高3冬、偏差値25からの大逆転劇
高校3年の11月初旬。
手元に返ってきた模試に目を通す。待ち望んでたなんてとんでもない。
偏差値欄の数値は「25.3」。いつも通り「E」判定以外見当たらない。
なにかが、今までと違った。
「見てろよ」
自分の心の中で、根拠のない自信が大きく叫んだ。
翌年4月1日、私は日吉キャンパスにいた。
きっと、晴れやかな表情をしていたと思う。
偏差値25から3か月。
今日は私が一生で一番努力した3か月を記載しようと思う。
この読む気が失せるような長い話で伝えたいことは一つだけ。
1つでいい。
一生懸命努力したと誇れるものを作れ。
さぁ、私の冗長な自伝のはじまりだ。
何をやるにも中途半端な中学時代
なんとなく中学受験をして始まった私の中学校生活。
第一志望に受かるわけでもなく、たまたま受かった都内の中高一貫校に通うことになった。勉強もせず、常に毎日喧嘩をしては教師に叱られる日々。
「共学に行けば、もっと自由に恋愛ができたかもしれない」
「小学校の頃のあの子は何をしているだろう」
そんなことしか考えていない私は、身体が大きかった、中学で一番強い部活だったという理由だけで、ラグビー部への入部を決めた。
しかし、当時のラグビー部の顧問は3人ともラグビー未経験者。
中学ではそれでも、ただひたすらに楕円球を追いかけるだけで、試合には勝てた。なぜかって、そりゃぁ、中学でラグビー部があるところなんて数少ないんだから。
試合にも出られるか出られないか、そんな中途半端なラグビー部での生活は、私の心に傲慢さと怠惰しかもたらさなかった。露骨に落ちていく成績と裏腹に強くなっていくのは物言いと腕っぷしだけ。気に入らない人間は、力ずくで従えていた。当然、友達なんて、できるわけがない。
中高一貫校とは不思議なもので、高校2年までに通常の高校過程での学習を終える。1.2倍くらいのスピード感で授業は飛ぶように進んでいく。
もちろん、ついていけるはずがない。定期考査は毎回、中の下だった。
ほとんどの教師に見捨てられる中、1人だけ、私のことを常に気にかけてくれる先生がいた。彼の名はK先生。
いつも私が何かをやらかすたびに、とんでもなく叱るが話を聞いてくれた。そして最後にはいつもこう言ってくれた。
「謙虚に、誠実に。」
当時の私に意味など理解できるわけもないが、耳にはこびりついていた。
中学3年春。1度目の勝負。
そうしてなんとなく始まった中学3年。
この1年は、勝負の年であった。
というのも、高校受験がない私の学校では、中学の成績により、高校から
「特進コース」と「進学コース」に分かれて勉強することになるのだ。
「特進コース」の上限は80人。最難関国公立、早慶を目指すコース。
「進学コース」はその他。GMARCHを目指す私立文/理系向けのコースだ。
当時の私が大事にしていたもの、それは単なる「プライド」だった。
人より上でいたい、強くいたい。これだけの思いから、私は「特進コース」への進学を希望した。(結果的に、進学コースも素晴らしいコースであった。全く劣後するというようなことはない。)
ところがどっこい、当然私の成績で行けるわけもない。
特進コースは、中学3年生の5回の定期考査の平均順位で決まるというのが、暗黙のルールであった。つまり、この5回の平均順位が80位以内でないと、特進コースには入れないのだ。
あいもかわらず勉強をしない私の成績は、平均約90位。(250人中)
良いと思われるかもしれないが、これでも非常にこの年は運のよい年であった。(いわゆる山勘が当たりまくって直前勉強が大ヒットしていたのだ)
とはいえ、上位80位がいける特進コースにはまだほど遠い。
最後の3月の学年末考査。初めて考査に向けて自分なりに頑張った。
だがしかし、結果は必然だった。
70位。
たかが1回ちょっと勉強して跳ね上がるほど、甘い世界ではない。
これにより、私の平均順位は、85~86位。
多少の増減(いわゆる補欠合格)があったとしても絶対に声のかからないラインだ。
半ば諦めの境地で、家に届いた特進コース選考結果の郵便の封を切った。
「厳正なる選抜の結果、貴殿は特進コースに合格いたしましたことを通知いたします。」
奇しくもその日は、忘れもしない、母の誕生日だった。
恩師との出会い
こうして、私は奇跡的に特進コースに入った。
あとから聞いた話だが、K先生が必死に特進コースの最後の1人に私を推薦して回ってくれていたとのことだった。
そう、私は、最後の1人として奇跡的に選ばれ「入れてもらった」人間だったのだ。
そうとも知らず、特進コースに入ることができた私は、その現状に満足していた。今までも行ってこなかった勉強をさらに放棄してしまった。
同じ頃、私たちを襲ったのが、新型コロナウイルスだった。
持ち前のポジティブな性格と、リモート授業の楽さに全く気にはしていなかったが、唯一の不満は、身体を動かすことができないことだった。
