時代の特等席で。交錯する世界史と自分史 #03【人物月旦シリーズスピンオフ】
こんにちは、Bell noteです。
2026年の現在、香港国際空港の到着ロビーは、洗練された静寂と、過不足のない空調に満たされています。広大な埋立地の上に築かれたこのハブ空港では、顔認証ゲートが瞬時に旅行者を判別し、ガラス張りのターミナルは、ここが亜熱帯であることを忘れさせるほど、空気まで平坦になっていました。そこにあるのは、極限まで効率化された「摩擦のない移動」です。
しかし、私がバックパックを背負って初めてこの地に降り立った1980年代末の香港は、都市そのものが巨大な熱源であり、物理的にも政治的にも、激しい「摩擦熱」を発していました。

前回の物語(#02)で、私は1990年の欧州大陸を旅し、国境検問所の冷たい倉庫や、福祉国家が抱える「見えない壁」に直面した話をしました。
ロンドンで貧乏学生として暮らすきっかけを探るには、時計の針をもう少しだけ、あの欧州の旅よりも前へと巻き戻さなければなりません。
舞台は、島国イギリスへ渡る直前の通過点。1997年の中国返還を10年後に控え、「借用された場所、借用された時間」という運命がいよいよ現実のカウントダウンとして人々の喉元に突きつけられていた都市、香港です。
当時の香港は、歴史の巨大な転換点において、一時的な安定と根源的な不安が奇妙に同居する「不安定な均衡」の中にありました。1984年の英中共同声明によって主権移譲が確定してから数年が経過し、都市全体が一種の「終末的な祝祭」と「脱出への焦燥」に揺れていました。
中産階級や知識層の間では、カナダやオーストラリアへの移民ブームがピークを迎え、誰もが自分の足場をどこに置くべきか、その最適解を探り合っていた時代です。
そんな地政学的な緊張など意識の外に、そのころ日本はバブル景気に浮かれていました。
そんな時代の一人の若者――かつての私――は、南半球での長い放浪のような留学を終え、帰国の途中でこの街へ舞い降りました。
そもそも、なぜ直行便で日本へ帰らなかったのか。それは、南の国で出会ったあるデンマーク人の言葉が、頭の片隅に残っていたからです。 「香港は、国際線チケットが驚くほど安い」 彼の名はトーベン(人物月旦#06)。彼との奇妙な共同生活については、また時間をさらに遡った別の機会に話すことになるでしょう。ただ、当時の私はその言葉だけを頼りに、あの“難所”への着陸を試みていたのです。
当時の香港へのアプローチは、それ自体がひとつの通過儀礼でした。 啓徳(カイタック)国際空港。 その名は、世界中のパイロットと乗客にとって、畏怖と興奮の代名詞でした。九龍半島のビル群すれすれを飛び、洗濯物の気配まで届きそうな距離で機体がひねられていく、あの進入。
それは単なる着陸ではなく、カオスな都市の胃袋へ、自らの身を投げ込んでいくような体験でした。
2026年の今、あのスリリングな進入経路は消失し、啓徳の跡地は再開発され、かつての「魔窟」九龍城砦も整然とした公園へと姿を変えました。 しかし、私の記憶の中には、あの日の湿った亜熱帯の風と、機内で湧き起こった拍手の音、そして街全体を覆っていた「何かが終わろうとしている時代の熱気」が、今も生々しく焼き付いています。
これは、世界史が大きく動こうとしていた1989年の香港に、偶然にも居合わせてしまった若者の記録です。 混沌(カオス)が支配する雑居ビルで手にした一枚の手書き航空券。それが、私を「鉄の女」が去りゆくロンドンへと運ぶ、パスポート代わりになるのです。
【本連載について】
この物語は、1989年に香港で実際に体験した記憶をベースに描かれています。当時の私は、ただ格安航空券を求めて立ち寄った一人の若者に過ぎず、返還を目前に控えた街の政治的緊張や歴史的背景を詳細に理解していたわけではありません。本稿に見られる歴史的記述は、当時の街が放っていた「熱気」と「摩擦」の正体を解き明かすため、現在の視点から調査・補強したものです。無知だったあの頃の視点と、今の視点が交差する「再構成された旅の記録」としてお楽しみください。
第1章:啓徳(カイタック)ハートアタック —— 物理的摩擦の極致
オーストラリアからの長旅を終え、機体が高度を下げ始めると、窓の外には南シナ海の青ではなく、信じられない光景が広がっていました。 当時の香港の空の玄関口、啓徳(カイタック)国際空港。 そのアプローチは、通称「カイタック・ハートアタック(心臓発作)」と呼ばれ、現代の航空安全基準からすれば狂気とも言える「都市との摩擦」を内包していました。
「47度」とも言われる急旋回と、洗濯物の距離感
眼下に見えるのは、おもちゃ箱をひっくり返したような九龍半島の過密なビル群です。現代の空港のように郊外の開けた土地に降りるのではなく、都市の胃袋の中へ、鉄の塊が突っ込んでいくような感覚でした。

