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『拝謁記』と『百武日記』が解き明かす昭和天皇の悔恨(後編)

1941年12月8日、ハワイ真珠湾への奇襲成功を伝える号外が日本中を駆け巡った。

国民は熱狂し、街には軍歌が響き渡ったが、皇居の奥深くに座る昭和天皇の表情は、晴れることはなかった。

百武 三郎

侍従長として日々天皇に近侍していた百武三郎は、その日記に、勝利の報告を受けながらも「深く憂悶せらるるご様子」であった主君の姿を書き留めている。

天皇にとってこの戦争は、自らの信念を曲げて署名せざるを得なかった、敗北への序曲に過ぎなかったのである。

緒戦の華々しい戦果の裏で、天皇はすでに、巨大な国力を誇るアメリカとの長期戦がもたらすであろう悲劇的な結末を予見し、深い溜息をついていた。


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▽前編

この記事は、田島道治『昭和天皇拝謁記』や『百武三郎日記』などの史実に基づいた第一級史料を参考に構成していますが、物語としての演出や、当時の天皇の心情を推測して描いている部分が含まれています。歴史には複数の解釈があり、新たな史料の発見によって事実が更新されることもあります。あくまで一つの視点からのドキュメンタリーとしてお楽しみください。

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隠蔽された敗北と「嘘」の壁

左上から時計回りに、日本海軍の零式艦上戦闘機、攻撃を受ける日本海軍の空母飛龍、アメリカ海軍の空母ホーネット上のF4F艦上戦闘機、攻撃を受けるアメリカ海軍の空母ヨークタウン。

戦争が始まると、軍部は情報を独占し、天皇に対してさえ真実を隠し始めた。1942年6月、日本海軍が主力空母4隻を失うという壊滅的な打撃を受けたミッドウェー海戦において、大本営は国民に勝利を偽り、天皇に対しても損害を過小に報告した。

天皇の周囲で情報の取捨選択を行っていたのは、軍部出身の武官たちである。彼らは「統帥権」という名の聖域を盾に、不利な情報を玉座に届かせないフィルターとなっていた。

天皇は、情報の不自然さに気づき、参謀総長や軍令部総長を厳しく問い詰めたが、返ってくるのは「次の一撃で解決いたします」という空疎な精神論ばかりであった。天皇は自らの軍隊が自分に嘘をついているのではないかという疑念に苛まれ、玉座は「情報の孤島」と化していった。

天皇の科学的知性は、大本営発表の数字の矛盾を鋭く見抜いていた。しかし、それを指摘しても、軍部という巨大な組織は自己保存の論理で動いており、もはや天皇の理性すらも、彼らの暴走を止める道具にはなり得なかった。

百武三郎の日記には、戦局の悪化と共に、天皇が地図を前にして沈黙する時間が長くなっていった様子が記されている。

総攻撃で撃破された日本軍95式軽戦車と日本兵の遺体(サイパンの戦い)

1944年、絶対国防圏の要であったサイパン島が陥落し、本土空襲が現実のものとなると、天皇の焦燥は頂点に達した。愛する国民が火の海に投げ出される。その残酷な現実を前にしても、立憲君主という立場は、軍の作戦に直接介入し「戦争を止めろ」と命じることを許さなかったのである。

天皇は、国民の苦難を共有しながらも、それを救うための決断を下せないという、拷問に近い無力感の中にいた。


木戸幸一の苦闘と近衛の警鐘

木戸 幸一

この閉塞的な状況の中で、天皇の唯一の政治的窓口となっていたのが、内大臣の木戸幸一であった。

木戸は、2.26事件で失われた元老・西園寺公望に代わり、宮中の政治工作を一手に引き受けていた知略家である。彼は天皇の平和への願いを理解しながらも、軍部のクーデターを極度に恐れ、和平への道筋を慎重に探っていた。

近衛 文麿

1945年2月、かつての首相である近衛文麿が天皇に拝謁し、有名な「近衛上奏」を行った。

戦局の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。以下前提の下に申上ぐ。

最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり。

つらつら思うに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず。即ち国外に於ては蘇聯の異常なる進出に之なり。我国民は蘇聯の意図を的確に把握し居らず。彼の一九三五年人民戦線戦術即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且つ安易なる視方なり。蘇聯は究極に於て世界赤化を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第なり。

蘇聯は欧州に於て其周辺諸国にはソビエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親蘇容共政権を樹立せんとして着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状なり。

ユーゴーのチトー政権は其の最典型的なる具体表現なり。波蘭に対しては予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切りたり。羅馬尼、勃牙利、芬蘭に対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつもヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権にあらざれば存在し得ざるが如く強要す。イランに対しては石油権利の要求に応ぜざるの故を以て内閣の総辞職を強要せり。瑞西がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為め外相の辞職を余儀なくせしめたり。

