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『国選弁護人 柏木悠人』──ソシオパスフレームスピンオフ

📢本編を読む前に
この物語は、『久兵衛、最期の事件』から続く「白石輝道シリーズ」のスピンオフです。時系列としては、本編でほとんど語られなかった脇役の柏木。
白石を国選弁護人として弁護し、後に「ひかりの未来基金」代表にまで上り詰めることになる、柏木悠人という一人の弁護士の視点から、同じ事件の裏側を描き直したものです。

白石という男が、いかにして誰の手も汚さずに人を動かし、周囲の人間をゆっくりと共犯者に変えていくのか——その「システム」が、善良であったはずの一人の人間の中で、どのように作動していったかの記録です。

本編未読の方でも、そのまま今作からお読みいただいても物語は成立しますが、本編を先に読んでいただいた方が、白石という男の輪郭、そして柏木がなぜ彼の言葉から逃れられなかったのかが、より濃く見えてくるはずです。

🔗本編・関連作は以下のリンクからお読みいただけます。


🔪久兵衛と孫娘寅子が白石の事件を追うものがたり

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🔪怪物・白石誕生のものがたり(ソシオパスフレーム・ゼロ)

⚠️トリガーワーニング
本作は完全なフィクションであり、実在の人物や団体、事件等とは一切関係がありません。
本作は、一人の人間が「正しさ」を保ったまま、ゆっくりと共犯者へと変わっていく過程を描く物語です。そのため作中には、SNS上での集団的な誹謗中傷と実名の拡散、それによって追い詰められた人物の自死、不正の隠蔽とそれに気づきながら目を逸らし続ける心理、そして身近な人物の死を巡る、生々しい描写が含まれています。読者の方によっては、現実の出来事と重なり、強い心理的負荷を感じる可能性があります。どうか、ご自身の心を守ることを最優先に、辛いと感じた時はページを閉じるなど、無理をせずにお読みいただければ幸いです。

【📖本編】『国選弁護人 柏木悠人』──あるいは静かな溺れ方

弁護士バッジを胸につけた日のことを、柏木悠人は今でも覚えている。

司法試験の受験資格には、五年で五回という上限がある。俗に「三振」と呼ばれる制度だ。一回目で受かる者が全体の半数を超え、二回目、三回目と回数が増えるごとに、合格率は坂を転げ落ちるように下がっていく。四回目の合格率は一割に満たない。柏木は、その四回目で、ようやく受かった。三振まで、あと一回だった。

法科大学院の同期は、とうに合格し、実務に出ていた。柏木だけが、毎年一回だけ与えられる機会のために、予備校の自習室と、コンビニのアルバイトを往復する生活を、五年近く続けていた。

修習を終えた後も、苦労は終わらなかった。弁護士人口はすでに四万人を超え、就職先を見つけられない修習生が、当たり前のように出ていた。柏木のように、合格年齢が上がり、成績も突出していない者を、進んで雇う事務所はなかった。数十通の履歴書を送り、返事が来たのは二通だけで、そのどちらにも落とされた。

結局、柏木は「即独」――修習を終えた翌月に、自分の名前だけで事務所を構える道を選ばざるを得なかった。開業資金と呼べるほどの蓄えはなく、駅から遠い雑居ビルの一室を借り、応接セットは中古で揃えた。依頼人との打ち合わせに、喫茶店やファミリーレストランを使うことも珍しくなかった。

収入の柱は、国選弁護と法テラスの扶助事件だった。一件あたりの報酬は決して高くない。月に四件ほど受任できれば、売上としては四十万円台になる。だが、事務所の家賃、弁護士会費、国民健康保険、そして修習中に借りた貸与金の返済を差し引くと、手元に残る額は、目を覆いたくなるほど小さかった。

それでも柏木は、「誰も引き受けたがらない案件」を、片っ端から引き受け続けた。示談交渉に応じない相手。世間から見放された依頼人。選べる立場ではなかった、というのが実情に近い。だが柏木は、それを「誰かがやらなければならない仕事を、自分がやっているのだ」と、自分の中で言い換えていた。そう言い換えなければ、五年遅れて、誰にも歓迎されずに始まったこのキャリアに、意味を見出す方法がなかった。

