盛者必衰、再読——平家物語と、監査の時代
序章:この記事を書いている理由
平家物語との出会いは、古典の授業ではありませんでした。
きっかけは義兄です。
彼は黒澤明の熱烈なファンでした。とりわけ強く残ったのは、『羅生門』と『乱』でした。どちらも平家物語の映画化ではありません。
しかしどちらにも共通していたのは——栄華の陰で秩序が崩れ、人々がそれぞれの「正しさ」を抱えたまま、時代の奔流に飲み込まれていく——あの世界観でした。
その源流を辿りたくて、私は平家物語へ行き着きました。
そこに待っていたのは、学校の教科書で習った「源平合戦の物語」ではありませんでした。成功した人々が、なぜ変化を見失うのか。誰もが合理的に振る舞っているはずなのに、なぜ時代そのものは別の方向へ流れていくのか——人間と組織をめぐる、きわめて現代にも通ずる記録でした。
以来、平家物語は私にとって「時代が移る瞬間を記録した書物」として、折に触れて読み返す書になりました。
だから、先日ある記事を書き終えたとき、頭の中にすっと浮かんできたのは、平家物語のある場面でした。
その記事は「善意が、思考を止める日——IFRSという鏡に映ったもの」です。
エレベーターで梅雨の話しかできなくなった人のこと、会議室で「減損の兆候が認められます」と告げられたこと、そして「誰の悪意もない場所で、誰も意図しなかった結果が静かに生まれていく」という感覚——この記事を書きながら、ずっと頭の片隅に平家物語のある場面がありました。
この記事は、その感覚を辿り直す試みです。
平家物語を時系列に沿いながら、対応する現代の経済事件と、それを受けて設けられた監査・会計の規制を並べていきます。
平安末期の武士たちの話であると同時に、現代を生きる私たち自身の話でもある、と私は思い書きました。
第一章:頂点と、批判回路の封鎖
平家物語より——祇園精舎〜我身栄花(巻一)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
(祇園精舎とはインドにあったお釈迦様ゆかりの寺院です。その鐘の音には、すべてのものは移り変わるという真理が響いている、という意味です)
平家物語はこの一文から始まります。物語が始まる前に、すでに終わりが告げられている。私がこの冒頭を読むたびに思うのは、これが「予言」ではなく「結論」として置かれている、ということです。
平家は、最初から強かったわけではありません。
清盛の先祖を辿ると、桓武天皇の皇子まで遡ることができます。しかし中頃は都の生活からも遠ざかり、地方で細々と生きる一族でした。清盛の祖父・正盛の代になって、ようやく中央政界へ足がかりを得た。
物語は、そんな清盛の若い日のエピソードを丁寧に描いています。
熊野詣での船に、大きな鱸(すずき)が飛び込んできたことがありました。精進潔斎——肉や魚を断って身を清める旅の最中でしたが、清盛は躊躇わず、その鱸を自分で食べ、従者たちにも振る舞いました。「昔、周の武王の船に白魚が躍り入った」という古い故事を引いて、自らの判断を正当化しながら。規則に縛られるよりも、目の前の状況を読んで動く。その柔軟さが、この一場面に凝縮されています。
そして清盛は、太政大臣——朝廷における最高位の臣下——にまで登り詰めました。
一門の権勢が頂点に達したとき、清盛の義弟・平時忠が言いました。
「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」
(この一族に属さない者は、もはや人間扱いされない——という意味です)
傲慢に聞こえます。しかしこれは傲慢というより、ある種の「認識の結果」として語られているように見えます。平家は実際に権力の頂点にいた。その事実が、この言葉を生んだ。成功が先にあり、この言葉はその証言でした。
問題は、この言葉の後に続いた出来事の方にありました。
清盛は「禿童(かぶろ)」と呼ばれる少年たちを、三百人、京の街に放ちました。髪を短く切り揃え、赤い直垂を着た十四、五歳の少年たち。彼らは京の街を歩き回り、平家への批判を拾い上げました。誰かが平家の悪口を言えば、その家に乱入し、財産を没収し、六波羅(平家の本拠地)へ連行する。

その結果として何が起きたか。物語はこう記します。
「目に見え、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし」
(目で見てわかっていても、心でおかしいと思っていても、口に出す者がいなくなった)
批判の回路が、閉じました。
