比べて落ち込むのは本能かも
友人の昇進報告を見て胸がざわつく。
SNSで知らない人の華やかな旅行写真を見てため息をつく。
隣の席の同僚が褒められるのを聞いて、心がしぼむ。
――「人と比べて落ち込むのは私だけだろうか」と不安になる瞬間がある。けれど安心していい。それはあなただけではない。むしろ人間にとって自然なことなのだ。
心理学者レオン・フェスティンガーは、人間には「社会的比較」の本能があると指摘した。
自分の能力や立ち位置を知るために、人は必ず他者と比べる。
古代の社会で考えてみよう。群れの中で「自分は狩りが得意な方なのか」「子どもを育てるのに十分な力があるのか」を知るには、周りと比べるしかなかった。その本能が現代にも受け継がれている。
だから私たちが比べて落ち込むのは、ある意味、生存戦略の名残なのだ。
問題は、その比較の対象が無限に増えてしまったことだろう。
SNSを開けば、友人だけでなく、世界中の「誰か」と自分を比べられる。しかも映し出されているのは彼らの人生のハイライトシーンばかりだ。
編集された舞台の光景を、私たちは自分の舞台裏と比べてしまう。
落ち込むのは当然だ。
しかし、本能に従って比べてしまうからといって、それに振り回され続ける必要はない。
比べることはやめられなくても「どう比べるか」は選べるのだ。
自分より少し先を歩く人を見て「私もあそこに行けるかもしれない」と励みにする。
逆に、比べて苦しくなる対象からは距離を置く。
比較の矢印を選び直すだけで、心の重さはずっと軽くなる。
そして、比べることで見えてくるのは「自分の願望」でもある。
友人の結婚に焦るのは、自分も愛を望んでいるから。
知人の成功に嫉妬するのは、自分の中にも挑戦したい気持ちがあるから。
落ち込む感情の奥には「本当はこうありたい」という声が隠れている。
その声を無視するのではなく、耳を澄ませればいい。
比べて落ち込むのは本能だ。
だが、その感情をどう意味づけるかは自分次第だ。自分を責める材料にするのではなく、未来への道しるべに変えることができる。
落ち込む自分を責める必要はない。
その感情の奥に潜む願望を受け止めればいいのだ。
本当の幸せは、数字では測れない。
他人と比べて得られる数字の優劣ではなく、自分の心が望む方向に一歩を踏み出せるかどうか。
落ち込みは本能かもしれない。
けれど、その本能をどう使うかは、私たちの選択なのだろう。
前回の #数字では測れないシリーズ は…
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