啓徳空港は、北と北東を2000フィート級の山々に囲まれ、南はヴィクトリア・ハーバーに面しているという、航空機にとっては極めて窮屈な立地にありました。
そのため、啓徳への着陸は「最後の数分間」だけ、機内の気配が変わります。機体は市街地へ吸い込まれるように進み、例の紅白のチェッカーボードが、突然、窓いっぱいに現れる。
そして次の瞬間、飛行機は“滑走路に向かっているはず”という感覚を裏切る角度で、ぐい、と右へ傾きます。
――後になって調べて知ったことですが、あれは計器から目視へ切り替わる、あの空港特有の段取りだったらしいです。知識として理解するより先に、身体が先に理解してしまうタイプの「段取り」だったのです。
客席の窓に額を押し付けていた私の視界には、滑走路ではなく、雑居ビルの屋上が迫ってきました。 そこには、亜熱帯の湿った風にはためく洗濯物や、夕食の支度をする住民の姿、あるいはテレビ画面の光さえが見て取れました。 「物干し竿を使えば、飛行機のお腹を叩けるんじゃないか」。そんな冗談がまことしやかに語られるほどの距離感。それは、グローバルな移動体が、ローカルな生活空間の領空を半ば強引にかすめ取り、ギリギリのところで共存しているという、当時の香港そのものの縮図でした。

称賛と安堵の「拍手」
グォン、とエンジンが唸りを上げ、機体が大きく右に傾きます。重力が身体をシートに押し付け、窓の外のビル群が回転する。そのスリルは、ジェットコースターの比ではありません。 そして、ビルの谷間をすり抜けた機体が水平に戻り、海に突き出した一本の滑走路に「ドン」とタイヤを接地させた瞬間。逆噴射の轟音と共に、機内には自然と拍手が沸き起こりました。
現代のフライトにおいて、着陸時に拍手が起こることは稀です。それは航空移動が「安全で当たり前のインフラ」になった証拠でもあります。しかし、当時のカイタック、特に悪天候時や横風の強い日の着陸は、乗客と乗務員が共有する一種の「サバイバル」でした。 その拍手は、単なる儀礼的なものではありません。「よくぞこの難所を降りてくれた」というパイロットの技量への称賛であり、「無事に地上に戻れた」という生存本能的な安堵の吐露でもありました。コックピットの閉ざされたドアに阻まれて、その音がパイロットに届くことはなかったとしても、客室に満ちたその熱気は、確かにそこにいる全員を「運命共同体」にしていました。