清盛が批判を弾圧したかったのかどうか、私にはわかりません。むしろ「一門の威信を守りたい」という、組織として理解できる動機が、ああいう制度を生んだのだと思います。
しかしその結果として——「これはおかしい」という声が、届かなくなった。
成功が、フィードバックの経路を閉じた。
この場面を読むたびに、私の頭に浮かぶのは、二十年以上前のある出来事です。
対応する経済事件——エンロン(2001年)
エンロンは、1985年に設立されたアメリカのエネルギー企業です。デリバティブとITを組み合わせた革新的なビジネスモデルで、全米第7位の売上高まで登り詰めました。「最も革新的な企業」として六年連続で称えられ、経営者は時代の寵児として扱われていた。
監査を担当していたのは、アーサー・アンダーセンという世界5大会計事務所の一角を占める名門の監査法人でした。両社の関係は十年以上に及び、エンロンがアンダーセンに支払っていた報酬は監査とコンサルティングを合わせて年間約1億ドル——今の感覚で言えば、百億円を超える規模です。
そのアンダーセンの内部で、中堅の監査担当者がエンロンの不審な取引を上司に告発していました。「この会計処理は、荒っぽすぎる」と。
その声は、届きませんでした。
年間1億ドルの報酬を失うことを恐れた幹部たちが、その告発を握り潰したのです。
「目に見え、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし」——平家の禿童が生んだのと同じ状態が、アーサー・アンダーセンの内部でも起きていました。
ただし決定的な違いが一つあります。禿童制度は、清盛が意図して作ったものでした。しかしアンダーセンの内部で批判の声が消えたのは、誰かが意図して潰したからではなかった。組織として合理的に動いた結果として——巨大な収入を守ろうとした結果として——そうなった。
悪意ではなく、合理性が、フィードバックの経路を閉じた。
2001年12月、エンロンは経営破綻しました。負債総額は310億ドルを超えました。従業員2万人以上が職を失いました。翌年、アーサー・アンダーセンも解散しました。「世界5大会計事務所」が「ビッグ4」になった瞬間です。
対応する監査規制——SOX法(2002年)
エンロンとワールドコム(同じくアンダーセンが監査していた通信大手で、2002年に当時史上最大の倒産を記録)を直接の契機として、2002年7月、アメリカで「サーベンス・オクスレー法(SOX法)」が成立しました。
目指したのは「監査人が企業と癒着できる構造」を壊すことでした。CEOとCFOによる財務諸表への個人保証と刑事責任、監査業務とコンサルティング業務の分離、内部統制の外部監査義務(Section 404)——批判の声が握り潰される構造を、制度として防ごうとした。その方向性は正しかったと思います。
ただ——SOX法が求める内部統制の文書化と検証は、膨大なコストと工数を現場に求めました。「何か問題のあるように見えることは一切やってはいけない」という萎縮が、別の形の思考停止を生み始めた。
批判の声が届くようにしようとした制度が、今度は「判断すること自体がリスクになる」感覚を、別の場所に育てました。この反転は、この先のエピソードでも、形を変えながら繰り返されます。
第二章:内部の声が、消えるとき
第一章で失われたのは「外から届く批判の声」でした。ここで失われるのは「内側から上がる諫言の声」です。そしてその消え方は、エンロンのように合理的な圧力によるものだけではありません。
平家物語より——重盛の諫言と死(巻二〜巻四)
平家物語の中で、私が最も長く考え続けている人物は、清盛の嫡男・平重盛です。
重盛は、一門の中でほぼ唯一、父・清盛に正面から異を唱えた人物として描かれています。
最もよく知られる場面は、後白河法皇の幽閉をめぐるものです。清盛が後白河法皇を鳥羽殿に閉じ込めようとしたとき、重盛は父を諫めました。
泣きながら、とも書かれています。私なりに訳すとこうなります。

「朝廷に反くことも、親に背くことも、私にはできません。この矛盾の中で私が選べる道は、ただ一つ——出家して、この世から身を引くことだけです」
重盛の苦悩は、組織の中で良識を持つ者が必ず直面するものです。
上の判断がおかしいと思っている。しかし上に逆らえば自分が排除される。かといって黙って従えば、その判断に加担したことになる。その二律背反の中で、少しずつ体を壊していく。
1179年、重盛は43歳で死にました。
物語はその死を静かに記した後、すぐ次の展開へ進みます。清盛が後白河法皇を幽閉する。翌年、以仁王が源氏に平家打倒を呼びかける。源氏が各地で挙兵する。物語の歯車が、明らかに速くなります。