米・英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して之等武装団を指揮しつつあるものは主として共産党なり。 独逸に対しては波蘭に於けると同じく、巳に準備せる自由独逸委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図たるべく、之は英米にとり今は頭痛の種なりと思はる。

ソ聯はかくの如く欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引摺らんとしつつあり。ソ聯の此の意図は東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野[11]を中心に日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍・台湾先(一字欠)隊等と連携し日本に呼びかけ居れり。斯くの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政に干渉し来れる危険十分ありと思はる(即共産党公認、共産主義者入閣-ドゴール政府、バドリオ政府に要求せる如く-、治安維持法及防共協定の廃止等)。

飜て国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及、之を背後より操る左翼分子の暗躍等なり。

少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにあり。皇族方の中にも此主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞す。

職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者にして其の多くは共産的主張を受入れ易き境遇にあり。只彼等は軍隊教育に於て国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引摺らんとしつつあるものと思はる。

抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる。

満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実なり。

支那事変当時「事変は永引くが宜し。事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心的人物なりき。

是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これをとり巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云うも可、左翼と云うも可、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命に迄引きづらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存ず。此の事は過去十年間、軍部・官僚・右翼・左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第なり。

不肖は此の間二度迄組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為出来る丈け是等革新者の主張も採り入れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の背後に潜める意図を充分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳なく深く責任を感ずる次第で御座います。

昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶの声次第に勢力を加へつつあり。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居れり。

一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ空気は次第に濃厚になりつつある様に思はる。軍部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずるものあり。又延安との提携を考え居る者もありとのことなり。

以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり。今後戦局益々不利ともならば此形勢は急速に進展致すべし。

戦局の前途につき何等か一縷でも打開の理ありと云ふならば格別なれど、最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るものと云ふべく、従って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す。戦争終結に対する最大の障害は満洲事変以来今日の事態に迄時局を推進し来りし軍部内の彼の一味の存在なりと存ぜらる。彼等は已に戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上アク迄抵抗を続くるものと思はる。若し此の一味を一掃せずして早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志一味と響応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成すること能はざるに至る處れあり。従って戦争を終結せんとせば、先ず其の前提として此の一味の一掃が肝要なり。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚・右翼・左翼の民間分子も影を潜むるならん。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとする者に外ならざるが故なり。故に其本を絶てば枝葉は自ら枯るるものなりと思ふ。

尚之は少々希望的観測かは知れざれども、もし是等一味が一掃さるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及重慶の空気は或は緩和するに非ざるか。元来英米及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改まらば、彼等としても戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はる。

それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建直を実行することは、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存じ奉る。

以上申しげたる点につき間違えたる点あらば何卒御叱りを願度し。— 近衛文麿、

近衛上奏文


近衛は、敗戦はもはや避けられず、このまま戦争を続ければ国民の困窮から共産主義革命が起き、皇室が滅ぼされると訴えた。しかし、この時、天皇は「もう一度戦果を挙げてからでなければ、和平交渉は難しいのではないか」と答えたという。

この判断は、後に戦史研究者から「和平を遅らせた一因」として厳しく問われることになる。だが、その背景には、軍部から「本土決戦を行えば敵に大打撃を与え、有利な条件で講和できる」という虚偽の希望を信じ込まされていたという、情報の断絶があった。

天皇は、国を救うための最善のタイミングを、軍部の嘘という霧の中で見失っていたのである。

百武三郎が日記に記したこの時期の天皇は、深夜まで読書をし、あるいは沈思黙考し、その苦悩から来る消化不良や不眠に苦しんでいた。

天皇にとって、戦争を終わらせるということは、単に停戦を命じることではなく、日本という国家の骨組みをいかにして崩壊させずに守り抜くかという、極めて困難な数式を解くような作業であった。


業火の中で下された決断

原子爆弾の投下によって発生したキノコ雲。
左:広島、右:長崎

1945年8月。広島、長崎への原爆投下、そしてソ連の参戦という、国家崩壊の最終局面が訪れた。

樺太の真岡町(ホルムスク)に進駐するソ連軍、避難する日本人居留民も見える

政府と軍部の最高指導者たちが集まる最高戦争指導会議は、ポツダム宣言受諾を巡って激しく紛糾した。

阿南 惟幾  

陸軍大臣の阿南惟幾は、一億玉砕を掲げて本土決戦を主張し、天皇への絶対的な忠誠心を持ちながらも、陸軍という組織の誇りを守るために戦争継続を譲らなかった。

鈴木 貫太郎

一方、2.26事件で死の淵から生還した老宰相、鈴木貫太郎は、もはや外交的手段は尽きたと悟り、命を賭して天皇の意志を引き出そうとした。

ポツダム宣言受諾による日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の御前会議

8月14日未明、宮中の地下防空壕で行われた御前会議において、鈴木貫太郎は立ち上がり、「もはや天皇陛下の思し召しを仰ぐほかありません」と玉座に問いかけた。それは日本の歴史上、前例のない、そして命がけの越権行為であった。

