無人島転生 第2話 「清潔マニア看護師無人島デビュー戦」
翌朝、私は鳥の鳴き声で目を覚ました。
「うーん…」
葉っぱのベッドから身体を起こすと、全身がバキバキに痛い。野宿の洗礼を存分に受けた私の身体は、あちこちで悲鳴を上げていた。
「腰が…首が…」
でも、それよりも気になることがあった。海の向こうから、何かが近づいてくる。
「あれは…人?」
最初は流木かと思ったが、よく見ると人の形をしている。しかも、こちらに向かって泳いでくる。
「人だ! 本当に人だ!」
一人じゃない。そう思った瞬間、涙が出そうになった。でも同時に、自分の格好を思い出して慌てた。
「うわあああ! 髪の毛ボサボサ! 服もボロボロ!」
慌てて髪を整えようとするが、昨日の魔法で半分燃えた髪は、どうやっても格好がつかない。
その人は着実に岸に近づいてきて、ついに砂浜に上がってきた。
20歳くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だった。肩までの黒髪をきちんと整えて、どこか知的な印象がある。服装も、私と同じような白い布だが、なぜか私よりもずっと清潔感があった。
「あの…大丈夫ですか?」
その女性は、私を見て心配そうな顔をした。とても優しい声だった。
「あ、はい! 大丈夫です! 私、田中エリです!」
「私は佐藤由美と申します。ユミと呼んでください」
ユミは丁寧にお辞儀をした。なんて礼儀正しい人なんだろう。
「転生…なんですよね?もしかして、エリさんも?」
「そうです! 昨日から一人で…」
私が説明しようとした時、ユミの表情が変わった。医療従事者特有の、何かを察知した時の顔。
「エリさん、少し失礼ですが…衛生状態が…」
「え?」
「手を見せていただけますか?」
言われるままに手を差し出すと、ユミは眉をひそめた。
「爪の間に汚れが…それに、この傷は何ですか? 消毒されていません。感染の恐れがあります」
「あ、これは昨日、岩で引っかいちゃって…」
「応急処置はされましたか?」
「え? 特に何も…」
ユミの顔が青くなった。
「何も? 傷口の洗浄は? 止血は? 包帯は?」
「あ、えーっと、海水でちょっと洗ったくらい…」
「海水で? 海水で傷口を?」
ユミは絶句していた。まるで、信じられないものを見るような顔。
「あの、ユミさん?」
「エリさん、失礼ですが、お仕事は何をされていたんですか?」
「シナリオライターです」
「医療関係は?」
「全然…」
ユミはため息をついた。
「私、看護師をしていました。この状況は…医学的に非常に危険です」
そう言いながら、ユミは私の周りを歩き回って、生活状況をチェックし始めた。
「この寝床は?」
「葉っぱを敷いて…」
「この葉っぱ、アレルギー反応を起こす可能性があります。それに、虫の住処になりやすい植物ですね」
「この水は?」
「海水で…」
「飲料水として海水を? 脱水症状を起こします」
「この食べ物は?」
「果物と貝を…」
「加熱処理は? 食中毒の検査は?」
質問攻めにあって、私は完全に萎縮してしまった。
「あの…私、昨日から必死にやってたんですが…」
ユミは、はっと我に返った。
「あ、すみません。職業病で…」
少し申し訳なさそうにしてから、でも真剣な顔で続けた。
「でも、本当に危険なんです。基本的な衛生管理ができていないと、この環境では命に関わります」
「命に関わるって…そんなに?」
「感染症、食中毒、脱水症状、栄養失調…」
ユミは指折り数えて説明し始めた。まるで医学の教科書を読み上げているみたい。
「特に、傷口の処理は重要です。破傷風、敗血症のリスクが…」
「ちょっと待って」
私は手を上げて、ユミを止めた。
「確かに衛生は大事だと思うんですが、でも、ここって無人島ですよね? 病院もないし、薬もないし…」
「だからこそです」
ユミの目が真剣になった。
「病院がないからこそ、予防が全てなんです。現代医療に頼れない環境では、基本的な衛生管理が生死を分けます」
そう言いながら、ユミは私の手を取って、傷口を詳しく見始めた。
「まず、この傷を綺麗に洗いましょう。真水はありますか?」
「真水? えーっと…」
昨日、島を探索した時に小さな川を見つけたことを思い出した。
「川があります」
「案内してください」
ユミに連れられて、森の奥の川まで歩いた。透明で綺麗な水が流れている。
「これなら大丈夫そうですね」
ユミは川の水を手に取って、匂いを嗅いだり、色を確認したりしている。
「傷口をここで洗いますが、その前に手をしっかり洗ってください」
「手洗い?」
「基本中の基本です」
ユミは手洗いの方法を実演してくれた。指の間、爪の間、手首まで、丁寧に洗う。
「石鹸がないので完璧ではありませんが、これでもかなり違います」
私も真似して手を洗った。確かに、さっぱりした感じがする。
「次に、傷口です」
ユミは私の手を取って、優しく丁寧に傷を洗ってくれた。看護師さんの手つきは、本当に安心感がある。
「痛くありませんか?」
「大丈夫です」
「傷口は浅いので、清潔に保てば自然治癒します。でも、毎日の消毒が必要ですね」
「消毒? 消毒液なんてないですよ」
「この島にも、消毒効果のある植物があるはずです。後で一緒に探しましょう」
ユミの知識の豊富さに驚いた。看護師さんって、こんなことまで知っているの?
