東大理三の功罪~AI時代の「教育」を問う~
〜教育の本質を問い直すシリーズ・第1回〜
▪️なぜいま、“東大理三”を語るのか
富士山に上ったことがない人はいても、富士山のことは皆が知っている。
東大理三も、これに似ています。
合格するのは、毎年わずか100名程度。
ですが、人気漫画『ドラゴン桜』よろしく、受験に関係する方々の中で、理三の名前を知らない人はまずいません。
そもそも—―東大理三とは『東京大学教養学部理科三類』の略称であり、最高峰の頭脳が集う場所として知られています。
理三合格者に対するインタビュー集である「東大理三~天才たちのメッセージ~」という書籍は、1985年に創刊されて以来、40年以上に渡るロングセラーとなっています。
かく言う私も、私自身の合格体験記、教え子の合格体験記、先輩からのメッセージ欄、として計3回、登場しています。
これらは確かに、東大理三に纏わる情報を社会に提示しています。
ですが合格体験記である以上、どうしても「理三に入るまで」に焦点が当てられ、「理三に入ってから」の情報が不足しています。
『教育』について、より深く議論するためには、理三を経た人たちの『その後』の情報も等しく重要です。
AIが台頭する昨今、私たちは否応なく「AIで代替できないものは何か?」という問いを避けて通れません。
それすなわち「これからの教育はどうあるべきか」という『教育の再定義』が必要であることを意味しています。
この文脈において「これまでの教育」の一つの象徴である「東大理三」を正しく捉えなおすことは、個々人にとっても、社会全体にとっても、意味があると思うのです。
▪️東大理三を相対化する
しかしながら「東大理三」に対する情報は、驚く程、世間一般で誤解されているように感じます。
当事者でない方が「医者になったら、東大理三も、他大学も同じ」とコメントされたり。
一般書籍でも、市場(一般読者)に合わせるという論理のもと、過度に単純化された編集が施されたり。
はたまた、進学校や塾の教員が、生徒本人の適性ではなく、合格実績のために「東大理三」への進学を勧めたり。
こうした背景から得られる情報は、本当に『本質』なのでしょうか。
むしろ、AI時代に「教育の在り方をアップデートしよう」とする、深い悩みを持つ方々に対しては、ミスリードなのではないか、という疑問が生じるのです。
東大理三OBとして、私は母校を愛しています。
ですが、同時に、母校の限界も認識しています。
どこかの誰かが作り上げた偶像ではなく。
等身大の、実像としての、東大理三に関する情報があって。
それらを、皆さまがた個々人が、自分なりに解釈して、咀嚼して、それぞれの教育に活かして頂きたい。
そういう「フェアな世界」であって欲しいのです。
東大理三は一つの象徴ですが、なにも絶対的なものではありません。
慶応には慶応の、慈恵には慈恵の良さがあります。
他大学も同様です。
それぞれの“らしさ”を尊重するためにこそ、象徴としての“東大理三”を相対化する必要があると思うのです。
▪️教育の本当の価値は、後から分かる
そもそも、東大理三とは通過点に過ぎません。
その後の人生を鑑みるに、
・医師としてのキャリア形成
・経済的な恩恵
・幸せな伴侶と家庭
など、偏差値とは別軸の要素が、数多く存在します。
東大理三であることにより、バッターボックスに立つ権利には恵まれます。ですが、その打席で、ヒットやホームランを打てるかどうかは別の話です。
この意味では、確かに、理三である意味合いは限定的です。
では、理三には然程の意味がないかというと、それもまた極論です。
少し、個人的な話をさせてください。
私は5歳のころ、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を素読していました。
当時はもちろん、意味など分かっていません。
ただ、唱えていました。
―—それから、32年後。
37歳の誕生日に、宮沢賢治記念館を訪れる機会がありました。
当時の私は、生きる意味を模索し続けていた時期です。
これからの1年をどう過ごすかを考えていた矢先、宮沢賢治が享年37歳であることを知ります。
そして、私が唱えていた「アメニモマケズ」は、宮沢賢治の弟曰く。
『あれは遺作なんかじゃない。賢さんの、もっと生きたい、という祈りの唄なんだ』
というコメントに衝撃を受けます。
私のこれからの1日1日は、宮沢賢治が生きたくて生きたくて仕方がなかった時間なのだ。
5歳の素読が、32年という歳月を経て、私を圧倒してきました。
私の原体験の一つです。
教育の本当の価値とは、その時、その瞬間に理解しきれるほど、浅いものではありません。
理三であることの本当の意味は、理三の“その後”を経て、初めて分かるものだと考えています。
それは、きっと。
皆さんにとっても、同じだと思うのです。
▪️受験は「答えのある世界」——社会の前哨戦
今一度、大学受験というものを捉えなおしてみましょう。
受験とはどこまでいっても「明示的な答えがある世界」の話なのです。
模範解答があって、それは何年たっても変わらない。
また、別の視点からも。
実は、問題を解く受験生よりも、問題を出す出題者の方が、圧倒的に制約が大きいのです。
実際に、入試問題をつくる立場を考えてみましょう。
年に1回の試験で、受験生の学力を正確に図る必要があるのです。
それも、文部科学省の要綱を守りながら。
受験生の数は、67万人とも推計されています。
これだけの数を扱う以上、その結果は統計に帰結します。
良い問題ならば、67万人の出来栄えは、綺麗に分散します。
悪い問題ならば、67万人の出来栄えは、いびつに偏ります。
つまり、出題する側にとっては、自身の『問題設定能力=受験生という市場を見定める能力』が、品定めされているとも言えるのです。
愉快犯のように適当な出題をしてしまうと、同業からの評価は低下します。
究極的には、出題者として相応しい実力を備えていないと評価され、以降の待遇が悪化する可能性すらあるのです。
こうしてみると、受験問題には、凄まじい制約が課されていることが伝わるかと思います。
結局のところ、入試問題とは「答えがある世界」の話に過ぎません。
それだけでは「答えのない世界」である社会での活躍は約束されていないのです。
このギャップを埋めることも、本来、教育に期待されている役割なのではないでしょうか。
受験では、問題解決能力を競う『解の質』が重要でした。
社会では、問題設定能力を競う『問の質』こそが重要です。
ビジネス用語で言えば、『戦略思考』と『論点思考』の違いです。
このギアのシフトチェンジを、意識的に、能動的に、問いかける主体は、この日本のどこに存在しているのでしょうか。
▪️教育の本質を再定義する
こうした東大理三の相対化は、結局のところ「教育の本質とは何か?」という問いに集約されると考えています。
私なりの答えを述べるならば、『感動の追体験』だと考えています。
それが、座学であれ、スポーツであれ、芸術であれ。
裏を返せば「感動を伴わない教育は、本質的ではない」とも。
その教育に価値があるかどうかは、カリキュラムをこなしたかどうかではなく、感動を生み出したかどうか、で測られるべきなのです。
それが結果として、学業の向上や試験の合格に繋がる。
そんな教育こそが、本当に良い教育だと思うのです。
「何を教えるか」よりも「いかに教えるか」。
これこそが、AIによって代替できない本質だと思うのです。
今回の記事は以上です。
次回以降も、「東大理三」を題材にして、教育の本質をめぐるコンテンツをお届けしていきます。
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銀座アイグラッドクリニック
院長 乾 雅人
