【人物月旦 #15】😢義祖母のはなし
はじめに
このエッセイでは、登場人物のプライバシーを守るため仮名を使用しています。物語や感情は真実に基づいていますが、名前にとらわれず、本質や物語そのものを楽しんでいただけることを願っています。
👇️本編要約
新橋の芸者「まんまる」として華やかな青春を過ごし、震災を乗り越えた私の義祖母のイトさん。しかし、結婚後は田舎で偏見や孤立に悩み、家族内で厳しい冷徹な母親としての一面を見せました。一方、晩年は穏やかで優しい姿を見せ、家族の中で受け入れられていきます。認知症を患い施設で最期を迎えた彼女の人生は、波乱と孤独の中で再生する家族の絆を物語ります。母が語る彼女の冷徹な厳しさと、私が見た穏やかな笑顔のギャップから、その背景に迫る一篇です。
前回の人物月旦では叔父、正蔵さんを取り上げましたが、その中でわき役として登場したのが叔父の義母、イトさんです。彼女は正蔵さんや私の母の幼少期に再婚相手として家にやってきた人物です。(叔父の話は人物月旦#14)
イトさんについて、母はたびたび「冷徹な人だった」と語っていました。彼女は子供たちに愛情を持って接することがなく、時には感情を抑えきれず、キセルで正蔵さんを叩きつけるという暴挙に出ることさえあったといいます。
しかし、その話を聞いて育った私がイトさんと直接生活を共にするようになると、その印象は全く異なるものでした。幼い私にとって、彼女は穏やかで優しく、いつも遊んでくれる温かな存在でした。この大きなギャップを埋めるために、私は彼女の若かりし頃から晩年までの物語を改めて紐解いてみようと思いました。
あの頃、子供だった私は、彼女の行動や言葉の背景にどんな思いがあったのかを深く考えることはありませんでした。大人になった今、母から聞いた話や、自分の記憶をつなぎ合わせながら想像している部分も多くあります。当時の彼女を完全に理解しているわけではありませんが、だからこそ彼女の人生にもう一度向き合いたいと思うのです。それでは本編をどうぞ。
芸者としての青春と震災の記憶
イトさんは若い頃、東京の新橋で芸者をしていました。源氏名は「まんまる」。その名は、丸顔で整った顔立ちを持つ美しい容姿から付けられたものだといいます。新橋の花柳界では彼女の名はよく知られており、華やかな世界の中で、磨き抜かれた美しさと機知を武器に、多くの客から愛されていたそうです。その中には、のちに結婚相手となる私の叔父、正蔵さんの父も含まれていました。
「まんまる」という名前は、彼女の明るい笑顔や愛らしい表情を象徴するものでした。彼女が語った話によると、その名がついた頃の彼女は、若いながらも場の空気を読むのが上手で、周囲に愛される存在だったと言います。
ただ、これらの話はすべてイトさん自身が語っていたもので、どこまでが本当でどこからが脚色なのか、正直なところ私には分かりません。しかし、その語り口は鮮やかで、生き生きとした様子が記憶に残っています。
彼女の人生を大きく揺るがせた出来事が1923年の関東大震災でした。当時、彼女は幸運にも被害の少なかった上野周辺に住んでいたため、直接の火災や建物の崩壊からは免れました。それでも震災後の混乱の中、東京全体が火の海となり、多くの命が失われる様子を目の当たりにしたそうです。
震災が引き起こした大火災では、水を求めて隅田川にかかる橋へ向かった多くの人々が圧死するという悲劇も起きたそうです。彼女は、震災後に友人や親類を探すため、焼け野原となった街を歩き回り、その際、焦げた瓦礫の山や埋もれた遺体を目にし、言葉にできないほどの衝撃を受けたといいます。
「誰がどこにいるのか、まったく分からなかった。でも、探さなきゃいけなかった」と、イトさんは語り、目を潤ませていました。火災の猛威が過ぎ去った後も、彼女の記憶にはその壮絶な光景が焼き付いて離れなかったようです。
再婚と新たな家庭の始まり
