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「子どもが『やめて』と言ったらやめる」は、簡単ではなかった──「NO」を尊重することは、「NO」に従うことではない

しばらく前に、タレントのSHELLYさんが、性教育をテーマにした番組で、

「子どもに『やめて』は2回言わせない」
「あなたのNOには力があるんだよ、と伝えたい」

という趣旨の話をしていました。

私は子どもが生まれる前にこの言葉を知り、「なるほど。私もそうしたい」と思いました。

私自身、自分が「嫌だ」と言ったことを聞いてもらえなくても、「まあ、そんなものかな」と諦めてしまうところがあります。

それが、親の関わり方によるものかは分かりません。それでも、幼い頃から積み重ねてきた経験と、まったく無関係ではないように思いました。

だから、わが子には伝えたいと思ったのです。

やめてほしいときには、やめてと言っていい。
あなたの「NO」には、相手を立ち止まらせる力があるのだと。

ところが、実際に親になってみると、「子どもが嫌だと言ったらやめる」は、決して簡単なことではありませんでした。

「やめて」と言われても、やらねばならない

子どもとの生活には、「嫌だ」「やめて」と言われても、親がやらなければならないことがたくさんあります。

歯を磨くこと。
顔や体を洗うこと。
トイレでおしりを拭くこと。
病院を受診すること。
必要な薬を飲ませること。

泣いている子どもを抱いて、保育園へ連れていかなければならない朝もあります。
まだ遊びたいと泣く子どもの手を引っ張って帰らなければならない夕方もあります。

子どものNOを大切にしたい。
けれど、「『やめて」と言われたのだから、すべてやめる」というわけにはいきません。

理由や必要性を説明すればよいのかもしれません。

「虫歯にならないために、歯を磨くんだよ」
「元気になるために、お薬を飲もうね」
「ご飯の用意をしないとお腹が空いちゃうから、もう帰るよ」

でも、まだ幼い子どもが、その説明を十分に理解できるとは限りません。

言葉の意味は分かっても、将来虫歯になる可能性と、今感じている歯磨きの不快さを比べ、前者を優先できるわけではないでしょう。

理由を説明することと、子どもが納得することは別です。説明したからといって、子どもの「嫌だ」が消えるわけではないのです。

説明して納得させようとするのはいいこと?

私は、子どもが嫌がることをするたびに、罪悪感を抱いていました。

「やめて」と泣く子どもの顔を抑えて、歯を磨く。
「帰りたくない」と泣く子どもを抱き抱えて公園を出る。
「自分でやるからやめて!」と訴える子どもの体に触れ、仕上げ洗いをする。

そのたびに、
「『やめて』と言っても無駄だと思わせていないだろうか」
「自分のNOには力がないと感じさせていないだろうか」
と心配になりました。

その不安を打ち消すように、私は子どもに必要性を長々と説明しました。

すると、今度は別の疑問が浮かびます。

これは、「大人がもっともらしい理由を説明したら、嫌でも納得しなければならない」というメッセージにならないだろうか。

子どもに理由を説明すること自体は、とても大切です。世界の仕組みを知ることにもつながります。

ただ、その説明が「だから嫌でも納得しようね」という方向へ向いてしまうと、NOを尊重することとは違ってきます。

十分な説明さえあれば、相手のNOを押し切ってよいわけではありません。それは、子どもが大人になってから出会う人間関係においても同じです。

子どものために必要なことをしながら、子どものNOも尊重する。

そのバランスを、私はなかなか見つけられずにいました。

子どもの自由と親の責任

子どもや自分と向き合う中で、だんだんとわかってきたことがあります。

子どもの「やめて」を尊重することと、子どもの「やめて」に必ず従うことは、同じではありません。

親には、子どもの意思を尊重する責任とともに、子どもの健康や安全を守る責任もあります。家族の生活を成り立たせるために、親が決めなければならないことがあります。

親が子どもの希望をかなえられないこと自体が、ただちに子どもの尊厳を傷つけるわけではありません。

大切なのは、子どもの「やめて」をなかったことにせず、その声を聞いたうえで、必要な判断をした責任を親が引き受けることなのだと思います。

今は、そのために、いくつか意識していることがあります。

まず、本当にやらなければならないのかを考える

子どものNOを受け入れられないと判断する前に、まず自分に問いかけます。

これは、健康や安全のために本当に必要なことなのか。
今、このタイミングでやらなければならないのか。
やり方や順番を変えることはできないか。
子どもに選んでもらえる部分は残っていないか。
子どもを信頼してもよい部分はないか。
親の習慣や都合を、「子どものために必要なこと」と思い込んでいないか。

歯磨きをしないという選択は難しくても、どの歯ブラシを使うか、どのタイミングで磨くか、どこで磨くか、誰に磨いてもらうか、どんな姿勢で磨くかは、子どもが選べるかもしれません。
磨きやすい部分は、自分でやることに任せてもいいかもしれません。
毎食後に仕上げ磨きをしなくても、寝る前にしっかり磨けば大丈夫かもしれません。