「内部で異を唱えることができた唯一の人物」が早世した後、一門を止める声は確かになくなった——と物語は示しているように見えます。
諫言する者がいなくなったとき、組織は止まれなくなる。
この構造を見るたびに、私の頭に浮かぶのは、二つの事件です。
対応する経済事件——カネボウ(2005年)と東芝(2015年)
カネボウとは、化粧品・食品・薬品・日用雑貨を束ねた総合生活企業として、かつて日本を代表するブランドの一つでした。
2005年、その実態が明らかになりました。9期連続で実質的な債務超過状態にあったこと。粉飾の総額が2,150億円に達していたこと。監査を担当した中央青山監査法人の公認会計士4名が逮捕されました。監査人が被告席に立つ——これは日本の会計史において、前例のない事態でした。
問題は「誰かが最初から不正を意図していたのか」ではなく、「なぜそれが9年間続いたのか」にあります。おそらく内部では「これはおかしいのではないか」という声があったはずです。「今期だけは」「この程度なら」「来期には改善されるはずだから」——そういう小さな判断の積み重ねが、年を重ねるごとに引き返せない場所まで積み上がっていった。
重盛が早世して清盛を諫める者がいなくなったように——カネボウの内部でも、「これはおかしい」という声を届けられる経路が、いつの間にか細くなっていた。
東芝の不正会計が発覚したのは2015年です。7年間にわたり、累計2,248億円の利益が水増しされていました。
こちらは少し異なる形で、同じ構造が現れています。
第三者委員会が指摘したのは「チャレンジ」という言葉でした。経営幹部が「もっと利益を出せ」というプレッシャーを、この言葉で現場に伝えていた。問題は、その「チャレンジ」が現場では「数字を作れ」という意味に変換されていたことと、誰もその変換が起きていることを経営幹部に届けられなかった点にあります。
3代にわたる経営トップの派閥構造が、内部通報の経路を実質的に機能不全にさせていた、と報告書は述べています。重盛が二律背反の中で体を壊したように——東芝の現場も、おかしいとわかっていながら、声を上げられない構造の中に置かれていた。
諫言する者がいなくなった後の平家が止まれなくなったように、その声が届かなくなった組織は、気づかないまま進み続けます。
中央青山監査法人は後に解散し、新日本監査法人は東芝への監査で行政処分を受けました。
対応する監査規制——公認会計士法改正・J-SOX(2006年)
カネボウ事件を受けて、2006年、公認会計士法が大幅に改正されました。監査法人への金融庁による監督が制度化され、品質管理体制の整備が法律上の義務になりました。同年、金融商品取引法(J-SOX)が成立し、上場企業への内部統制報告書の作成と外部監査が義務付けられました。
「おかしい」という声が届く構造を、制度として作ろうとした。その方向性は正しかったと思います。
ただ、外部からの検査が強化されたことで、監査法人の現場にも静かな変化が起き始めました。「指摘しなかったことへのリスク」が、「指摘しすぎることへのリスク」を上回る環境が、少しずつ形作られていきました。
重盛という諫言する者の空白を、外部の仕組みで埋めようとした。しかしその仕組みが、今度は現場に別の重さを乗せることになりました。
第三章:正しい判断が、孤独になされるとき
批判も諫言も残っていたとしても、意思決定の過程が内部で共有されなければ、組織は同じ方向を向けなくなります。
平家物語より——福原遷都(巻五)
1180年、清盛は突然、都を福原(現在の神戸市付近)へ遷すことを決定しました。

この決断には、地政学的な合理性がありました。福原は瀬戸内海の要衝に位置し、日宋貿易の拠点として清盛が長年心血を注いできた土地でした。長期的な視点から見れば、必ずしも荒唐無稽ではありませんでした。
しかし決定の過程に、決定的な欠如がありました。内部の合意が、なかった。
公卿たちは突然の遷都命令に困惑しました。新しい都の造営は不十分で、既存の建物を解体して移築しながら住むような状態でした。そして各地で源氏の挙兵が起きているさなかに——なぜ今、この決断なのか。その問いに答える言葉が、清盛からは出てきませんでした。
「なぜ今か」が共有されないとき、現場は自分なりに意味を補完しようとします。それぞれが別の解釈を持ち、組織はバラバラに動き始める。
遷都からわずか半年後、平家は京都へ戻りました。
決断の内容ではなく、決断の過程が、組織を離反させることがある。
この場面を読んで私が思い浮かべるのは、1998年に破綻した日本長期信用銀行の話です。
