魔法のハサミseason2
第11話 もう一度、同じ髪に
秋の終わりは、光の色が少しだけ古くなる。
Magiaの窓から差し込む午後の陽は、夏のように強くはなく、春のように淡くもなかった。使い込まれた木の椅子や、鏡の縁や、棚の上に置かれた小さな花瓶に、ゆっくりと沈むように触れていた。
菜々は、受付の横で予約表を確認していた。
「次のお客様、鈴木梨花さんですね」
その名前を読み上げた瞬間、智也の手がわずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど菜々は、それに気づいた。
「常連さんですか」
「以前、よく来られていました」
智也は、カット椅子の背もたれを整えながら答えた。
「最近は?」
「しばらく来られていませんでした」
「久しぶりなんですね」
「ええ」
智也はそれ以上、何も言わなかった。
菜々は少し気になったが、聞かなかった。Magiaには、そういう名前がいくつかあるのだと思った。予約表の中ではただの文字でも、智也の中には、その人が座っていた椅子の温度や、帰る時の表情まで残っている。
ドアベルが鳴った。
入ってきた女性は、焦げ茶色のコートを着ていた。髪は肩より少し下で、ゆるく波打っている。目元には少し疲れがあったが、立ち姿には、以前何かを乗り越えた人のような静けさもあった。
「お久しぶりです」
鈴木梨花は、少し照れたように笑った。
「お久しぶりです、鈴木さん」
智也が穏やかに頭を下げる。
菜々は、その声の温度が少し違うことに気づいた。特別に親しいというより、以前ここで何か大切な時間があった人へ向ける声だった。
梨花は椅子に座ると、鏡の中の自分をじっと見た。
「今日は、どうされますか」
智也が尋ねた。
梨花は少しだけ間を置いた。
「前と同じ感じでお願いします」
「前と同じ」
「はい」
梨花は鏡の中の自分から目を離さなかった。
「前に、少し変えてもらった時の。あの感じで」
智也は静かに頷いた。
「わかりました」
菜々は、クロスを用意しながら梨花を見た。
前と同じ。
それは簡単な注文に聞こえる。けれど、梨花の声には、ただ髪型を再現したいだけではない何かがあった。
「写真は、続けていますか」
智也が尋ねた。
梨花の指先が、膝の上で少し動いた。
「はい」
短い返事だった。
けれど、そのあとすぐに付け足した。
「一応」
智也はそれ以上、すぐには聞かなかった。
「まず、シャンプーしましょう」
シャンプー台に横になると、梨花は目を閉じた。
お湯が髪に触れ、ゆるく波打った毛束が少しずつ重くなる。店内のピアノの音が、秋の午後に溶けていくようだった。
菜々は少し離れた場所でタオルを準備しながら、梨花の横顔を見ていた。目を閉じた梨花は、どこか安心しているようにも、何かをこらえているようにも見えた。
「撮れていますか」
智也が静かに尋ねた。
梨花はすぐには答えなかった。
「撮ってはいます」
「はい」
「でも、最近、またわからなくなってきて」
「何がですか」
「何を撮りたいのか」
智也の指が、地肌をゆっくりほぐしていく。
梨花は、小さく息を吐いた。
「前にここで髪を変えてもらったあと、しばらく本当に楽しかったんです。朝の光とか、帰り道の影とか、カフェの窓に映った人の顔とか。撮りたいものが、たくさん見えて」
「はい」
「自分の中に、まだ好きなものが残っていたんだって思えて」
菜々は、その言葉を胸の中で受け止めた。
以前の梨花を知らない。けれど、彼女がここで一度、自分の何かを取り戻したのだということはわかった。
「でも、SNSに載せるようになったら、少しずつ変わってしまって」
「変わった?」
「いいねが多い写真を、撮ろうとするようになりました」
梨花は目を閉じたまま、少し笑った。
「最初は、それも嬉しかったんです。見てもらえることが。褒めてもらえることが」
「はい」
「でも、いつの間にか、撮る前に考えるようになっていました。これは伸びるかな、とか、これは地味かな、とか」
お湯の音が続いている。
「そうしたら、また撮れなくなりました」
「カメラは持っていますか」
「はい。毎日バッグに入れています」
「撮らない日も?」
「撮らない日も」
梨花は少しだけ眉を寄せた。
「重いだけなのに、置いていけないんです」
智也は、泡を丁寧に流した。
「今日は、前と同じ髪に戻したいんですね」
梨花は目を開けた。
「はい」
少し間があった。
「戻れば、また撮れる気がして」
智也はタオルで髪を包みながら言った。
「同じにはできます」
梨花は、少しだけ安心したような顔をした。
「でも、まったく同じにはしません」
その言葉に、梨花は目を上げた。
カット椅子に戻ると、濡れた髪が頬の横に落ちた。
梨花は鏡の中の自分を見た。濡れた髪の自分は、少し頼りなく見えた。けれど、そこには以前ここへ来た時の自分も、今の自分も、どちらも重なっているようだった。
「どうして、同じにしないんですか」
梨花が尋ねた。
「今の鈴木さんに合わせたいからです」
智也は櫛で髪を分けながら答えた。
「前の私と、今の私は違いますか」
「違います」
智也は静かに言った。
その言葉は、否定ではなかった。
梨花は鏡越しに智也を見た。
「悪い意味ですか」
「いいえ」
「でも、前の方がよかった気がします」
「そう思う時もありますね」
「戻りたいんです。たぶん」
梨花は小さく笑った。
「また、好きなものを素直に撮れていた時に」
智也はハサミを手に取った。