1988年から89年にかけてのこの時期、世界は冷戦の終結へと向かい、壁が崩れようとしていました。しかし香港では、山とビルと海という物理的な「壁」に阻まれたこの空港が、世界で最もスリリングなボトルネックとして機能し続けていました。 顔認証ゲートも、無機質なガラス張りのターミナルもない時代。 タラップを降りた私を包んだのは、ジェット燃料の匂いと、亜熱帯特有の湿気、そして遠くから聞こえる広東語の喧騒でした。 私はまだ、自分が歴史の特等席にいることを知りません。ただ、強烈な「摩擦」の熱に当てられ、バックパックを背負い直して、カオスの街へと足を踏み出しました。
第2章:重慶大厦 —— 垂直のゲットーと「案内人」
啓徳空港での「通過儀礼」のような着陸を終え、私は機内で隣り合わせた香港人の青年と共に、到着ロビーの雑踏の中にいました。 彼は、いかにも育ちの良さそうな、金縁の眼鏡をかけた理知的な青年でした。笑うときだけ、口元がほんの少し困ったように緩む。
オーストラリアへの留学から一時帰国したという彼は、当時の香港で進行していた「頭脳流出」を象徴するようなエリート層の一人だったのかもしれません。
「宿を決めていないなら、ついておいで。安くて面白い場所がある」 彼のその言葉に、私は疑いもせず頷きました。見知らぬ土地で、現地人の「案内人」を得た幸運に、ただ安堵していたのです。しかし、彼が連れて行ってくれた場所は、私の想像を遥かに超える「世界」でした。
ネイザンロードの迷宮
エアポートバスが九龍半島の目抜き通り、ネイザンロード(彌敦道)に入ると、車窓は極彩色の光に埋め尽くされました。道路の上にまで大胆にせり出した巨大なネオンサインの群れ。その下を二階建てバスとタクシーがひしめき合い、湿った熱気がアスファルトから立ち上っています。 バスを降りた彼が足を止めたのは、その繁華街のど真ん中に鎮座する、一際巨大で、古びたコンクリートの塊の前でした。
重慶大厦(チョンキンマンション)。
1961年に完成したこの複合ビルは、5つのブロック(A座〜E座)が17階建てで連結された巨大な集合住宅です。かつては「高級住宅」として売り出されたこの場所も、1980年代末には、無数のゲストハウス、両替商、カレー屋、そして怪しげな貿易商たちが巣食う「垂直のゲットー」へと変貌していました。

一歩足を踏み入れた瞬間、強烈な「匂い」の洗礼を受けました。スパイスの刺激臭に、安っぽい香水と下水の湿気、焦げた油の匂いが絡みつき、鼻腔の奥にへばりつくような独特の空気。 ロビーは、まさにカオスそのものでした。南アジア系やアフリカ系の男たちが、「偽物の時計あるよ」「両替しないか」と声をかけながら、絶え間なく行き交っています。
案内人の彼は、そんな混沌をまるで気にする風もなく、慣れた足取りで人波をかき分けていきます。英国式の教育を受けたエリートであるはずの彼が、この猥雑な空間を自身の都市の一部として当然のように受容している姿に、私は香港という街の底知れなさを感じました。
「低次グローバリゼーション」の現場
私たちが乗り込んだエレベーターは、大人数人が乗れば定員オーバーになるほど狭く、ガタガタと不安な音を立てて上昇しました。監視カメラが至る所に設置され、再整備が進んだ2026年の現在とは異なり、当時の重慶大厦は、真の意味での「無法地帯」に限りなく近い空気を纏っていました。
人の流れが、壁を呼吸させている。そんな感じがしました。
文化人類学者のゴードン・マシューズは、この場所を「世界中心のゲットー」と呼び、ここで行われている経済活動を「低次グローバリゼーション」と定義しました。
多国籍企業が主導する「上からのグローバリゼーション」に対し、ここではスーツケース一つで国境を越える個人の貿易商たちが、法と不法の境界線上で活発な取引を行っていたのです。
1980年代後半のこの時期、重慶大厦は、ときに密輸すれすれの取引や、グレーな“運び”の噂が集まる場所でもありました。
ネパールや韓国など、当時金の輸入が制限されていた国へ向けて、バックパッカーや運び屋たちが、体内に金を隠して飛び立っていく。壁に貼られた「求む、運び屋」といった手書きのチラシが、このビルの経済が何で回っているかを無言のうちに語っていました。 アフリカから来たバイヤーたちが、中国製の安価な衣類や電子機器を大量に買い付け、パンパンに膨らんだバッグを引きずって歩く姿は、まさに世界経済の毛細血管がここで脈打っている証拠でした。
鉄格子の向こうの安息
案内されたゲストハウスは、高層階の一角にありました。 鉄格子のついたドアを開けると、そこには蚕棚のような二段ベッドが詰め込まれた狭い部屋がありました。窓はなく、天井のファンがぬるい空気をかき混ぜています。 「ここなら一泊数十ドルだ。悪くないだろう?」 彼はそう言って笑いました。確かに、物価の高い香港において、この価格は破格でした。