対応する経済事件——日本長期信用銀行(1998年)
日本長期信用銀行(長銀)は、1952年に設立された名門の政策金融機関でした。企業に長期の資金を供給するという特別な役割を担い、日本の高度経済成長を支えた一翼を担っていました。
1988年、長銀は不動産関連融資を一気に拡大する経営計画へと舵を切りました。この方針に慎重論を唱えた役員は、まもなく関連会社への出向を命じられました。
翌年から積極的な融資攻勢が始まり、バブルが崩壊すると、その融資の多くが不良債権化しました。
ここから先に起きたことが、福原遷都の構造と重なります。
長銀の経営陣は、不良債権を長い目で処理するという「計画的段階的処理」のレールの上を走り続けました。不良債権処理に必要な額が約8,000億円と内部で認識されながら、実際の処理は約6,000億円にとどめられました。
1998年の提携交渉で、スイス銀行が長銀の帳簿を精査し、「必要な処理額は9,200億円だ」と主張しました。長銀が外部向けに「5,000億円」と説明していた数字、内部で認識されていた「8,000億円」、スイス銀行が算出した「9,200億円」——三つの数字が、それぞれの場所で孤立していました。
「なぜこの数字なのか」という問いは、どの場所でも正しく共有されていなかった。それぞれが自分なりに意味を補完し、それぞれの文脈で動いていた。
清盛が「なぜ今か」を説明しないまま遷都を決めたとき、公卿たちがそれぞれの解釈で混乱したように——長銀をめぐる数字もまた、共有されないまま、それぞれの場所で別の意味を持っていた。
1998年10月、長銀は一時国有化されました。最後の株価は2円でした。
対応する監査規制——不正リスク対応基準(2013年)
東芝事件の発覚前年、2013年に「不正リスク対応基準」が日本の監査基準に加えられていました。
それまでの監査は、主に「計算ミスや手続きミス(誤謬)を発見する」ことを中心に設計されていました。意図的な虚偽——不正——に対しては別の考え方が必要だ、という認識から生まれた基準です。経営者へのより踏み込んだ質問、不正が疑われる場合の追加調査、内部通報制度が実際に機能しているかの確認——そういった手続きが明確に求められるようになりました。
ところが東芝事件はその翌年に発覚し、これらの手続きが「トップからの圧力による組織的不正」の前では十分に機能しなかったことが明らかになりました。
ここに、今も答えの出ていない問いが残ります。
組織のトップが情報を歪めているとき、外部からそれを見抜く構造的な方法は、まだ十分に存在しない——というのが正直な実情です。
この問いへの答えが出ないまま、監査基準はさらに詳細になり、求められる文書は増えていきました。手続きの増加が、問いそのものを覆い隠していくような、奇妙な感覚が残ります。
第四章:問題を、見えない場所へ移すとき
批判も諫言も、意思決定の共有も失われたとき、組織はやがて別の方法を学びます。問題そのものを見えない場所へ移すことで、今日をやり過ごす——という方法を。
平家物語より——都落ちと忠度の別れ(巻七)
源義仲の上洛が迫る中、1183年夏、平家は都を捨てました。安徳天皇と三種の神器を抱え、一門は西国へ落ちていきました。
物語はこの「都落ち」の場面を、静かな抒情で描いています。
忠度(ただのり)という人物がいます。清盛の末弟で、武将であると同時に当代きっての歌人でもありました。都落ちの夜、忠度は馬を返し、歌人・藤原俊成の邸を一人で訪ねました。「世が静まったあかつきには、勅撰集への一首なりともお取り上げください」そう言い残して、巻物を預け、夜の闇の中へ去っていきました。

経正(つねまさ)という人物もいます。清盛の甥で、琵琶の名手でした。都落ちの前、仁和寺の御室(皇族出身の高僧)のもとを訪ね、預かっていた琵琶「青山」を返しにいきました。「都にいる間は格別のお計らいをいただきました」と礼を述べ、琵琶を置いて去った。
美しいものを作り続けた人々が、それを携えて逃げるのではなく、置いていく。帰れないかもしれない、ということを、どこかでわかっていたように見えます。
問題は移動した。しかし消えてはいなかった。現実を見えない場所へ移し替えることで、今日一日をやり過ごす——この構造が、平家の都落ちには見えます。
この場面を読んで私が思い浮かべるのは、1997年11月のある記者会見です。
対応する経済事件——山一證券(1997年)
1997年11月24日、山一證券の野沢正平社長が、記者会見の場で泣きました。
「私らが悪いのであって、社員は悪くありませんから」
