する。
「これはお得だから」という判断が、実際には割高な買い物を正当化していることに気づかない。
日々こまめに節約している人が、無料クーポンや特典に釣られて、トータルではむしろ多く使わされている――この光景は、あなたのレシートの中にも眠っているかもしれない。
倹約家であることと、無料に強いことは、まったく別なのだ。
実践的な防衛策は、拍子抜けするほど単純だが、効く。
「無料」という言葉を見たら、それを一度、頭の中で消してから判断する、というものだ。
「送料無料」ではなく「その一品はいくらか、本当に要るのか」で考える。
「初月無料」ではなく「二ヶ月目以降、払い続ける価値があるか」で考える。無料という単語には、その後ろに続く条件から目をそらさせる催眠効果がある。だから意識的に単語をはがし、支払う総額と得られる価値だけを裸で並べる。それだけで、麻痺していた計算装置が再起動する。
タダより高いものはない、という古い格言は、ただの説教ではなかった。
それは、人間の脳の欠陥を経験的に言い当てた、驚くほど正確な観察だったわけだ。
無料に弱いのは、あなたが愚かだからではない。
人間だからだ。
ただ、そのことを知っている人間だけが、無料の罠の前で一瞬だけ立ち止まり、財布の中身を静かに守る。
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