手当てが終わった後、ユミは私の生活をさらに詳しく聞いてきた。
「歯磨きはされていますか?」
「あ…昨日は何もできなくて…」
「口腔衛生は非常に重要です。虫歯や歯周病は、全身の健康に影響します」
「でも、歯ブラシもないし…」
「代替手段があります」
ユミは木の枝を取って、先端を噛んで繊維状にほぐした。
「これで歯を磨けます。塩があれば、より効果的ですが」
「塩?」
「海水を煮詰めれば作れます」
何でも知ってる。
「それと、お風呂は?」
「海で洗いました」
「海水では、石鹸の効果がありません。それに、塩分が肌に残ると、かぶれの原因になります」
「かぶれ…」
そういえば、昨日使った葉っぱで、お尻が痛痒い。
「あの、実は…」
恥ずかしかったが、トイレの件を相談してみた。ユミは真剣に聞いてくれて、的確なアドバイスをくれた。
「その植物は、接触性皮膚炎を起こします。適切な葉っぱを選んで、炎症を抑える処置をしましょう」
ユミと一緒に島を回って、安全な植物と危険な植物を教えてもらった。彼女の知識は本当に幅広くて、薬効のある草、食べられる木の実、清潔な水源の見分け方まで、何でも知っていた。
「看護師って、こんなことまで勉強するんですか?」
「基本的な薬草学は、看護教育に含まれています。それに、災害医療の研修で、こういう環境での対処法も学びましたよ」
「すごい…」
私は心から感心した。でも同時に、自分のだらしなさが情けなくなった。
「ユミさんから見たら、私の生活ってひどいですよね」
ユミは首を振った。
「いえ、一人でよく頑張られたと思います。ただ、もう少し清潔にすれば、もっと快適で安全になりますよ」
優しい人だ。
「具体的には、どうすれば?」
「まず、生活環境の基本設計からですね」
ユミは、ノートでも取るように、指を折って説明し始めた。
「第一に住環境。清潔で安全な睡眠場所の確保」
「第二に衛生管理。手洗い、歯磨き、入浴の習慣化」
「第三に栄養管理。バランスの取れた食事と、安全な調理法」
「第四に健康管理。怪我の予防と、病気の早期発見」
まるで看護計画を立てるみたいに、きちんと整理されている。
「でも、それって大変じゃないですか?」
私は少し気が重くなった。
「最初は大変かもしれませんが、習慣になれば自然にできるようになります」
「習慣…」
私は考え込んだ。確かに、ユミの言うことは正しい。でも、私みたいなズボラな人間に、そんなきちんとした生活ができるだろうか。
「あの、ユミさんは魔法使えますか?」
話題を変えてみた。
「魔法?」
「こんな感じで…」
私は手のひらに小さな炎を作ってみせた。昨日よりも少し上手になったような気がする。
「すごい!」
ユミの目が輝いた。
「私も試してみますね」
ユミは目を閉じて、集中し始めた。しばらくすると、彼女の手がほんのり光った。
「これは…」
光る手で私の傷に触れてみる。すると、傷がじんわりと温かくなって、痛みが和らいだ。
「治癒魔法?」
「みたいですね。でも、まだよくわからなくて…」
ユミは困ったような顔をした。
「もう少し練習してみますね」
再び魔法を試してみるユミ。でも今度は、手の光が強くなりすぎて、私の傷の周りの肌がピンク色に変わってしまった。
「あっ!」
「うわあ、肌の色が…」
「すみません! 魔法の加減がわからなくて…」
ユミは慌てて謝った。でも、傷はちゃんと治っていて、痛みもない。
「大丈夫です。痛くないし、傷も治ってるし」
「でも、副作用が…これ、戻りますかね?」
ピンク色になった部分を心配そうに見つめるユミ。
「魔法って、思ったより難しいんですね」
「ええ、医療器具だったら、もっと正確にコントロールできるんですが…」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「でも、お互い魔法が使えるってわかって良かったです」
「そうですね。協力すれば、もっといろんなことができそう」
その後、ユミは私の「清潔化大作戦」を開始した。
まず、私の髪を川でしっかり洗ってくれた。石鹸はないけれど、髪をしっかりとすすいで、櫛の代わりに木の枝で丁寧にとかしてくれる。
「髪の毛、半分燃えちゃってますね」
「昨日、魔法で失敗して…」