私は彼に礼を言い、バックパックをベッドに放り投げました。 この時点では、まだ気づいていませんでした。この薄暗い部屋の外で、歴史の熱が渦巻いていることを。そして、この親切な案内人が、翌日私に「香港のもう一つの顔」を見せてくれることになることを。
「明日の昼、またここに来るよ。面白いものが見られるから」 彼はそう言い残し、迷宮のような廊下へと消えていきました。 残された私は、遠くから聞こえる広東語の喧騒と、断続的に響くジェット機の轟音を聞きながら、泥のように眠りに落ちました。そこは、世界で最も騒々しく、最も人間臭い、時代の特等席でした。
第3章:1989年6月上旬 —— 歴史的ゼネストの「無自覚な目撃者」
重慶大厦の薄暗いドミトリーで一夜を明かした翌日の昼、約束通り、例の彼が迎えに来ました。 「昨日はよく眠れたかい? さあ、行こう。今日はちょっと特別な日なんだ」 金縁眼鏡の奥で、彼は意味ありげに微笑みました。前日に彼が予告していた「面白い状況」の正体を、私はまだ知りませんでした。
開放された改札と、無邪気な「フリーライド」
彼に連れられて外に出ると、香港の街は奇妙な高揚感と緊張感に包まれていました。 最初に違和感を覚えたのは、九龍と香港島を結ぶ市民の足、スターフェリー(天星小輪)の乗り場でのことです。
普段なら小銭をチャリンと投げ入れるか、切符を買って通るはずの回転式改札が、完全に開放されていたのです。係員はブースに座っているものの、乗客から料金を徴収しようとはしません。人々は無言のまま、次々と船に乗り込んでいきます。

「今日はタダだよ。バスも、トラムもね」 彼はこともなげに言いました。 私は耳を疑いました。資本主義の匂いが濃いこの街で、交通機関が無料? 「ラッキーだろ? これが香港さ」 当時の私は、その言葉を額面通りに受け取りました。なんて太っ腹な街なんだろう。バックパッカーにとって移動費が浮くことほど嬉しいことはありません。私はその状況を「観光客向けのサプライズ・イベント」か、あるいは「王室か何かの記念日」だと勝手に解釈し、無邪気にもその「ただ乗り」を享受してしまったのです。
スターフェリーの甲板から眺めるヴィクトリア・ハーバーは、湿った風と共に、どこか煤(すす)けた匂いを運んでいました。
香港島に渡り、2階建ての路面電車に乗ったときも同じでした。運賃箱は封鎖されているか、あるいは「募金箱」のようなものに置き換えられていました。運転士はただ前を見据え、乗客もまた、静かな連帯感を漂わせながら揺られていました。
「二重価格」と「二つの顔」
街を歩きながら、彼はもう一つ、当時の香港が抱えていた奇妙な商習慣について教えてくれました。 「香港ではね、場所によっては外国人と地元民で料金が違うことがあるんだ」 いわゆる二重価格です。 「同じサービスでも、君のような旅行者には高い金額が提示される。ホテルや観光地、時にはレストランでもね。不公平だと思うかい? でも、これが僕らの生きるルールなんだ」 彼は少し自嘲気味にそう語りました。
この「二重価格」の話と、目の前で起きている「交通機関の無料化」。 一見無関係に見えるこの二つの事象は、当時の香港が抱えていた「二つの顔」を象徴していました。一つは、生き馬の目を抜くような冷徹な商魂。そしてもう一つは、損得を超えて連帯しようとする、熱を帯びた感情です。私が「ラッキー」だと喜んでいた無料の乗り物は、実は後者の顔――香港市民が決死の覚悟で見せた、歴史的な「怒り」の表明だったのです。
答え合わせ:街頭を埋め尽くした慟哭
今、手元の資料と当時の出来事を照らし合わせると、あの日が何であったのか、胸の奥が冷えるほどはっきりしてきます。
それは1989年6月上旬。北京での天安門事件(6月4日)の直後、武力弾圧に抗議し、犠牲者を悼むために香港全土が揺れた頃でした。私が「特別な日」とだけ聞かされて連れ出された街は、祝祭ではなく、怒りと弔いの空気に包まれていたのです。
後になって知ったのですが、このストライキは単なる労働放棄ではありませんでした。交通機関を完全に止めてしまえば、抗議デモに参加しようとする市民の足まで奪ってしまう。だから彼らは、動かす――けれど、取らない。
あれはたぶん、「運行は続けるが、運賃は徴収しない(あるいは収益を寄付に回す)」という形の、極めて高度なストライキだったのだと思います。
スターフェリーやバスが無料だったのは、企業のサービスでもなければ、観光客へのプレゼントでもありません。植民地政府と、その背後にいる北京政府へ向けた、労働者たちの「収益のボイコット」――魂の抵抗だったのです。
当時の香港は、1997年の返還を前にした「自信の危機」の只中にありました。中産階級や知識層は、カナダやオーストラリアへと流出し始めていました。あの日、案内してくれた彼――オーストラリア留学帰りのエリート――が、なぜ私にこの光景を見せたがったのか。今なら痛いほど分かります。 彼は、「面白い状況」という控えめな言葉の裏で、崩れゆく祖国の現状と、それでも抵抗しようとする市民の姿を、外部の人間である私に目撃させたかったのでしょう。