子どものNOにそのまま従えなくても、子どもに残せる選択肢はないかを探します。

そのうえで、本当に必要だと判断したことについては、親がその責任を引き受けます。

「嫌だ」という気持ちを否定しない

子どもが嫌がっているとき、以前の私は、何とか前向きな気持ちにさせようとしていました。

「そんなに怖がることじゃないよ」
「すぐ終わるよ」
「お口がすっきりして、気持ちいいよ」

でも、子どもがまさに「嫌だ」と感じているときには、メリットを示す言葉さえ、本人の感覚を否定することがあります。

だから今は、まず、そのまま受け取るようにしています。

「やめてほしいんだね」
「好きじゃないって、伝わったよ」

そのうえで、必要なことは、必要だとはっきり伝えます。

「嫌なのは分かったよ。でも、歯は磨くよ」
「もっと遊びたいよね。でも、今日はもう帰るよ」

気持ちを受け止めることと、要求を受け入れることは違います。

子どもの希望をかなえられなくても、「あなたが嫌だと思っていることを、私は分かっている」と伝えることはできます。

いつ終わるのかを伝える

嫌なことがいつまで続くのか分からない状態は、大人にとっても不安なものです。

そのため、できるだけ具体的に終わりを伝えます。

「上の歯を磨いたら終わりだよ」
「お薬はひとくちだよ」
「おしりをきれいにしたら、もう触らないよ」

親が手を出す期間についても伝えます。

「自分できれいに磨けるようになるまでは、最後に大人が磨くよ」
「自分で拭けるようになるまでは、最後に確認させてね」

「大きくなるまで」では、子どもには終わりが見えません。何ができるようになるまでなのかを、可能な範囲で具体的に伝えます。

今の自分には難しいから大人がしているのであって、ずっと自分の体を大人に委ねなければならないわけではない。そのことも、少しずつ伝えていきたいと思っています。

「嫌だったけれど、やった」を共有する

子どもが嫌なことをやり終えたら、その経験を、なかったことにしないようにしています。

「歯磨き、嫌だったよね。それでも最後まで磨いたね」
「お薬、嫌だったけれど飲んだんだよね。パパにも教えてあげようか」

ここで伝えたいのは、「我慢できて偉い」ということではありません。

嫌だったこと。
嫌だと伝えたこと。
それでも必要なことをやったこと。

そのすべてを、家族の中で共有します。

そして、私の中には一つの基準があります。

後から「嫌だったよね」「それでも必要だったから、大人がやったんだ」と、子どもや家族に開いて話せないような強制はしないこと。

何となく隠したくなるときや、「仕方なかった」と急いで正当化したくなるときほど、本当に必要だったのかを問い直します。

親の都合なら、親がその責任を引き受ける

保育園へ行くことや、公園から帰ることは、歯磨きや服薬とは少し違います。

子どもの健康のためというより、親や家族の事情によるところも大きいからです。

そのようなときには、親の都合を「あなたのため」と言い換えないようにしています。

「もっと遊びたいよね。ごめんね、今日は帰るよ」
「保育園に行きたくないんだね。今日はママが仕事だから、行ってもらうよ。ごめんね。」

「明日も保育園だから」「遅くなると疲れるから」「みんなと遊んだら楽しいよ」と、子どものためのように理由を重ねれば、少しは納得してもらえるかもしれません。

でも、実際には、私が夕食を作らなければならないから帰る日もあります。仕事を休めないから、保育園へ行ってもらう日もあります。

そんなときには、「あなたのためだから仕方がない」ではなく、「あなたが悪いからではない。今日は大人がこう決めた」と伝えたいと思います。

「ごめんね」は、親がしてはいけないことをしたと認める言葉とは限りません。

「あなたの気持ちは分かっている。」
「そのうえで今日は私が決めた。」
「その責任はあなたではなく私が負う。」

そう伝える言葉でもあると思っています。

「やめて」で、何かが変わる経験を残す

歯磨きそのものは、やめられないかもしれません。

それでも、「痛い」と言われたら、力を弱めることはできます。「やめて」と言われたら、いったん手を止めることもできます。

どこが嫌だったのかを聞く。
姿勢や道具を変える。
少し待ってから再開する。
必要な範囲だけ行う。
終わったら、すぐに手を離す。

公園から帰ることは変えられなくても、最後に滑り台を一度滑ってから帰ることはできるかもしれません。

「やめて」「嫌だ」と言えば、いつでもすべてが思いどおりになるわけではない。

でも、「やめて」「嫌だ」と言えば、相手が立ち止まる。自分の声を聞き、できる範囲で何かを変えようとしてくれる。

その経験を残すことはできます。

子どものNOに力を持たせるのは、必ず要求を受け入れることだけではありません。

子どもが声を上げたとき、何も変わらなかったことにしない。それも、NOを尊重する一つの形なのだと思います。

子どもの声を聞きながら、親の責任を引き受ける

子どもの「嫌だ」を、すべて受け入れることはできません。

健康や安全を守るために、親が決めなければならないことがあります。家族で生活している以上、親の都合に付き合わせなければならないこともあります。

それでも、
「嫌だと言っても無駄」なのではなく、
「嫌だと言えば、相手は聞いてくれる。聞いたうえで、できる限り何かを変えてくれる。ただし、希望どおりにできないこともある」

その違いを、日々の小さなやり取りの中で伝えていきたいと思います。

私は、子どものNOを尊重するとは、子どもの希望をすべてかなえることではなく、子どもの声によって親も立ち止まり、必要なら自分の判断も見直すことだと思っています。

そのうえで、最後に決める責任は親が持つ。

子どもの自由と、親の責任。

その両方を大切にしながら、「やめて」と言える子と、「やめて」を聞ける親でありたいと思っています。

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