白石輝道と最初に出会ったのは、その頃だった。国選弁護人として割り当てられた、高齢者を狙った詐欺事件の被告人。それが白石だった。

情状酌量の余地を探すため、柏木は白石の生い立ちや、これまでの経緯を、根気強く聞き取った。多くの国選弁護人が形式的に済ませるような面談を、柏木は毎回、時間をかけて行った。それは正義感というより、他にやることがなかったから、というのが実情に近い。だが白石は、その面談のたびに、妙に礼儀正しく、そして妙に聞き上手だった。柏木の方が、いつのまにか自分の身の上――五年遅れて合格したこと、就職先が見つからなかったことまで、問われるままに話していた。

判決が下り、白石が刑務所に送られる日、白石は柏木にこう言った。

「先生は、ちゃんと話を聞いてくれた。それだけで、十分でした」

柏木は、その言葉を、特に深くは考えなかった。国選弁護人としての、ごく普通のやり取りの一つだと思っていた。

痴漢冤罪の被害者、龍崎ヒカルの弁護を引き受けたのは、それから数年後のことだった。

証拠は薄かった。世論はすでに龍崎を「犯人」と決めていた。名の知れた事務所は軒並み依頼を断っていた。柏木のところに話が回ってきたのは、正義感からというより、単純に、他に引き受け手がいなかったからだった。それでも柏木は引き受けた。着手金は相場よりかなり低く抑えたし、正直なところ、事務所の家賃を考えれば、その仕事を選ぶ余裕はなかった。だが、断る余裕も、同じくらいなかった。

不起訴を勝ち取った日、柏木は珍しく達成感を覚えた。だが、その達成感は長く続かなかった。世間の攻撃は、不起訴の後も止まらなかった。龍崎の勤務先への嫌がらせ電話。柏木自身への「痴漢を擁護する弁護士」という誹謗。柏木は、法律の勝利が、現実の勝利にはならないことを、初めて骨身で知った。

その頃、刑期を終えた白石輝道が、柏木の事務所を訪ねてきた。


変わらない、と柏木は思った。刑務所を出たばかりとは思えない、あの落ち着いた物腰は、数年前と同じだった。柏木の話を、最後まで遮らずに聞くところも。柏木がこれまで誰にも言えなかった苛立ち――「正しいことをしているのに、なぜこんな目に遭うのか」という苛立ちを、白石はただ、うんうんと聞いていた。

「先生は、間違っていない」

白石はそう言った。

「間違っているのは、先生を叩いている連中だ。彼らは、自分たちの安全な場所から、石を投げているだけです。実際に人を弁護したこともなければ、責任を取ったこともない」

その言葉が、柏木の中の何かに、静かに嵌った。

これまで、柏木は自分の苛立ちに、名前をつけられずにいた。腹立たしい。理不尽だ。そう感じてはいたが、それを言語化する言葉を持っていなかった。白石は、その言葉を与えてくれた。

「先生を攻撃している人間には、共通点があります」

白石は続けた。

「自分では何も生み出さず、他人の仕事にケチをつけることでしか、自分の存在を確認できない人種です。彼らのような人間に、先生の仕事の価値を測らせる必要はない」

柏木は、その言葉に頷いた。頷きながら、自分の中で何かが、少しだけ軽くなるのを感じた。

これが、最初の一線だったと、柏木は今でも思う。

白石は何も命じなかった。ただ、柏木がすでに感じていた苛立ちに、輪郭を与えただけだった。誰かを攻撃するように仕向けたわけではない。ただ、「あなたは正しい。相手は間違っている」という枠組みを、そっと差し出しただけだった。

しばらくして、柏木は龍崎に白石を紹介した。孤立を深めていた龍崎に、同じように理不尽な目に遭い、それでも折れずにいる人間がいることを、知ってほしかった。それだけのつもりだった。かつて自分が国選で弁護した男を、今度は依頼人に引き合わせることに、柏木はためらいを感じなかった。白石は、もう罪を償い終えた人間だと、柏木自身がそう思っていたからだ。