1989年の香港。そこには、100万人規模とも言われる市民が街頭を埋め尽くし、「明日は我が身」という恐怖と、北京の学生への悲痛な連帯を、喉の奥から絞り出すように示していました。
私はその歴史的な瞬間の、まさに「特等席」に座っていながら、その意味を理解せず、ただ「タダで乗れてラッキーだ」と喜んでいたのです。 この無知と無邪気さは、今振り返ると背筋が凍るほど恥ずかしく、同時に、あの時代の空気を吸い込んだ当事者としてのほろ苦い痛みを伴って蘇ります。
歴史の巨大なうねりは、時に個人の日常の中に、そうとは気づかせずに忍び寄ります。 私が手にした「無料の切符」は、あの日の街が背負っていた怒りと弔いの重さでした。しかし、その重みに気づくには、私はまだあまりに若すぎたのです。
第4章:バケツショップの錬金術 —— 3万円のロンドン行き
ストライキの熱気が残る香港の街を歩きながら、私はふと、オーストラリアの安宿でデンマーク人の友人・トーベンが口にした言葉を思い出しました。 「チケットを買うなら香港だ。あそこには魔法みたいな値段がある」
その言葉を頼りに、私は尖沙咀(チムサーチョイ)の雑居ビル――おそらくは重慶大厦か、それに類する「多国籍の迷宮」のようなビルの一室にある旅行代理店を訪ねました。
エレベーターを降りると、そこにはガラス張りの整然としたオフィスなどありません。薄暗い廊下の先に、手書きのチラシがベタベタと貼られた鉄扉があり、中は電話のベルと広東語、英語、そしてヒンディー語が飛び交う喧騒の渦でした。
これがいわゆる「バケツショップ」です。 1980年代から90年代にかけて、香港やバンコク、ロンドンにはこうした非正規の格安航空券販売店が乱立していました。
「3万円」の衝撃と航空業界の裏側
カウンター越しに、私は恐る恐るロンドン行きの片道チケットの価格を尋ねました。 スタッフが電卓を叩いて提示した数字を見て、私は自分の目を疑いました。
「約3万円(当時のレート換算)」。
電卓の表示を見た瞬間、私は一度、呼吸を忘れました。日本で正規に買えば、片道でも数十万円は下らない時代です。これは値札ではなく、誤表示ではないのか――そんな疑いが先に立つほどの、非現実的な数字でした。

そして今になって振り返れば、あの“あり得なさ”の裏には、きちんと二つの世界史的な「からくり」があったのだと分かります。
一つは、当時の航空業界の構造です。
IATA(国際航空運送協会)による運賃規制がまだ色濃く残っていた時代、航空会社は表向きには定価を維持しつつ、空席のまま飛ばす損失を避けるために、裏ルートで大量の座席を「ダンピング(投げ売り)」していました。
「バケツショップ」という呼び名には諸説ありますが、売れ残りを“バケツに放り込む”ように扱った市場の比喩だとも言われます。
香港はまさに世界中の航空会社にとって、余った座席を極秘に処分するための巨大な「バケツ」だったのです。チケットはアエロフロートや東欧系、あるいは南回りの経由便など、時間はかかるが安いルートが中心でした。
プラザ合意が生んだ「日本人だけのボーナス」
そしてもう一つ、私にとって決定的だったのが、1985年の「プラザ合意」以降に加速した円高です。
1980年代初頭には1ドル240円前後だった為替レートは、1988年から89年にかけて120円〜130円台へと、倍近くの価値に跳ね上がっていました。 一方で、香港ドルは1983年から米ドルとのペッグ制(固定相場制)を採用しており、1米ドル=7.8香港ドル付近で固定されていました。