「戻るのではなく、今のままでも撮れる形にしましょう」
「今のままでも?」
「はい」
ハサミの音が静かに始まった。
智也は、以前の雰囲気を残しながらも、毛先の重さを少し変えた。顔まわりには柔らかさを残し、けれど前よりも少しだけ視線が外へ向かうように整える。以前の梨花が「自分の中の情熱へ戻る髪」だったのなら、今の梨花には「誰かの評価から少し離れる髪」が必要だった。
菜々は、その違いをはっきり言葉にはできなかった。
けれど、智也がただ再現しているのではないことだけはわかった。
「未完成の写真があるんです」
梨花がふいに言った。
「未完成?」
「撮ったけど、載せていない写真です」
「どうして載せないんですか」
「地味だから」
即答だった。
それから梨花は、自分の言葉に少し苦笑した。
「でも、本当は気に入っています」
「どんな写真ですか」
「朝の歩道橋です。誰もいなくて、手すりに雨の跡が残っていて。遠くに、まだ開いていないパン屋の明かりが小さく見えるだけ」
梨花の声が、少しずつ変わっていった。
「何も起きていない写真です。でも、その朝、なぜかすごく綺麗だと思って」
「はい」
「けど、載せたら誰にも見られない気がして」
智也は毛先を整えながら言った。
「見られないと、綺麗ではなくなりますか」
梨花は黙った。
その沈黙は長かった。
菜々は、ふと梨花のバッグを見た。黒いカメラのストラップが少しだけ覗いていた。
「なくならないです」
「たぶん」
「はい」
「でも、見られないと、不安になります」
「不安なまま、載せてもいいと思います」
梨花は鏡の中で智也を見た。
「不安なまま?」
「はい」
「誰にも反応されなかったら?」
「その時は、その写真が静かだったということかもしれません」
梨花は少しだけ笑った。
「静かな写真」
「鈴木さんは、そういう写真が好きなんじゃないですか」
梨花は答えなかった。
けれど、目元が少しだけやわらいだ。
仕上げに、智也は髪を乾かした。
ドライヤーの風で、梨花の髪がふんわり持ち上がる。前と似ている。けれど、まったく同じではない。毛先に少しだけ軽さがあり、顔まわりの髪は以前より自然に落ちていた。
「終わりました」
梨花は鏡を見た。
しばらく何も言わなかった。
「同じに見えるのに」
彼女はゆっくり言った。
「少し違いますね」
「はい」
「前より、軽い」
「今の鈴木さんに合わせました」
梨花は指先で毛先に触れた。
「戻ったわけじゃないんですね」
「はい」
梨花は鏡の中の自分を見つめた。
「でも、戻らなくてもいい気がします」
その声は、小さかった。
けれど、確かにそこにあった。
会計を済ませると、梨花はバッグからスマホを取り出した。
画面を開き、しばらく何かを見つめている。
菜々には、写真の小さなサムネイルが見えた。朝の歩道橋らしきもの。淡い灰色の空と、濡れた手すりと、遠くに小さな灯り。
梨花は投稿画面を開いた。
文字を入力しようとして、少し迷う。
そして、短く打った。
《朝、まだ誰もいなかった》
それだけだった。
梨花はスマホを見つめた。
投稿ボタンに触れる指が止まる。
智也も菜々も、何も言わなかった。
やがて梨花は、小さく息を吸って、投稿した。
「載せました」
その声は、少しだけ震えていた。
「はい」
智也が頷く。
「誰にも見られないかもしれません」
「はい」
「でも、載せました」
「はい」
梨花はスマホを鞄にしまった。
「また来ます」
「お待ちしています」
ドアベルが鳴った。
外へ出ると、秋の終わりの風が梨花の髪を少し揺らした。彼女は通りへ出る前に、店の階段の途中で一度立ち止まった。
スマホが震えた。
誰かが、写真に反応したのかもしれない。
梨花は一瞬だけ画面を見ようとした。
けれど、見なかった。
スマホを鞄にしまい、階段を下りた。
今はまだ、見なくていいと思った。
あの写真を載せたことだけで、今日は十分だった。
店内では、菜々が床を掃いていた。
「梨花さん、前にも来ていた方なんですね」
「はい」
智也はクロスを畳みながら答えた。
「前と同じにしてほしいって、戻りたいってことだったんですね」
「そうかもしれません」
「でも、同じにはしなかった」
「同じにすると、今の鈴木さんが置いていかれますから」
菜々は箒を持つ手を止めた。
「変わったあとに、また迷うこともあるんですね」
「あります」
「一度決めたら終わりじゃないんですね」
「ええ」
智也はカルテを開いた。
「人は何度も整え直します」
菜々は、床に落ちた髪を見た。
それは大きな変化の跡ではなかった。けれど、梨花が過去の自分に戻るのではなく、今の自分で立ち直すために落としていった髪だった。
智也はカルテに書いた。
鈴木梨花。
久しぶりの来店。
以前のスタイルを基調に、今の重さに合わせて調整。
少し間を置いて、もう一行を足した。
戻るためではなく、今の自分でまた撮るための髪。
ペンを置くと、店内には静かなピアノが流れていた。
梨花が座っていた椅子には、まだ少しだけ温度が残っている。
その頃、外を歩く梨花のスマホは、もう一度震えた。
それでも彼女は見なかった。
秋の光が、ビルの隙間から細く落ちていた。
梨花はバッグの中のカメラに触れた。
明日の朝、また歩道橋へ行ってみようと思った。
同じ場所でも、きっと同じ写真にはならない。
それでいい。
今の自分が撮るのだから。
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