委ねなさい|聖書を愛する営業マン
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
帰りが遅くなった娘を駅まで迎えに行った。
車に乗り込んだ娘は、スマホで通話中だった。小声で「ゴメン、話したままで」と言って、帰宅するまでの20分ほどずっと話し続けていた。
謝ったり、なだめたり、なにやら説明したり…。
友人とのあいだで何かがあったんだなと、すぐにわかった。
帰宅して、少し落ち着いてから状況を尋ねてみた。
割り勘の揉めごと
娘はキリスト者推薦入試で大学に合格した。
入学条件として、学内のクリスチャン学生団体への参加が義務付けられていた。
先日、その定例会の後、メンバーで食事に出かけた。
会計の段になって、上級生のあいだで意見が割れた。「割り勘にしよう」「新入生に払わせるのは良くない」「全額じゃなくて少しは出してもらおう」。三者三様の主張が重なった。
娘の友人は「新入生に払わせてはダメ」と強く主張し、全員分を自分のカードで決済して先に帰った。
しかし、残った上級生の意見は「おごる必要はない」という方向にまとまり、結果として1年生から少額を徴収することになった。
そのことを娘が友人に伝えたところ、彼女は落胆し、怒り、娘に電話をかけてきた。
娘は丁寧に経緯を説明したが、友人はまったく聞く耳を持たず、しまいには娘との関係まで危うくなりかけたと言う。
返信のないスマホ
それから数日、娘は元気がない。
朝、起きるなりスマホをチェックし、返信がないとうなだれる。その繰り返しだ。
見ていられない、というのが正直なところだ。
こういうとき、親として言える言葉は限られている。「気にするな」は嘘だし、「すぐ仲直りできる」は保証できない。
ペテロの言葉を思い出して、娘に伝えた。
あなたの思い煩いをすべて神に委ねなさい、と。
しかしその言葉を口にした瞬間、何か引っかかるものを感じた。
私は今、誰に向かって語っているのだろう。
娘に「委ねなさい」と言いながら、私自身は委ねているだろうか。
友人からの返信を待つ娘の姿が心に刺さって離れない。明日の朝もスマホを見てうなだれるのではないか。このまま友人関係が壊れてしまうのではないか。
そんな思い煩いが、父親である私の中にも渦巻いていた。
聖句を娘に伝えた私は、実は自分自身への語りかけを聞いていたのかもしれない。
「委ねる」とは手放すことだ。結果を神に預けて、自分はそこから降りることだ。
親というのは、子どものことを手放すのがとりわけ難しい生き物だと思う。それは愛情と心配が表裏一体になっているからだ。心配するのをやめることが、愛することをやめるような気がしてしまう。
だが、それは錯覚なのだろう。
神が「心配してくださる」とペテロは言う。私よりもはるかに深く、娘のことを知っておられる方が、すでに心配してくださっている。ならば私が抱え込む分は、少し減らしていい。
そう気づいたとき、少し気持ちが軽くなった気がした。
獅子とトンカツと
ペテロはこの聖句の直後に、こう続ける。
身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
悪魔が狙うのは、信仰のない人間よりも、信仰を持つ人間だと私は思っている。信仰を失わせることこそが、最大の攻撃になるからだ。
娘が落ち込む姿の背後に、そういう霊的な文脈を見てしまう。それは被害妄想ではなく、聖書が正直に語っていることだ。
だからといって、娘に説教を垂れるつもりはない。
景気付けに、トンカツを揚げた。娘の好物だ。
「つけてみそかけてみそ」をたっぷりつけて、一緒に食べた。美味しそうに平らげてくれた。それだけで、少しほっとした。
ペテロはさらに続ける。
堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(中略)あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
「しばらくの苦しみの後で」という言葉が刺さる。
苦しみが永遠に続くとは書いていない。神が回復させてくださると、ペテロは言う。
娘よ、がんばれよ。
父もまた、委ねることを練習している。
写真は我が家の卓上カレンダー。家の中にはいろんなところにみことばがある。みことばがすぐそばにあるというのは魔除けやお札なんかよりよっぽど良くて、それは口ずさめるからなんだ。150篇ある詩篇の一番最初にも書いてあるね。