つまり、日本円を握りしめていた私にとって、米ドル(およびそれに連動する香港ドル)建ての商品は、数年前の半額になっていたようなものです。 当時の香港市民や他の旅行者にとっては「単なる安いチケット」でも、円という最強の通貨を持っていた日本人バックパッカーにとって、それは信じられないほどの「錬金術」のような安さでした。世界経済の歪みが、私の財布の中で強烈な追い風となっていたのです。
手書きのカーボン紙が拓いた未来
「買います」 私は即答し、腹巻きの中のずっととっておいたトラベラーズチェックと現金をカウンターに並べました。
発券されたのは、今のような電子チケットの控えではありません。赤いカーボン紙が挟まれた、何枚綴りもの分厚い航空券です。手書きで便名と名前が殴り書きされたその紙束は、頼りないほど薄っぺらいものでしたが、私には黄金の通行手形のように見えました。
重慶大厦の薄暗い一角で、私は震える手でそのチケットを握りしめました。 それまで「いつか行けたらいいな」という漠然とした夢でしかなかった「イギリス行き」が、物理的な現実として手の中に落ちてきた瞬間でした。
トーベンの何気ない助言。 機内で出会った香港人青年の案内。 天安門事件の余波で揺れる香港の情勢。 そして、プラザ合意というマクロ経済の変動。
これら全ての要素が、1989年の香港という一点で奇跡的に交錯し、一人の若者の背中をロンドンへと強く押し出したのです。 私が手に入れたのは、単なる移動手段ではありませんでした。それは、「まだ世界が隙間だらけで、個人が入り込む余地があった時代」への招待状であり、私の人生を決定づける「片道切符」だったのです。
終章:混沌がくれたチケット —— 失われた「隙間」へのレクイエム
1998年、あのスリリングな啓徳(カイタック)空港はその役目を終え、静寂と効率に支配された赤鱲角(チェクラップコク)の新空港へとバトンを渡しました。かつて「東洋の魔窟」と呼ばれた九龍城砦は、今や清朝様式の優雅な庭園「九龍城砦公園」へと姿を変え、かつてのエントロピーの痕跡はどこにもありません。
そして、私が「3万円のチケット」を手に入れた重慶大厦(チョンキンマンション)でさえ、今は監視体制が整い、かつての“無法地帯”めいた空気は薄れ、照明の明るい観光スポットへと変貌を遂げています。
かつて私が体験した、ビルにぶつかりそうな着陸の「拍手」も、怪しげな両替商とのヒリヒリするような交渉も、そして市民の怒りが「無料の乗り物」として可視化されたあのストライキの熱気も、今の香港ではもう見ることはできません。2026年の香港は、顔認証とデジタル決済によって極限まで「摩擦」が取り除かれた、スムーズで透明な都市になりました。
あの日、重慶大厦の薄暗い一角で、震える手で掴み取ったカーボン紙の航空券。 それは、単なるロンドンへの移動手段ではありませんでした。それは、「まだ世界が隙間だらけで、個人が入り込む余地があった時代」への、最後の搭乗券だったのかもしれません。 グローバル資本主義が世界を均質化する直前、システムとシステムの間に生じていた「歪み」や「綻び」。当時の私は、その歪みに身を滑り込ませることで、本来なら手の届かないはずの未来をたぐり寄せることができたのです。

機内で出会い、激動する祖国の姿を見せてくれた香港人青年の憂い。 天安門事件の余震に揺れる街の政治的熱狂。 そして、プラザ合意が生んだ円高という経済的追い風。
これら全てのマクロな世界史とミクロな個人史が、1989年の香港という特異点で奇跡的に交錯し、私を次のステージへと押し出しました。混沌(カオス)がくれたそのチケットを手に、私はロンドン行きの機上の人となりました。このフライトの先に待っているのが、前回(#02)、前々回(#01)描いた「鉄の女」退陣直前の、煤けたロンドンでの生活です。

しかし、そもそもなぜ私は、この香港にたどり着いたのか。 その「原点」を探るには、時計の針をさらにもう1年、巻き戻さなければなりません。 私が香港で手にした幸運の鍵、その情報の出処であるデンマーク人の友人・トーベンとの出会い。そして、バブル経済の日本を飛び出した若者が最初に足を踏み入れた、南半球の大陸。
次回、舞台は1988年のオーストラリア。
建国200周年の祝賀と、先住民たちの抗議が交錯するシドニー。
そこで私は、人生を変える「旅の師たち」と出会います。
🔔Bell
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