野沢社長は、社長に就任して初めて会社の深刻な実態を知った人間でした。自分が経営する会社が2,600億円を超える簿外債務を抱えていたことを、社長室に入るまで知らなかったのです。
「飛ばし」と呼ばれる手法がありました。バブル経済の崩壊で、顧客企業に多額の損失が出ました。「法人の山一」と呼ばれた同社は、顧客との長年の関係を守るために、その損失を自社で肩代わりしました。しかしその損失を決算に計上すると、自社の財務が傷む。だから「飛ばした」——決算期の異なる別の会社に、後で買い戻す約束をして転売し、帳簿から消した。
「いつか株価が回復すれば、元に戻せる」。その楽観が出発点でした。傲慢ではない。むしろ顧客への誠実さから始まった行為でした。
株価は回復しませんでした。簿外債務は金利が積み重なり、膨らみ続けました。現実は消えていなかった。見えない場所に移されていただけでした。
忠度が藤原俊成の邸を夜半に訪ね、歌集を預けて去ったとき——帰れないかもしれないとわかっていながら、「それでもいつか都に戻れる」という確信を手放せなかったように。
対応する監査規制——会計ビッグバン(1998〜2001年)
山一破綻を一つの契機として、日本は1990年代後半から「会計ビッグバン」と呼ばれる一連の会計制度改革を実施しました。
核心は「見えない場所をなくすこと」でした。連結決算主義への移行(2000年3月期から)、金融商品の時価会計(2001年3月期から)、キャッシュフロー計算書の義務付け(2000年3月期から)——山一が使った「飛ばし」を制度的に不可能にしようとした改革です。
「見えない場所に問題を移す」ことへの、正当な処方箋でした。
ところが——連結の範囲が広がるにつれ、監査の対象も広がりました。「見えない場所をなくす」ための制度が、「見えるようにしなければならない場所」を大幅に広げた。監査の現場に求められる作業の量と専門性が、急速に高まりました。この流れの先に——現代の監査法人の中間層流出問題の、遠い起点の一つがあるように、私には見えます。
第五章:最後まで、正しさを疑わなかったとき
批判の回路が閉じ、内部の声が消え、意思決定が孤立し、問題が見えない場所へ移されていく——その果てに、組織は何に行き着くのか。自分たちの世界の正しさへの、揺るぎない確信です。
平家物語より——壇之浦(巻十一)
1185年3月24日、壇之浦。
この日、平家は滅びました。
潮の流れが変わり、源氏の軍勢が押し寄せてきたとき、二位の尼——清盛の妻・時子——は幼帝・安徳天皇を抱きかかえて、海に向かいました。

安徳天皇は数え年8歳でした。何が起きているのかわからなかったかもしれません。「どこへ行くのか」と問う帝に、二位の尼は答えました。
「波の下にも都はさぶらふぞ」
(波の下にも、都はありますよ)
この言葉を、私は長い間「慰めの嘘」として読んでいました。幼い子どもを安心させるための、最後の優しさとして。
しかし今は、もう少し別の読み方をしています。
二位の尼は、本当にそう信じていたのかもしれない。平家の世界こそが都だという確信を、波の下まで持ち続けていたのかもしれない。
平家は、何度も外部からの警告を受けていました。源氏の挙兵。富士川での敗走。一の谷での奇襲。しかしその都度、「一時的な異常」として処理し続けた。認識の構造そのものが、変化を受け取る回路を閉じていた。
平家は傲慢だったから滅んだのではない、と私は思います。
平家は、自分たちの世界の正しさを、最後まで疑えなかった。その確信が、外部からの信号を遮断し続けた。
この場面を読んで、私がすぐに思い浮かべるのは、2020年のある企業の話です。
対応する経済事件——ワイヤーカード(2020年)
ドイツのオンライン決済企業ワイヤーカードは、フランクフルト証券取引所の主要指数DAXに採用されている優良企業でした。ドイツにとって希少なフィンテックの旗手として、国を挙げて期待されていました。
英紙フィナンシャル・タイムズが最初の不正疑惑を報じたのは2019年1月のことです。
その報道に対して、何が起きたか。
ワイヤーカードの経営陣は「空売り勢力と結託したメディアの攻撃だ」と主張しました。そしてドイツ金融監督庁(BaFin)は——その主張を支持し、ワイヤーカード株の空売りを2ヶ月間禁止しました。さらに疑惑を報じていたFTの記者について、市場操作の疑いで調査を開始しました。
警告を発した者が、逆に告発される。
「波の下にも都はある」という確信が、経営陣だけでなく、監督当局にまで広がっていたように見えます。
