AIウィスパーラーと、😁笑える無責任。セミナーの告知ページを見ていたら、笑いがこみあげてきた。
先日、あるセミナーに登壇する機会がありました。
主催者から送られてきた告知ページのリンクを確認していたところ、ふと他の登壇者の肩書が目に入りました。
AIエバンジェリスト
読んだ瞬間、少し止まりました。
エバンジェリスト、というのは英語で「伝道師」を意味します。
AIの伝道師。伝道する、ということは、布教する、ということです。何を布教するのか。AIを、です。AIを布教する人。なるほど。……なるほど?
気になって、他にどんなAI関連の肩書があるのか調べてみました。これが、止まらなくなりました。
AIウィスパーラー
ウィスパーは「囁く」という意味です。AIに囁く人。馬に囁く「ホース・ウィスパーラー」のAI版、ということのようです。
ホース・ウィスパーラーというのは、暴れ馬を力で制するのではなく、馬の習性や心理を読んで静かに信頼関係を築く、馬の調教師のことです。
AIに囁くのかというと、プロンプト(指示文)を上手に設計して、AIから最適な出力を引き出す、ということらしい。
「AIの囁き手」と訳されることもあるようです。
最高AI責任者(CAIO)
CAIOは、Chief AI Officerの略称です。企業全体のAIガバナンスを構築し、ROIを最大化する役割、とのこと。日本語にすると「最高AI責任者」。
最高、という言葉の重みがすごい。AI担当の最高責任者が、もう存在する時代なのです。
AIプロデューサー
経営学と工学の視点からAIシステムやビジネスを設計・管理する役割、とのことでした。
AIナビゲーター
ナビゲーター。どこへナビゲートするのか。AI導入のロードマップを策定支援する、とのことです。地図を持っているのか地図を作っているのか、外から見ているとよくわかりませんが、とにかく「ナビゲート」している、ということのようです。
「AIディレクター」「AIストラテジスト」というものもあるようです。
並べてみると、思わず笑いがこみあげてきました。
悪意はありません。皆さん真剣にやっているのだと思います。
ただ、こうして一覧にして並べると…
どの肩書も、傍からは「なんとなく凄そうだけど、何をしているのかよくわからない」という共通点を持っています。
そして、この「なんとなく凄そうだけど、何をしているのかよくわからない」という感覚を、私はどこかでみたことがある、と気づきました。
まてよ、この感じは…
ん…?古沢憲吾の映画ではないか?
正確に言うと、「東宝クレージー映画」の植木等が演じるキャラクターたちのことです。
古沢憲吾監督(1919-1997)は、「ニッポン無責任時代」をはじめとするクレージーキャッツの喜劇映画を多数手掛けた、東宝の喜劇映画の名匠です。
黒澤明監督を引き合いに出して「向こうがクロサワなら俺はフルサワ」と豪語していたという逸話が残っており、本人も相当な「やり手」だったようですが、それは後で触れるとして。
1962年から1971年にかけて作られたクレージー映画の数々で、植木等が演じた主人公たちは、毎回「なんとなく凄そうだけど、何者なのかよくわからない男」として登場します。
そして、大胆にひとの日常に乗り込んでいく。
笑いながら、しかし大真面目?に、乗り込んでいくのです。
「ニッポン無責任時代」両陣営に取り入る男
まず最初の一本、「ニッポン無責任時代」(1962年)。
主人公の名前は、平均(たいら・ひとし)。
「平均的な日本人」でありながら、誰よりも調子よく出世する、という名前そのものに風刺が込められています。
どんな男かというと、乗っ取られそうな洋酒会社の社長・氏家に取り入って総務部に入社します。そこで大株主の買収を任されるのですが、買収が失敗してクビになると、今度は乗っ取る側の社長・黒田に取り入って、部長として同じ会社に復帰します。
乗っ取られる側にも乗っ取る側にも、同じ顔で取り入る。
どちらの陣営も「この男は自分の味方だ」と信じている。それで実際になんとかなってしまう。
そして最後は「北海物産」という会社の社長になった。
この映画が公開されたのは1962年、高度経済成長のまっただ中です。観客はこれを見て笑いました。「無責任でいられること」が痛快だった時代です。
「ニッポン無責任野郎」専務と常務両方に、「あなたが社長です」と言う男
続く「ニッポン無責任野郎」(1962年)。
主人公は源均(みなもと・ひとし)。
平均と同じ顔をした男が、今度は楽器会社に入り込みます。
入社の方法がまず凄い。
道端でぶつかった男・長谷川から、ある楽器会社で社長の後継ぎをめぐって専務と常務が派閥争いをしている、という話を聞きます。するとすぐに専務の家に行き「あなたが次の社長です」と言い、次に常務の家に行き「あなたが次の社長です」と言う。
両方に告げる。同じ日に。
この口八丁だけで入社に成功するのですから、当時の日本の会社というのは一体どういうイメージだったのか、という話でもあります。
入社してからも止まりません。
未収金500万円を取り立てると、それを自分の名義で銀行に預けて利子で運用しはじめる。さらに知人のジャズマンを「アメリカのスミス楽器の御曹司で、日本と技術提携したいと言っている」と偽って紹介し、専務と常務の両方からリベートをとる。
正体がバレてクビになると、その後「北海物産」の新しい社長の秘書として颯爽と現れる。
ちなみに「北海物産」が何の会社なのかは、前作から一度も説明されません。ただ「北海物産社長」という肩書は、画面に映るだけで圧倒的に凄そうに見える。これも、なんとなく凄そうな肩書の一種です。
このラストシーンが笑えます。
