正解が求められる社会の不正解
学校でも、職場でも、SNSでも。
この社会では「正解を出すこと」が異様に重視されている。
正解っぽい答えを素早く出せば「優秀」とみなされ、空気を読み違えたら「空気が読めない」と烙印を押される。
だが、その「正解」はいったい誰が決めているのか?
本当にそれが、あなたにとっての正しさなのか?
──そう問われると、ほとんどの人が言葉を詰まらせる。
それもそのはず。私たちはあまりにも長い間「正解を当てる訓練」ばかりさせられてきたからだ。
義務教育は、その典型だ。
すべての問いには、ひとつの「正しい答え」が用意されている。
文章題にも、読書感想文にも、果ては道徳にも「模範解答」がある。
そこから逸脱すると、評価は下がる。つまり「考えること」よりも「正解にたどり着くこと」が優先されるわけだ。
その結果、社会に出てもこうなる。
会議では「正解っぽい意見」を探し回り、 SNSでは「叩かれない正解」を選ぶ。 友人関係においては「無難な共感」を繰り返す。
誰もが、「今この場にふさわしい正解」を演じるようになる。
だが、その正解が自分の言葉ではないことに、私たちはうすうす気づいてもいる……。
さらに厄介なのは、社会における「正解」は、明文化されていない『空気』の中にあることだ。
ハラスメントを指摘しすぎると「面倒なやつ」扱いされ、改革案を出すと「空気が読めてない」と見なされる。 本音をもらせば「もっと建設的に言って」と言われる、
つまり「正解を求められているように見えて、実は求められていない」のである。
これこそが、現代社会最大のねじれ──
「正解のフリをした不正解」が溢れている構造だ。
この構造のもとでは、本当に重要な問いが封じられる。
本当にそれは「正しいこと」なのか?
誰のための「正解」なのか?
その「正解」は、今でも『有効』なのか?
だが、それを問うことそのものが「空気を乱す」とされる。
だから誰も言わない。
そして、誰も気づかないふりをする。
しかし、社会がこのまま「空気読み合戦」と「模範解答大会」を続ければ、本当に重要なことは何も変わらないままだ。
「正解を出さなきゃ」という強迫観念がある限り、人は本音を語れず、組織は内側から腐っていく。だとしたら、そろそろ『正解という幻想』を疑ってもいい。
正解は、外にあるものではない。
「この問いに、自分はどう向き合うか?」を問える人こそが、本当の意味での自由を手に入れるのだ。
こんなこと、教科書に書いてなかったんだよな。
#教科書に書いてない シリーズ