監査を担当していたEYは、3年間にわたって銀行口座の残高を十分に確認していなかったと後に報じられました。2020年6月、「約19億ユーロ(約2,300億円)の現金の存在を確認できない」と告げたことで、すべてが崩れました。6月25日、ワイヤーカード破産申請。CEOが逮捕されました。2021年1月、BaFin長官が辞任。2023年、EYはドイツで2年間の新規監査禁止処分を受けました。
対応する監査規制——グループ監査基準の改正(2023年)
ワイヤーカード事件も含む一連の大型不正会計を受けて、日本では2023年、「監査基準報告書600(グループ監査における特別な考慮事項)」が改正されました。
改正の核心を一言で言えば、こうなります。「グループの中に、見えにくい場所を作ってはならない」。
改正前は、グループ全体の規模から見て「重要性が低い」と判断された子会社や孫会社については、より簡易な手続きで済ませることが認められていました。改正後は、この「規模が小さいから省略できる」という発想がなくなりました。規模の大小にかかわらず、グループ監査人はすべての構成単位に個別に向き合うことが求められるようになっています。
「波の下にも都はある」と言いながら見えない場所を放置してしまう——その構造への、制度上の応答です。
しかし——「すべての構成単位に個別に関与する」ということは、関与すべき対象が格段に広がることを意味します。その一方で、監査法人の現場では3〜5年目の中間層が相次いで一般企業へ転職していく現象が続いています。関与すべき対象は広がる。しかし関与を担う人材の厚みは、薄くなっていく。
この二つが、同時に進んでいます。
そしてこの問題は、「善意が、思考を止める日」に書いた、あの会議室の場面へとつながっていきます。
終章:内側に残された者が、語るとき
平家物語より——建礼門院・大原御幸(灌頂巻)
平家物語は第十二巻で実質的に終わります。しかし「灌頂巻」という補巻があります。
後白河法皇が、京都・大原の寂光院に落ち延びた建礼門院を訪ねる場面です。
建礼門院は、清盛の娘でした。安徳天皇の母でした。壇之浦で海に入りましたが、生き延びて、山深い大原の寺で隠棲していました。

後白河法皇が問います。一門の栄枯を、どのように経験されましたか、と。
建礼門院は答えます。仏教の「六道」——地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界——すべてを、私は一身に経験しました、と。栄華の頂点にいたことも、滅亡を見届けたことも、一人生き残ったことも、すべてが「六道」という枠組みの中に収まっていく。
これは勝者による歴史の記述ではありません。内側に残された者が、自らの体験を語ることで、初めて届く何かがある。
建礼門院は「平家が正しかった」とも「間違っていた」とも言いません。ただ、それが起きた、ということを、静かに語った。
語れる場所にいたからではない。勝者の側にいたからでもない。語ることしか、残されていなかった。それでも彼女は語った。語ることそのものが、彼女の意志でした。
「変化を見なくなる」ということ
ここで、もう一度だけ問い直します。
平家は、なぜ変化を見なくなったのか。
禿童制度は「批判を聞きたくないから」作られたのではありませんでした。威信を守ろうとした。その結果として、批判が届かなくなった。重盛は変化が見えていた。しかし重盛がいなくなった後、見えていた者もいなくなった。
つまり問題は意志ではなく、構造にある。
変化を「見なかった」のではない。変化を「見る構造」が、成功の積み重ねの中で、少しずつ失われていった。
盛者必衰とは、変化を見なくなった者が静かに衰えていく話かもしれない。
そして——変化を見なくなっていることに、気づけない。
それが最も怖い。
この記事を書きながら、私は何度か手が止まりました。
「監査法人が悪い」という話ではない。
「IFRSが間違っている」という話でもない。
誰の悪意もない場所で、誰も意図しなかった結果が静かに生まれていく——その構造を言葉にしようとするとき、どこか加害者のいない犯行現場を記録しているような、奇妙な感覚がありました。
しかしそれでも、書く、ということを選びました。
わからないことと、語ることは、矛盾しない。
建礼門院がそうであったように——内側にいる者だからこそ語れることがある、と思っているからです。
語ることしか残されていなくても、語ることそのものに意志がある。
私自身もまた、その構造の外側にいるのかどうか、わからないまま——それでも、書いています。
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