沈黙ののち、天皇は静かに、しかしはっきりとした声で語り始めた。

「私は、国民がこれ以上苦しみ、これ以上文化が破壊されるのは忍びない。私自身のいかようになろうとも、国民を救いたい」


それは、立憲君主という枠を自ら踏み出し、1人の人間として、そして国家の責任者として下した「聖断」であった。阿南惟幾は、その言葉の重さに咽び泣き、数日後、天皇への謝罪と忠誠を遺書に記して自刃した。

天皇が自らの意志で戦争を終わらせたこの瞬間、日本という国家は一度死に、そして再生への産声を上げたのである。


田島道治と模索した「人間」の道

終戦後、天皇を待っていたのは、戦犯として裁かれる可能性と、廃墟となった国土であった。

田島 道治  

1948年に宮内府長官に就任した田島道治は、銀行家出身の極めて誠実な人物であり、天皇は彼に対してのみ、胸の内に秘めた後悔を吐露するようになる。

『昭和天皇拝謁記』には、天皇が「戦争責任」について自ら触れ、退位すべきではないかと真剣に悩んでいた様子が克明に記されている。田島は、天皇のそのあまりに純粋な、そしてあまりに重い自己処罰の感情を優しく受け止めながらも、象徴としての天皇が果たすべき新たな役割を説き続けた。

天皇は、自らを神とする虚構を脱ぎ捨て、「人間宣言」を通じて国民と同じ地平に立った。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

現代語訳
私と国民との間の結びつきは、常に互いの信頼と敬愛によって結ばれているものであり、単なる神話や伝説によって生まれたものではありません。

また、天皇を「現人神(この世に現れた神)」とし、日本国民を「他の民族よりも優れた民族」であり、ひいては「世界を支配すべき運命にある」とするような、根拠のない架空の考えに基づくものでもありません。

— 『新日本建設に関する詔書』より抜粋


そして、焼け野原となった日本各地を巡る全国巡幸を開始する。

広島県を訪れ歓迎を受ける昭和天皇(1947年、満46歳)

田島道治は、天皇が国民から石を投げられるのではないかと危惧したが、現実に起悟したのは、敗戦に打ちひしがれた国民による熱狂的な、そして涙に濡れた歓迎であった。

天皇は、自らが引き起こしてしまった戦争の犠牲者に祈りを捧げ、国民の苦難に寄り添うことで、象徴天皇としての新たな姿を形作っていった。

田島は、天皇が過去の過ちを深く反省しながらも、未来の日本のために自分に何ができるかを自問自答し続ける、その真摯な姿をノートに書き留め続けた。


退位の念と「お言葉」の削除

マッカーサーとの会見(1945年9月27日、満44歳)

『拝謁記』には、戦後史の表舞台には出なかった天皇の深い葛藤が記録されている。天皇は、連合国軍総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーとの会見において、「すべての責任は私にある」と語った。

それは単なる政治的ポーズではなく、田島道治に語った「私には退位する資格がある」という信念に基づいたものであった。

天皇は、国民が味わった苦しみの責任を自分が取らないことへの不自然さを、生涯を通じて感じ続けていた。田島は、天皇が時折見せるその「辞めたい」という本音を必死に抑え、新しい日本における天皇の必要性を説いたのである。

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団。(1951年9月8日)

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復した。この日は、明治の開国に次ぐ「第2の開国」とも呼ぶべき瞬間であった。

天皇はこの時、田島道治に対し、自らの不徳を詫び、戦争を止められなかった後悔を盛り込んだ「お言葉」を公表したいと強く望んだ。

しかし、当時の吉田茂首相ら政治側の配慮によって、その謝罪の言葉は大幅に削られることとなった。天皇は、自らの言葉が再び政治的な思惑によって制限されることに、複雑な思いを抱いていた。


隠された真実への渇望

研究室内の昭和天皇(1950年頃)