高校ラグビー部は、学校でも言わずと知れた最強の部活。全国大会にも何度も出場しており、中学と違い、高校の顧問はどちらもムッキムキのいわゆるゴリラ(誉め言葉である)が2人いた。このうち、W先生と呼ぶ、のちの私の恩師は生活指導担当であり、学校1怖い先生としても名を馳せていた。
中学からラグビーをしていた私にとって、ラグビー部以外に入る選択肢は全くなかった。この判断だけは、今振り返っても本当に余計な思いが入らなくてよかったと思う。(バカでよかった)
そうして迎えた高1の6月。自粛明けで部活が再開された最初の練習。
この日から私の人生は、大きく変わりはじめた。
とんでもないほど、W先生に褒められた。学校1怖い、あのW先生に。
なにか特別なことをしたわけではない。
ただ、自粛期間に体を動かしたくて、公園で父親相手に自主練をしていた。
中学時代、監督(と呼べるのか?)に褒められたことなど一度もない私にとって、信じられないほどうれしい経験だった。
単純だった私は、その日以降、部活に行くのが楽しみで仕方なくなった。
初めて、自分からやりたいことが見つかった瞬間だった。
今これを書いていても、当時を思い出すと胸がジーンとする。
「とにかくうまくなって、W先生に褒められたい。」
この一心で、高校3年間を楕円球に捧げる決意をした。
朝5時半に起きて、学校で朝練1時間。
授業はもちろん全部爆睡。
週6ある部活は、毎回15時~19時。
家に帰る20時過ぎにはシャワーと夕食を、寝ずに食べるのがやっと。
爆睡後、5時半に起床して朝練。。。
高校3年間、正直このような生活だった。
きつい日がなかったといえば大嘘だが、学校に、ラグビーをしに行くことだけは、本当に楽しかった。
もちろん、学業放棄という代償と引き換えに。
挑戦と挫折
こんな言葉がある。
「好きこそものの上手なれ」
私はまさにこれを体現した人間であった。
大好きになったラグビーには、結果もついてくるようになった。
私の高校は部員が100人程度。
ユニフォームをもらえるメンバーはスタメンとリザーブ(ラグビーではベンチメンバーのことをリザーブと呼ぶ)あわせて、23人のみだ。
高校3年生の先輩の最後の大会、私は1試合だけ1年生から唯一のメンバー入りを果たした。本当に嬉しかった。誰よりもまず、両親に報告した。
試合は、大した時間出場したわけではないが、それでもその経験自体が自分に自信をつけてくれた。
私がやっていることは間違っていない。これでいい、と。
代が変わった翌年春、私は昨年の勢いそのままにスタメンを勝ち取ることができた。(1つ上の代のスタメンでも、我ながらすごいと思う)
「きっと昨年同様うまくいくに違いない。」
どこかにこんな傲慢さがあったのだろう。
その日のパフォーマンスは本当に酷かった。
この試合をきっかけに、私はその後の1年間、スタメンはおろか、ユニフォームをもらうことさえできなくなった。
ラグビーが、楽しくない日々だった。
部活に行くのが辛かった。
顔を上げれば、自分を戦犯のように厳しい目で見透かす先輩たち。
そんな私を横目にスタメンに食い込んでいく同期。
「誰にも勝てない。」
そんな思いだけがずっと心の中を冷たい風のように吹いては抜けていった。
完遂
そんな状況が変わったのは、代が変わった高3最初の練習だった。
ついに私も最高学年となり、その日の練習が高校生活で、この人生で二度と味わうことができない練習として過ぎていくことをひしひしと実感した。
その日初めて、私は、自分の弱さに向き合った。
赤裸々にW先生に、いや、W監督に正直に自分の思いを話した。
初めて、人前で大泣きしながら心のすべてをぶつけた。
監督は決して私を慰めなかった。
ただ一言、
「俺はお前たちにラグビーは教えない。
俺は、人を育てるだけだ。
愛される人であれ」と。
この言葉の解釈に私はすごく苦労した。
それでも、自分なりに行動を変えた。
相手と目を見て話すようになった。
プライドを捨てて対等に話すようになった。
わからないことはわからないと正直に言うようになった。
授業は相変わらず寝ていたけれど、数少ないラグビー部の友達を大事にするようになった。
地域の人に応援されるようになりたいと思った。
街で困っている老人には何時間でも付き合った。話を聞いて、目的地に案内して、そうやって、愛される人間とは何かを学びたかった。
ラグビーも同じだった。
私には60分間の試合を走り通せるフィットネスがなかった。
だからひたすら走った。
家に帰ってから毎日5㎞、2つ隣の駅まで毎日走った。
駅の階段を下りていく社会人のそばを駆け上がった。本当にきつかったが、1日も休まず、3か月続けた。
走行距離は、300㎞は優に超えていたと思う。
ただ、愛される人になりたかった。
少しずつだが、結果が出始めた。
試合で走れるようになった。
ブロンコと呼ばれるメニューのタイムは2分縮んだ。(最終タイムは4分半、プロでも4分10秒だから、相当頑張った)
K先生を筆頭に、部活を応援してくれる教師陣が増えた。