震災を乗り越えたイトさんは、その後、新橋で客として通っていた正蔵さんの父と結婚することになりました。正蔵さんの母が事故で亡くなった後、ひとりで子育てに奮闘していた正蔵さんの父にとって、明るく世話上手なイトさんの存在は心強かったのでしょう。しかし、この再婚は子供たちにとって決して歓迎されるものではありませんでした。
田舎に移り住んだイトさんは、華やかな新橋での生活とは一変した日常に適応しなければなりませんでした。田舎では芸者としての彼女の過去がいかがわしいものとして見られたようで、地元の人々からは「好奇の目」で見られることも多かったといいます。実際の、彼女は芸事や歌で名を馳せたプライドを持つ女性であり、決していかがわしいものではありませんでした。しかし、田舎のそういった知識のない人々にとっては、花柳界そのものがいかがわしいものと同一視され、偏見を抱かれることが少なくなかったようです。
そのため、近所づきあいもままならず、地元の人々の噂話に悩まされる日々が続いたようです。彼女は都会で培った気丈さを保ちながらも、次第にそのストレスを家庭内で抱え込むようになり、それが正蔵さんや私の母に向けられることがあったといいます。
「私たちには、優しい母ではなかった」と母は語っていました。イトさんは、感情を抑えきれず厳しい言葉を浴びせたり、時にはキセルを手にして正蔵さんを叱りつけることもあったそうです。そのような振る舞いが子供たちの心に恐怖を植え付けたのは間違いありません。
一方で、イトさん自身にも苦しみがあったのだろうと、母は後になって振り返るようになりました。新しい土地で孤立し、地元の偏見や噂話に苛まれる中、母親という役割を突然押し付けられたイトさんは、逃げ場のない苛立ちや孤独を抱えていたのかもしれません。
それでも、夫である正蔵さんの父とは強い絆を築き、家族のために懸命に働き続けました。しかし、その生活も長くは続きませんでした。夫が胃がんで亡くなり、イトさんの生活は再び大きく変化することになります。
長男家との確執と実家への移住
夫の死後、イトさんは行く当てを失い、家業を継いだ義理の息子である長男の家に身を寄せました。しかし、彼女と長男の妻との関係は思わしくなく、家庭内の摩擦が絶えませんでした。母から聞いた話では、長男の妻は「姑が芸者出身なんて恥ずかしい」と露骨に嫌悪感を示していたそうです。田舎社会の偏見がさらにイトさんを孤立させ、家族内の亀裂を深める一因となっていました。
やがてイトさんはその家を追われるように出て行くことになります。最終的に私の母と父がイトさんを引き取ることになりました。当初、父は消極的で、「長男から一時的に預かるという条件付き」で引き受けましたが、結局その約束は反故にされ、イトさんは私の実家で生涯を過ごすことになります。
私が幼かった頃のイトさんは、とても穏やかで優しい存在でした。私にとって彼女はおばあちゃんのような暖かさを持ち、遊んでくれる心優しい大人だったのです。しかし、母から聞かされるイトさんの過去、特に正蔵さんや母が子供だった頃の厳しい振る舞いとは全く異なる印象に、幼いながらも戸惑いを覚えました。
大人になった今振り返ると、イトさんがあの穏やかさを持つに至った背景には、夫を失い、家庭を転々とした孤独な経験が影響していたのではないかと思います。彼女は「家族」に対する思いを再構築し、自分なりの形で家族と向き合う努力をしていたのかもしれません。
認知症と晩年の苦悩
時が経ち、イトさんも年老いて認知症を患うようになりました。最初は軽度の物忘れから始まった症状でしたが、次第に日常生活にも支障をきたすようになり、家族全員がその対応に悩むようになりました。私が実家を離れた後、家族内では彼女を施設に預けるべきかどうかで激しい議論が起きたと聞いています。
