手話民 と 聴者 の “ スレ違い ” は どこで生まれる?
手話の世界を、これまでにない視点で考察する“手話ラボ”へようこそ!
音楽好きの私がたどり着いたのは、“手話そのもの” を知る事よりも
“手話をやっている人の気持ちや感情” を紐解く研究でした。
言語という枠だけでは語りきれない、手話の “もうひとつの姿”。
手の動きに宿る “伝える力”を、音楽と心理学のまなざしで見つめています。
ここではきっと、「それ、私も感じてた」と思わずこぼれるような
“モヤモヤ” を、そっと言語化しています。
~アンケートで見えた “ 壁 ” の正体~
今までの調査では見えなかった“聴者の本音”
手話やDEAFの方々のことを、「接点のない健聴者」にアンケートを取って、見えてきたこと
手話を長く続けている人ほど 、 こう信じています 。
手話は美しい
見れば魅力が伝わる
見たら誰でもやりたくなる
これは 、 長年手話に向き合ってきた人だからこそ持てる 、
とても自然で 、 まっすぐな感覚だと思います 。
しかし今回 、
「手話やDEAFの方々に接点がなく、学ぶ予定も興味も持っていない聴者」
に対して、手話に関するアンケートを実施したところ 、
これまでの調査では見えてこなかった
“構造的なズレ” が明らかになりました 。
実は 、
この層(手話やDEAFの方々に接点のない健聴者)を対象にしたデータは、
日本でも海外でもほとんど存在しません。
行政・大学・研究機関・NPOなどが行う調査の多くは、
手話に興味がある人
手話学習者
手話サークル参加者
DEAFと接点がある人 を対象にしています。
一方で、
「接点ゼロ層」への調査は、社会調査としても極めて珍しい と思います。
興味がない層はアンケートに参加しにくいため、
研究対象として扱われにくい背景があります。
既存研究の空白地帯を埋めるデータ として 、
非常に価値の高いものになりました 。

≪ 聴者の現実 ≫
手話を見ても “素敵だと思う程度” で止まってしまう
本音では 「すごいとは思うけれど、憧れる対象ではない」
手話に接点のない健聴者に
「手話や手話歌や手話話者を見たときの印象」
を聞くと、多くの人がこう答えました。
「素敵だとは思う」
ただしこれは本音というより、
“相手を傷つけないための好意的リアクション” に近いものでした。
自由記述では、こんな本音が見えてきました。
手話ができるのはすごいと思う
でも、別にキラキラして憧れるようなものではない
英語みたいに「ああなりたい」とは思わない
つまり、
「すごいとは思うけど、自分もやりたいとは思わない」
というのが、聴者の正直な感覚なのです。
そもそも「手話」アンテナが立つ構造がない
さらに言えば、健聴者の多くは、
でたらめに手を動かしても / ネイティブが正確に手話をしても
どちらが本物か気づかないレベル です。
だから手話そのものに “憧れ” が生まれにくい。
もし憧れが生まれるとしたら、それは手話の動きではなく、
その人の背景、物語
ろうの方と出会ったなどの “原体験”
といった ストーリーや原体験 に対してです。
しかし、この “原体験” は実はとても生まれにくい
日本で、手話を日常言語として使う手話話者は
人口の約0.02%(=約5,000人に1人) と言われています
(出典:国立障害者リハビリテーションセンター等の推計)。
さらに、聴者の中で「手話がある程度できる人」を 多く見積もっても、
約1万人に3人いるかいないか(0.03%程度) 。
実際はもっと少ない可能性が高い と考えられています。
つまり、
たまたま身近に手話話者や、難ろうの方がいれば理解が深まりますが、
そうでなければ 一生触れ合う機会がないまま という人も多いのです。
原体験がなければ、手話やDEAFの方々にアンテナが立つきっかけも生まれません。
ドラマや映画で感動しても、
BTSが手話を取り入れたダンスを披露しても、
その瞬間は「素敵だな」と思っても、
実際に手話を学ぼうと行動する人はほとんどいない のが現実です。
手話歌を見て「いいな」と思っても、
そこから「自分も手話で話せるようになりたい」と
学習に踏み出す人はごくわずかです。
つまり、
原体験が偶然生まれるかどうかで、
理解が生まれるかどうかが大きく左右されてしまう構造
があるのです。

≪ 手話話者の現実 ≫
① 聞こえに課題がある方々は “見た目に不便がある人” と比べて気づかれにくい
「不便が想像されにくい」という特徴
聞こえに課題がある方々の困難は、外見からは分かりにくいことが多いです。
人は “見た目に不便がある人” を見ると、
自然と「困っているのだろう」と想像できます。
歩行が難しい
身体の動きに制限がある
補助具や介助が必要そうに見える
こうした 見た目に分かる不便 は、すぐに理解されます。
一方で、聞こえに課題がある方々は外見では分かりません。
だから災害時でも、
歩けない人を助けよう
動けない人を優先しよう
とは思っても、
「聞こえに課題がある人をまず助けよう」にはなりにくい。
そもそも、聞こえないことに気づかれないのです。
これは誰が悪いわけでもなく、
人間の認知の仕組みがそうなっている というだけの話です。
② 聞こえに課題がある方々は “主張できる” から誤解されやすい
「声を上げられる困難」と「声を上げられない困難」の違い
聞こえに課題がある方々の多くは、
自分の困りごとを言語化して主張できます。
口話ができる
手話で意見を述べられる
読み書きで意思表示できる
これは本来、とても素晴らしいことです。
しかしここに “構造的な誤解” が生まれます。
健聴者側からすると、
困りごとを説明できる
社会に要求を出せる
という姿が、ときに 「強い主張」 として受け取られてしまうことがあります。
すると健聴者の中には、
理解はしてくれるけれど、
周囲から見て “明らかに困っている” と分かる方々や、
自分で助けを求めることが難しい方々がいる場合、
どうしてもそちらが優先されやすい。
という心理が働きます。
これは聞こえに課題がある方々が悪いのではなく、
「声を上げられる困難」と「声を上げられない困難」の違い が
誤解を生む構造になっているだけです。
➂ 聞こえに課題がある方々の “プライド” と、 “理解されなさ” の 板挟み
「障害者と思われたくない」と「理解してほしい」が同時に存在する
聞こえに課題がある方々は、外見が健聴者とほとんど変わらないため、
複雑な感情を抱えています。
「見た目は健聴者と変わらない」
「話そうと思えば話せる」
という 健聴者に近い側のプライド と、
「聞こえない大変さを理解してほしい」
「もっと配慮してほしい」
「気づいてもらえないのがつらい」
という 困難を抱える側の苦しさ が、同時に存在してしまうのです。
この “外見の近さ” と “内側の困難” のギャップが、
ときに周囲との誤解を生むことがあります。
そしてここで、
健聴者と聞こえに課題がある方々のすれ違いが、最も深くなってしまう。

この “ズレ” を理解しない限り、手話は広まらない
手話民が信じている魅力と、
健聴者が感じている現実は、大きくズレています。
このズレを理解しないまま
「手話を広めたい」と言っても、
外の世界はなかなか動きません。
手話を広めるには、
健聴者の “現実の心理” を、構造として理解することが不可欠です。
これは手話民を責める話ではなく、
「どこに見えない壁があるのか」
を一緒に見つめ直すための話 です。
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