「少し整えましょうか?」
ユミは石を使って、上手に私の髪を整えてくれた。美容師さんみたいに器用だ。
「看護師さんって、こんなことまでできるんですか?」
「患者さんの身だしなみも、看護の一部ですから」
次に、服の補修。ユミは植物の繊維を使って、私の破れた服を上手に繕ってくれた。
「すごい! 裁縫もできるんですね」
「これも看護技術の一つです。包帯やガーゼの代用品を作ったりしますから」
最後に、寝床の改善。私がただ葉っぱを敷いただけのベッドを、ユミが完全に作り直してくれた。
「この植物は防虫効果があります。これを下に敷いて…」
「この葉っぱは肌触りが良くて、アレルギーも起こしにくいです」
「高さを調整して、水はけも良くして…」
あっという間に、ホテルのベッドとまではいかないが、かなり快適そうな寝床ができあがった。
「ユミさん、すごすぎです!」
「看護師は、患者さんの療養環境を整えるのも重要な仕事ですから」
でも、ユミの表情は少し暗かった。
「どうしたんですか?」
「いえ…前の職場では、こんなふうに一人ひとりの患者さんと向き合う時間がなかったんです」
「忙しかったんですか?」
「毎日40人以上の患者さんを担当して、一人当たり数分しか時間が取れなくて…」
ユミは寂しそうに笑った。
「本当は、もっとちゃんと患者さんのケアをしたかったんです。でも、現実は書類ばかりで、肝心の看護に時間を使えなくて」
「それで転生を?」
「気がついたら、こちらにいました。最初は戸惑いましたが…」
ユミは私の手当てをした手を見つめた。
「今日、エリさんのケアをしていて、久しぶりに看護師らしいことができた気がします」
「私の方こそ、ユミさんのおかげで助かりました」
二人で改善された生活環境を見回す。一日で、こんなに変わるなんて。
「でも、ユミさんの基準って、結構厳しくないですか?」
私は少し不安になった。
「毎日これを全部やるの?」
「最初は大変かもしれませんが、慣れれば…」
「うーん…」
私は正直に言った。
「私、結構ズボラなんです。会社でも『整理整頓ができない』って怒られてたし…」
ユミは困ったような顔をした。でも、少し考えてから言った。
「じゃあ、少しずつやっていきましょう。一度に全部は無理でも、一つずつ習慣にしていけば」
「そうですね」
でも内心では、私は少し気が重かった。ユミの言うことは正しいし、親切だけど、なんだか窮屈な感じもする。
夕方になって、二人で夕食の準備をした。ユミは食材の選び方から調理法まで、いちいち説明してくれる。
「この貝は、十分に加熱しないと食中毒の危険が…」
「この果物は、皮をむかないと農薬が…」
「農薬って、無人島なのに?」
「自然の毒素もありますから」
何もかもが注意事項だらけで、私は少し疲れてきた。
「ユミさん、ちょっと神経質すぎませんか?」
つい、そう言ってしまった。
ユミの顔が曇った。
「すみません…職業病で…」
「あ、そういう意味じゃなくて…」
私は慌てて訂正しようとしたが、ユミはもう黙り込んでしまった。
気まずい空気が流れた。
夕食は、美味しかった。ユミの指示通りに作った料理は、昨日の適当な食事とは比べものにならないくらい、ちゃんとした味がした。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
でも、会話は弾まなかった。
夜になって、それぞれの寝床に入った。ユミが改良してくれたベッドは、確かに昨日より快適だった。
「ユミさん、今日は本当にありがとうございました」
暗闇の中で、私は声をかけた。
「いえ…」
「私も、もう少しちゃんとやってみます」
「無理しなくていいですよ」
ユミの声は優しかったが、どこか寂しそうだった。
「でも、やっぱり一人より二人の方がいいかも」
「私もそう思います」
暗闇の中で、私たちは微笑み合った。
価値観は違うけれど、お互いを思いやる気持ちは同じ。きっと、うまくやっていけるはず。
「おやすみなさい、ユミさん」
「おやすみなさい、エリさん」
明日からは、二人の島生活が始まる。
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