母は最後まで施設に預けることに反対しました。幼い頃、イトさんから辛い仕打ちを受けた記憶がありながらも、彼女を見捨てることはできないと感じていたのです。「あの人は私たちに厳しかったけど、それでも家族だから」と母は言っていました。母の中には義務感だけではなく、イトさんの孤独をどこかで理解しようとする複雑な感情があったのだと思います。
しかし、認知症の症状が進行し、イトさんの介護が日々重くのしかかる現実の中で、家族は最終的に彼女を施設に預ける決断をしました。母はこの決断を受け入れることができず、施設に送る日には涙を見せたと聞いています。「自分がもっと頑張れば、家で最後まで面倒を見られたのに」と後悔の言葉を漏らしていたそうです。
それでも、母はイトさんを見捨てることはありませんでした。施設に入所してからも、毎日バスに乗り、片道1時間以上かけてイトさんを訪れる日々が始まりました。その姿は家族全員にとって心に重く響くものでした。母のその姿を見かねた父も、次第に母に同行するようになりました。当初は渋々といった様子だった父も、次第にイトさんの面倒を見る母を支えるため、自然と彼女の見舞いに足を運ぶようになったのです。二人で通うその姿は、私にとって、家族の絆の象徴のように思えました。
私も何度か母に同行し、一緒に施設を訪れたことがあります。施設の中で、小さくなったイトさんがベッドに横たわる姿を初めて見た時、私は胸が締め付けられるような気持ちになりました。かつての毅然とした面影はなく、頼りなく小さな姿に変わり果てていたのです。それでも母が「おばあちゃん、元気?」と声をかけると、イトさんは小さな声で「元気だよ」と答えました。その瞬間、母の顔に安堵の表情が浮かんだのを今でも覚えています。
施設でのイトさんは、日ごとに記憶を失いながらも、母や父が訪れると短い間だけ笑顔を見せたそうです。その笑顔は、母にとっての救いでもあり、切なさでもあったのです。私は施設で見たその笑顔を忘れることができません。
やがて、イトさんの症状は進行し、会話をすることも難しくなっていきました。それでも母と父は通い続けました。それは母自身、彼女に対する思いを整理し、理解しようとする時間でもあったのでしょう。
そして、イトさんが施設で静かに息を引き取る日が訪れました。その日、母と父はいつも通り彼女を訪ねていました。看護師から「今朝から容態が良くありません」と告げられた母は、イトさんの手を握りしめながら最後の時間を過ごしました。彼女の目はほとんど閉じられていましたが、母が名前を呼ぶと、わずかに眉が動いたように見えたといいます。そして、イトさんは静かに息を引き取りました。
葬儀は簡素なものでしたが、母と父は最後まで彼女を見送りました。「あの人は私たちにたくさん苦労をさせたけど、それでも最後にこうして見送れてよかった」と母は静かに語っていました。施設での最期の時間は、家族にとっても彼女自身にとっても、穏やかな終わりだったのかもしれません。
私が見たイトさんの笑顔、母と父が見続けた彼女の変化。それは、私たち家族がイトさんをどう理解し、受け止めていったかの過程そのものだったように思います。
終わりに
イトさんの人生は、決して平坦なものではありませんでした。華やかな過去、震災を生き延びた強さ、そして再婚後の田舎での偏見と孤独。彼女は試練を乗り越えながら、そのたびに新しい形で自分を再構築していったのだと思います。
子供だった私は、彼女の人生の複雑さや苦しみを理解することはできませんでした。ただ、彼女と過ごした穏やかな時間が記憶に残っています。そして、大人になった今、その記憶を母から聞いた話や自分の経験と結びつけながら振り返ることで、イトさんの姿を再び見つめ直しています。
イトさんが残したもの、それは、私にとって、人間としての複雑さそのものでした。その全てが彼女の人生の一部であり、私の中にも深く刻まれています。
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