友達も、数人だができるようになった。
そして、同じ頃U20の関東代表に選ばれた。
やっと、暗くて苦しいトンネルを脱した瞬間だった。
それから引退までの約半年は、飛ぶように過ぎた。
本当に楽しかった。
最高のメンバーと、最高の試合を何度も経験した。
自分の横で走ってる仲間に、全幅の信頼を置けた。
たとえ自分が倒れても、彼らになら大事なボールを任せられた。
全国大会には、準決勝で敗れ行けなかったものの、かけがえのない20人の同期と一緒に引退できて、本当に良かった。
悔しかったし、キツかった。本当にキツかった。
最後にW監督と握手をしたときは抑えていた感情が堪え切れなかった。
それでも、本当に僕は、ラグビー部に入ってよかった。
ラグビー部に入って、人を、心を育ててもらった。
笛が鳴る最後の1秒まで一生懸命走り切った。文字通り、完全燃焼した。
逆襲開始
逆襲なんて書いているけれど、この話に逆襲なんて存在しない。
誰だってできる。
私の引退は、高校3年の10月30日。
大学受験を経験した人ならわかると思うが、これは引退時期としては非常に遅い。
事実、学校の中で最後まで部活をしていたのはラグビー部だった。
引退後、私のもとに以前受けていた模試が返ってきた。
その中身は見るに堪えないものだった。
偏差値25.3。
第一志望の京都大学をはじめ、志望校判定には「E」の文字だけが並ぶ。
それでも、今までの模試を受け取った私は、この時だけは全く違った。
「やってやる。見てろよ」
この気持ちだけだった。
周りは、高1から部活にも属さず、塾や家庭教師を雇い勉強に明け暮れている環境。
対して私は、つい先日まで勉強など蚊帳の外で部活に没頭していた人間。
当然、成績で彼らに勝てるわけがなかったし、周りは私のことを異物を見るような目で見ていた。
それでも、私には自信があった。
こんな奴らに、負けるわけがないと。
俺が勝つに決まっていると。
2乗の計算ができない高3生
勉強を全くしていなかった私の学力は、本当におぞましいものだった。
数学では、2乗の計算からわからない。(2乗の計算は中1の内容。)
世界史では、ナポレオン以外知らない。(盛りなしで本当に知らなかった)
よく進級できていたもんだと今でも思ってしまう。
だからある意味、開き直れた。
中学1年の(ピカピカの)テキストを引っ張ってきては、1から勉強した。
圧倒的に後れを取っていたから誰よりも早く学校に行くしかなかった。
朝の6時から、夕方6時に自習室が閉まるまで授業時間含め全てを勉強の時間に充てるようになった。6時以降は、自習室利用だけで契約した某塾で2時間勉強し、最寄りまで帰宅してから1時間半タリーズコーヒーでココアラテを片手に、1時間半閉店まで勉強した。地元の店員さんが顔を覚えてくれて、時には無料で提供してくれるほど通い詰めた。もちろん、電車での移動時間も単語と世界史を復習し続けた。
不思議と、全くキツくなかった。
きっと、ラグビーの練習のほうが圧倒的にキツかったからだと思っていた。
それもあるけれど、もうそのころには勉強が楽しくて仕方なかった、ただそれだけだった。
勉強がしたかった。新しいことを学ぶのが本当に楽しかった。
効率のいい勉強法も考えた。
朝一で目覚めては英単語を覚え、昨夜の世界史を復習する。
昼までは数学をとにかく解きまくり、午後はYouTubeの世界史の動画を見漁り(300本近くあった!)、大事なことを全てテキストにメモした。
自分専用の辞書になった。どこに行くにも、その参考書が自分の自信となった。
届かなかった第一志望、それでも
最終的に、私は第一志望として京都大学を受験した。
手応えも感じた。
それでも、結果は不合格。
後日得点開示を見ると、0.3点足りていなかった。
中高6年間の怠惰の報いだ。甘んじて受け入れるほかない。
それでも私は第二志望の現在の大学に合格した。
合格結果を高校に報告した日には、学校中の教師が文字通り開いた口が塞がっていなかった。
もはやそんなことはどうでもよかった。
誰よりも、W先生とK先生に伝えたかった。
二人とも、すごく喜んでくれた。
彼らへ私ができる最低限の恩返しはできたのではないかと思う。
彼らのために頑張ったわけではない。
自分のために、楽しくて、その楽しさが合格という結果につながっただけだ。
それでも、この短期間で合格できた理由はただ一つ。
ラグビーに向けていた情熱が勉強に向いたから。
これを教えてくれたのが、彼ら2人だった。
きっと、この情熱一本の人生は今後も私の軸となっていくだろう。
大学4年の代となった今、私は大学のラグビー部(体育会ではないが)で主将を務めている。
これまで教えてもらったことを糧に、今度は希望に満ちた目で入学してくる新入部員・後輩たちにこのスポーツの素晴らしさを伝える役目を果たす番だ。
謙虚に、誠実に。
人を、心を育てるこのスポーツの素晴らしさを、
今後も背中で見せていかねばなるまい。
