エビデンスという名のお守り
科学的という言葉が、かつての「神の御心」や「畏れ多くも」といった、誰も逆らえない呪文のように使われるようになって久しい。
SNSを開けば「それ、エビデンスはあるの?」という言葉が、相手を黙らせるための石つぶてとして飛び交っている。
数字やグラフを錦の御旗のように掲げて「私の意見は客観的で正しい」と主張する光景は、もはや現代の日常風景だ。
しかし、少しだけ冷静になって、その光景を眺めてみてほしい。
それは真理を探究する者の姿というより、自分の意見が間違っていたときに誰かに怒られたくないから「正解という名の小さなお守り」を握りしめて震えている、私たちのあまりに貧弱な精神の裏返しに見えないだろうか。
そもそも科学とは本来、権威を疑い、既存の定説を突き崩そうとする果てしない否定のプロセスだったはずだ。
哲学者のカール・ポパーが言ったように、科学というものは常に「自分は間違っているかもしれない」という宙吊りの不安に耐える、極めてストイックな知的態度を要求するものだ。
ところが、現代の大衆が求めている「科学」は、そんな不安定な代物じゃない。複雑でややこしい現実を「データがこう示しています」と一言でバッサリ整理して、安心させてくれるタイパのいい精神安定剤のような機能だ。
昔の村や、神仏という「拠り所」を失った私たちは、今、白衣を着た専門家という新しい司祭を崇め、統計データという新しいお告げを信じている。
誰かに「それはお前の主観だろう」と突っ込まれるのが怖いから、自らの血肉を通した言葉を捨て、代わりに「エビデンス」という外部の権威という盾に隠れる。
そこには、自らの認識や判断に対して責任を引き受ける勇気など、これっぽっちも残されていない。
もし明日、そのエビデンスが別の研究で覆されたとしたら、あなたの「正しさ」はどこへ消えてしまうのだろうか。
さらにたちが悪いのは、この「エビデンス教」の信者たちが、自分たちの信じるデータを絶対視するあまり、それ以外の視点を「非科学的だ」と切り捨てていくことだ。
彼らが振りかざす数字やグラフは、しばしば特定の文脈から切り取られ、都合よく整形された「加工品」にすぎない事がある。
経済的な利益や、あるいは「正義」という名の政治的バイアスで歪められた数字が、あたかも天から降ってきた真理であるかのように流通しているのだ。
私たちは、その数字がどのような「意図」の下で抽出されたものかという、データの背後に潜む人間の「業(ごう)」を読み解くことを、すっかり忘れてしまっている。
かつてのアニメやゲームのファンたちが、物語の「設定」を重箱の隅を突くように検証し、架空の宇宙を整合性だけで埋め尽くそうとしたものがあった。
世界の不条理に耐えかね、完璧に記述可能な「設定」という避難所に逃げ込んだわけだ。
現代人があらゆる事象をエビデンスで塗り固めようとする姿は、まさにこの「設定マニア」の姿が、社会全体へと拡大投影されたものに見えてならない。
全方位をデータで囲い込み、一分の隙もない論理の城を築き上げる。しかし、その城の中に住んでいるのは、自分の五感で世界を感じることをやめ、記号と数値の反映だけで生きる「情報のゾンビ」たちだ。
私たちは「エビデンスがある」と言われた瞬間に、自分の頭で考えることを放棄してしまう。
それは、アルゴリズムや専門家の判断に、自分の人生を全権委任する、極めて「奴隷的」な平穏だ。
長年の経験から紡がれた「主観」や、自分自身の肌で感じた違和感を、なぜ私たちはこれほどまでに卑下して手放してしまうのだろうか。
客観性という言葉の裏には、常に「私ではない誰か」の判断に逃げ込みたいという、現代人の根源的な臆病さが隠されている。
数値化できない感情や、言葉にできない違和感を「ノイズ」として切り捨てることで得られる平穏はまやかしにすぎない。
本当に必要なのは、エビデンスを羅列して議論に勝つための技術ではない。
データが沈黙する領域で、なおかつ自分の言葉で語り続けるための、厚みのある「教養」だ。
あなたが今、疑いようもない真実として握りしめているその「エビデンス」は、本当にあなたを自由にするための翼だろうか。
それとも、あなたが「自分の頭で考えて、傷つくこと」を避けるために用意した、ただの柔らかい檻にすぎないのではないだろうか。
科学という免罪符を剥ぎ取った後に残る、あまりに無力で、けれど唯一無二の「私」という存在。その不確かさに耐えることこそが、知性の第一歩であることを忘れてはならない。
客観的なデータの裏付けがない自分の感覚を信じるのは、たしかに怖い。
けれども、この荒涼とした世界を歩いていくためには、その泥臭い執着こそが唯一の武器になるのだ。