「なんであなたがここにいるんですか」と言いたい人間が画面に何人もいるはずなのに、誰も追い返せない。
「秘書として雇った社長」が彼のことを気に入っているからです。新しい権威の庇護のもとに、また潜り込んでいる。
「日本一のホラ吹き男」まだ見ぬ商品をもってテレビ局に乗り込む男
この映画こそが、今回一番言いたいことと直結しています。
「日本一のホラ吹き男」(1964年)。
主人公は初等(はじめ・ひとし)。
東京オリンピックの三段跳び候補だったが、アキレス腱を切って断念。入院中に「ホラを吹き続けながらただの浪人から二万石の大名になった先祖」の自伝を読んで、「ホラにしてホラにあらず」という言葉に感銘を受け、大企業「増益電機」への入社を決意します。
就職試験には落ちます。
落ちたのですが、警備員で就職します。そして社長に直談判して正社員の座を勝ち取ります。
営業部に配属されると、「この仕事は一ヶ月で卒業して係長になる」と宣言。睡眠時間三時間で大奮闘して、本当に係長になります。
そして「強心臓を買われて」宣伝課に異動になるのですが、席もなければ仕事もない。ここからが本題です。
宣伝課に配属された初等は、自社の研究所に自ら足を運びます。そこで研究員の井川(谷啓が演じている、どもりの研究者)から、「冷暖電球」という画期的な新製品の話を聞き出します。
話を聞いただけで、テレビ局に乗り込みます。
そして、会社の正式な許可も確認もないままに、自らテレビのコマーシャルに出演して、生放送で「冷暖電球」を売り込んでしまいます。
増益電機の社内は大混乱になります。「誰がそんな許可を出したんだ」という話です。
ところが、冷暖電球が大ヒットします。
大ヒットしてしまったので、誰も文句を言えなくなる。初等は一躍「秘書課長」に抜擢されます。
1964年の東宝映画を見ているはずなのに、最近どこかで見た光景のように思えてきます。
初等と令和のAI系肩書の方たち……少なくとも私には、そう見えました。
古沢憲吾本人も、相当なホラ吹きだった
ここで少し、監督自身の話をしなければなりません。
古沢憲吾監督は、「パレンバン降下作戦の勇士だった」と自称していたことから、「パレさん」という愛称で親しまれていました。
ところが、古沢が挺進連隊に入隊したのは「パレンバン襲撃」の後のことで、一緒に仕事をした監督の松林宗恵も「あれはでまかせだから」と述べています。
本人が助監督として参加した映画でパレンバン降下作戦の再現シーンに落下傘部隊員役として出演したのは事実で、そこから話が膨らんだのではないか、と言われています。
「原節子は俺に惚れていた」とも吹聴していたようです。
岡本喜八監督が常に全身黒ずくめで現場に立つことで知られていたのに対し、古沢監督は上下真っ白なスーツに帽子・靴下・靴まで白づくめで現場に立って対抗していたといいます。
口癖は「なんでもいいからキャメラを回せ」。フィルムマガジンが空なのに「なぜキャメラを止めてるんだ、いいから回せ!」と指示を続行したこともあったといいます。
この人物が、「日本一のホラ吹き男」を撮った。
そして監督本人も、かなりのホラ吹きだった。
「AIエバンジェリスト」を自称している人たちのルーツは、もしかしたら古沢憲吾監督かもしれません(笑)。
笑える、ということの意味
少し、真面目な話をします。
令和のAI系肩書が笑えるのは、もちろん「ホラ吹きだから」ではありません。
本人たちがどうおもっているかは分かりませんが、肩書という「記号」が先行して、実態がよく見えない、という状況が笑えるのです。
昭和のクレージー映画も、同じ構造を笑っていました。
「肩書だけで人を信用してしまう社会」
「役職と実態がズレている組織」
「もっともらしい言葉で乗り込んでくる人間」を、痛快な喜劇として描いていた。
ただし、決定的な違いがあります。
昭和の映画が笑い飛ばせたのは、「それでも成長していく時代」という前提があったからです。
平均も、初等も、最終的にはなんとかなる。
会社も社会も、右肩上がりに大きくなっていく。
ホラを吹いても、最後には誰かが笑って許してくれる、
そのうち、なんとかなるだろう~
という空気が、あの時代にはありました。
令和は、そうではありません。
失敗は簡単には笑い話になりません。「画期的なソリューションです」と言って乗り込んだあと、本当に結果を出さなければならない。
そういう時代です。
それでも、新しい肩書は増え続けます。
新しい「ひとし」たちが、毎月のように現れては、セミナーのステージに立ちます。
無責任になりたかった時代
ジャスト世代ではないですが、私は、この一連の映画が大好きです。
皮肉をいいたいわけではありません。とにかく笑える、というのが正確です。
植木等が演じた「ひとし」たちの、あの明るさ。
何がバレても動じない。深刻にならない。
次の手を考えながら、すでに笑っている。
あの軽やかさが、画面から滲み出ています。
あの軽さには、たぶん時代の後押しがありました。
「無責任でいられること」が解放であり、痛快さだった時代。
失敗しても、また笑って次の場面に進める、という前提がある時代。それがあったから、笑えた。
令和に生きている私には、あの軽さが難しい。
「AIウィスパーラー」という肩書を見て笑えるのは、それが令和のあの古沢の「ホラ吹き男」に見えるからです。
同時に、あの軽さで乗り込んでいける人を、少しだけ羨ましいとも思う。
これは、昭和の映画館の観客と、たぶん同じ感情です。
笑いながら、羨ましかった。
いいなやっぱり、無責任は。
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