百武三郎が侍従長を退いた後も、天皇の孤独は形を変えて続いていた。戦時中、天皇を最も苦しめたのは、軍という巨大な組織がもたらす「情報の霧」であった。

天皇は戦後、田島道治に対して、戦時中の情報の不透明さについて繰り返し語っている。

ミッドウェー海戦での空母全滅、ガダルカナルでの壊滅的敗北、それらは常に「戦略的転進」という美名に包まれ、天皇の元に届けられた。

天皇は、自らが命じた作戦が、実は現地では全く別の形で行われていたことを知り、自らの無力さと、組織というものの恐ろしさを痛感したのである。

百武日記には、天皇が深夜まで地図を見つめ、各地の戦況を自ら分析しようとした努力が記されている。しかし、供給されるデータそのものが虚偽であるとき、どんなに明晰な頭脳も機能しない。天皇は、科学を愛する人間として、この非合理的な状況に耐え難い苦痛を感じていた。

戦後、天皇が科学者として生物学の研究に没頭した背景には、嘘のない自然界の真理に触れることで、嘘にまみれた政治と戦争の記憶から自分を救い出そうとする、一種の救済があったのかもしれない。


エピローグ|語られなかった退位の真意

戦後、田島道治が記した『拝謁記』には、天皇が「退位」について極めて具体的に、かつ頻繁に触れていたことが明かされている。天皇は、戦犯として裁かれなかったこと、そして自分が生き残ったことに対して、国民への強い罪悪感を抱いていた。

「退位することこそが、私の責任の取り方ではないか」

天皇は田島に対し、そう何度も問いかけている。田島は、天皇を慰めるのではなく、冷徹な現実主義者として、天皇が退位することによる政治的な混乱、特にGHQとの関係悪化や、共産主義勢力の台頭を恐れ、天皇を説得し続けた。

天皇と田島の関係は、君臣というよりは、共通の秘密を抱えた共犯者に近かったのかもしれない。天皇は、自らの内に秘めた闇を、田島という鏡に映し出すことで、ようやく自分の立ち位置を確認することができた。

マッカーサーとの会見で、「私をどのように処遇しても構わない。しかし、国民を助けてほしい」と語った時、天皇はすでに、一人の人間としての自分を捨て、日本という国家を継続させるための「装置」としての自分を受け入れていた。

その自己犠牲の精神こそが、戦後の日本の精神的支柱となったのである。


エピローグ|地下壕に響く静かな涙

ポツダム宣言受諾による日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の御前会議

1945年8月14日の深夜、最後の御前会議が行われた。地下の狭い防空壕は、夏の湿気と高官たちの体熱で異常な熱気に包まれていた。

鈴木貫太郎首相は、開戦時の内閣閣僚たちが次々と強硬論に傾く中で、ただ一人、天皇の「声」を待っていた。

天皇は語った。

「私の一身のことは、どうなっても構わない。ただ、この以上、国民が戦火の犠牲になるのを見たくない。先祖代々受け継いできたこの日本が、灰燼に帰すのを防ぎたい」

その時、陸軍の阿南惟幾は、天皇の足元に崩れ落ち、声を上げて泣いたという。それは、武人としての面目を失った悔しさだけではなく、自らが守るべき主君に、これほどまでに残酷な言葉を言わせてしまったという、臣下としての底知れぬ申し訳なさであった。

天皇の聖断は、誰かを裁くためのものではなく、すべてを背負って終わらせるための儀式であった。

その夜、皇居を包んだ静寂は、数百万の死者たちの沈黙と重なり、新しい日本の夜明けを待っていたのである。


おわりに|新たなる開国と終わりのない祈り

1952年4月28日。日本の主権回復を祝う式典の裏で、昭和天皇は一人、書斎で『拝謁記』の記述にあるような、削られた謝罪の言葉を思い返していたのかもしれない。

明治の開国は世界へと扉を開いた。昭和の「新たな開国」は、平和という名の茨の道へと続く扉であった。天皇は、自分の生涯が、この国の巨大な過ちと、そこからの苦難に満ちた再生の歴史そのものであることを知っていた。

『昭和天皇拝謁記』と『百武三郎日記』。

これら2つの記録が現代の私たちに突きつけるのは、組織というものの恐ろしさと、個人が歴史の中で果たすべき責任の重さである。昭和天皇は、生涯を通じて、あの日、あの時、なぜ暴れ馬を止めることができなかったのかという問いに答え続けようとした。

主権回復から半世紀以上が過ぎた今、私たちがこれらの記録から読み取るべきは、過去への裁きではなく、平和というものが、いかに多くの「後悔」と「沈黙の叫び」の上に成り立っているかという、厳粛な事実である。

戦争は終わったが、天皇の祈りは、今もなお、私たちの歴史の根底に響き渡っている。


参考文献: 田島道治『昭和天皇拝謁記』(全7巻、岩波書店) 『侍従長 百武三郎日記』(中央公論新社) 伊藤之雄『昭和天皇伝』(文藝春秋) 半藤一利『昭和史(戦中・戦後篇)』(平凡社) 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)

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