柏木は、いつからか、人を二種類に分けるようになっていた。

一つは、自分の仕事の価値を理解してくれる人間。依頼人、白石、そして白石を紹介した後、親しくなっていった龍崎の周辺の人々。

もう一つは、理解しない人間。批判者。中傷者。事情も知らずに石を投げてくる、匿名の群衆。

この分類は、柏木にとって、思考の負担を大きく減らしてくれた。誰かが自分を批判してきた時、柏木はもう「その批判に理があるかどうか」を、一つひとつ吟味する必要がなくなった。批判してきた、という事実そのものが、その人間が「理解しない側」に属することの証明になった。

龍崎への助言を求められた時も、柏木は同じ枠組みを使った。

「批判者に、直接反論する必要はない」と、柏木は龍崎に言った。「同じことを感じている人間は、他にもいるはずだ。その人たちに、それぞれ声を上げてもらえばいい」

白石が語っていた手口を、柏木は自分の言葉に翻訳して、龍崎に渡していた。その時の柏木に、これが誰かを傷つける可能性がある、という自覚は、ほとんどなかった。批判者は「理解しない側」の人間であり、「理解しない側」の人間が声を上げにくくなることは、正義の実現であって、加害ではなかった。

夜、事務所で一人、資料を整理しながら、柏木はふと、自分の指が止まっていることに気づくことがあった。

何かが引っかかっている。だが、その引っかかりに名前をつけようとすると、白石の声が、頭の中で先回りしてくる。

「先生は、間違っていない」

その一言で、引っかかりは、いつも溶けて消えた。


関口という男の死を知った時、柏木は初めて、はっきりとした恐怖を感じた。

関口は、龍崎の周辺で「加害者」として名指しされた一人だった。
龍崎の証言の矛盾を早くから指摘していた人物で、それが龍崎の支持者たちの間で、いつしか「龍崎さんを追い詰めた張本人」として扱われるようになっていた。

柏木自身は、関口という人物に会ったことすらなかった。ただ、龍崎の活動方針について助言をしただけだった。それだけのはずだった。

関口が首を吊って死んだというニュースを見た夜、柏木は動けなかった。自分がしたことと、関口の死との間に、直接の線はない。柏木はそう自分に言い聞かせたが、その声は、以前ほど強くなかった。

「必要悪、と言えるかもしれません」

柏木は、宮武という白石を取材する記者にそう答えたことがある。答えながら、自分の声が、自分のものではないように聞こえた。まるで、白石の言葉を、そのまま自分の口から流しているような感覚だった。

だが、その違和感を、柏木は最後まで、掘り下げなかった。

掘り下げれば、これまでの自分の判断のすべてを、疑わなければならなくなる。龍崎を助けたこと。批判者への対処法を教えたこと。白石を信頼し続けたこと。その全部が、間違っていたかもしれない、という可能性に、柏木は向き合えなかった。

向き合わないことを、柏木は「冷静さ」だと、自分に説明していた。


麻子という女性が死んだ夜、柏木は事務所の椅子に座ったまま、長い間、動けなかった。関口の時とは、動けなさの質が違った。あの時は、まだどこかで「直接の線はない」と言い聞かせる余地があった。今度は、その余地そのものが、最初から見当たらなかった。

麻子は、ひかりの庭の元スタッフだった。会計を一時的に手伝う中で、資金の使途に疑問を持ち、外部に向けてそれを発信し始めていた。その麻子が、夜道で、複数の人間に暴行を受けて死んだ。死因は、外傷性ショックだった。逮捕された加害者たちは、いずれも「ひかりの庭」――白石が龍崎に授けた助言をもとに、柏木自身が形を整えるのを手伝った、あのコミュニティの、熱心な会員たちだった。

「誰かが動かなければ、という気持ちが、ずっとあった」

加害者の一人が、そう供述したという記事を、柏木は何度も読み返した。命じた人間は、どこにもいなかった。ただ、怒りと使命感だけが、時間をかけて積み上げられ、ある夜、それが暴力という形を取っただけだった。

柏木はすでに知っていた。麻子が何を疑っていたかも、その疑いが、龍崎にとって都合の悪いものだったことも。

柏木は、この時初めて、白石に直接、疑問をぶつけようとした。

だが、電話をかける前に、いつもの言葉が、頭の中で先回りした。

「先生は、間違っていない」

柏木は、電話をかけなかった。

代わりに、柏木は自分の中で、新しい理屈を組み立てた。麻子という女性の死は、悲劇だ。だが、それは会員たち自身の暴走であって、白石や龍崎個人の関与を示す証拠はどこにもない。自分は、あくまで法律家として、事実に基づいて判断しているだけだ。

この理屈を、柏木は何度も、自分に言い聞かせた。言い聞かせるたびに、その理屈は、少しずつ、本当のことのように感じられていった。

夜、一人で事務所に残っている時、柏木はふと、自分が誰かに似ていることに気づいた。

かつて、痴漢の疑いをかけられた依頼人たちが、よく口にしていた言葉だった。

「証拠がないなら、それは無実ということだ」

証拠がない。だから、自分は関与していない。柏木は、かつて依頼人を弁護するために使っていた論理を、今度は自分自身を弁護するために使っていた。

その符合に気づいた瞬間、柏木は久しぶりに、はっきりとした吐き気を覚えた。


麻子の死からしばらくの時を経て、ひかりの庭を母体に新しく立ち上げられた「ひかりの未来基金」に、横流し疑惑が持ち上がった。龍崎が基金の資金を、自身の関係する別の会社に不正に流していたという疑惑だった。証拠となる書類は、不自然なほど整然と揃っていた。その出どころを、柏木は深く問わなかった。

出資者側からの依頼を受け、柏木は原告側の弁護士として、かつての依頼人を訴える側に回った。

龍崎が死んだという報を聞いたのは、その訴訟が報じられてから三週間後のことだった。自宅での首吊り。遺書があり、自殺と判断された。ニュースの記事には、龍崎が死の直前にSNSへ残した最後の投稿も、繰り返し引用されていた。

柏木はもう、驚かなかった。

驚かない自分に、驚いた。

首吊りという死に方が、関口と同じであることに、柏木はしばらくしてから気づいた。気づいてからも、それ以上は、考えなかった。

ここまでの数年間で、柏木の中の何かが、静かに摩耗していた。人が死ぬという事実に対する感覚が、少しずつ、鈍くなっていた。それは麻痺ではなく、もっと能動的な何かだった。感じないように、感じないように、自分で自分を訓練してきた結果だった。

これは裏切りではない、と柏木は自分に言い聞かせた。むしろ正しい判断だ。不正の疑惑がある以上、法律家として、それを追及するのは当然の職責だ。

その理屈は、間違ってはいなかった。だが、柏木自身が、どこまでその不正に関わっていたのかについては、誰も、柏木自身にすら、問わなかった。

ひかりの未来基金の代表に就任した日、柏木は久しぶりに、鏡の中の自分をまじまじと見た。

疲れた顔だった。だが、それだけではなかった。目の奥に、何かが、もう動いていなかった。

問うことをやめた人間の目だった。何かを疑えば、これまでの判断のすべてを疑わなければならなくなる。その作業を、柏木はもう、始める気力さえ持てなくなっていた。鏡の中の自分は、迷ってすらいなかった。迷うことさえ、いつからか、やめていた。


事務所の窓の外で、雨が降り始めていた。

柏木は、ひかりの未来基金の新代表として、就任の挨拶文を書いていた。龍崎が去った後の基金を、誰かが引き継がなければならなかった。柏木以上に、内情を知る人間はいなかった。

「皆様からお預かりした信頼に応えられるよう」

そこまで書いて、柏木の手が止まった。

信頼、という言葉だった。龍崎が最後に遺した投稿にも、同じ言葉があった。皆さんから預かった信頼を、裏切るつもりなんて、一度もなかった――そう書いて、龍崎は死んだ。

自分が何かを間違えたのだとすれば、それはいつだったのか。

司法試験に落ち続けていた頃だろうか。龍崎の弁護を引き受けた日だろうか。それとも、白石が「先生は、間違っていない」と、初めて言った、あの瞬間だろうか。

柏木は、その問いに、答えを出せなかった。

答えを出せないまま、柏木はペンを取り、挨拶文の続きを書き始めた。

自分を批判する声があれば、いつものように、その声を「理解しない側」に分類すればいい。その分類は、もう考えるまでもなく、自動的に働いた。

窓の外の雨音を聞きながら、柏木は思った。

自分はいつから、考えることをやめたのだろう。

その問いにさえ、柏木はもう、深く向き合うことができなかった。

ペン先が、紙の上を滑っていく。

挨拶文は、静かに、完成に近づいていった。


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