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「成熟していない」で終わらせないために──未熟な脳🧠の排気ガスと、創作という処理装置

世の中には、他者の不誠実や理不尽な悪意に触れたとき、「まあ、世の中そんなものだ」と軽やかに受け流せる人がいます。

私は長い間、そういう人たちを羨望と複雑な感情の入り混じった目で眺めてきました。

羨望は明白です。あの軽さ、あの省エネの生き方。消耗しない人間の、なめらかな時間の使い方です。

一方で、どこか苛立ちもありました。
ただ、その苛立ちは彼らへ向けられたものではありません。

むしろ彼らのようになれない自分への、どこか投影的な苛立ちだったのだと思います。

私はどうしても、受け流せません。

表面的には平静を装います。その場で声を荒げるようなことはしません。

しかし内側では、激しい感情が確実に音を立てて沸騰しています。

しかも厄介なことに、私はその怒りを単なる感情の爆発として処理しません。

一歩踏みとどまり、どうすれば筋の通った反論ができるか。どこに論理の綻びがあるのか。そのための計算やシミュレーションを、脳内で延々と続けてしまうのです。

自分の内側で刃を研ぎ澄ましているような、あの張り詰めた感覚。

そして、その思考のどこかに、あまり褒められたものではない快感が混じっていることも知っています。

そんな自分に直面するたび、私は長い間、自分のことをこう断定してきました。

「成熟していない」と。


しかし最近、その断定は少し雑だったのかもしれないと思うようになりました。

「成熟していない」という言葉は、一見すると自己批判のように見えます。

けれど実際には、思考の終点でもあります。

そう名付けることで、それ以上の解析を免除してしまうからです。

なぜ受け流せないのか。

なぜ火が消えないのか。

なぜ計算が止まらないのか。

私は長い間、それらを「未熟だから」の一言で片付けていました。
しかし最近、それだけでは説明しきれない気がしています。

問題は観察ではなく、その先に必ず自己裁判が待っていることでした。

私の思考パターンはだいたいこうです。

火がつく。

抑制する。

計画する。

そして、そんな自分を「成熟していない」と裁く。

しかし火は消えません。

このループには終わりがありません。

なぜなら判決が常に「成熟していないから」である限り、改善の余地が存在しないからです。

欠落の診断は、ときに治療の放棄になってしまいます。

では本当に、これは欠落なのでしょうか。

私はむしろ、これは気質なのではないかと思うようになりました。

知性や倫理観と同じレイヤーに存在する、配線の問題です。

なぜなぜを百回繰り返しても変わらないのは、そこに治すべき原因があるからではなく、単純に「そういう人間だから」という可能性もあるのではないかと思うのです。


ここに、もうひとつの問題が重なります。

私は受け流せないだけではありません。

自己保身や卑怯に映ることに、妙に敏感なところがあります。

合理的な引き際のはずなのに、「これは逃げではないか」と感じることがあります。

戦略的な沈黙のはずなのに、「これは臆病ではないか」と思うことがあります。

この感覚もまた、長い間「成熟していない証拠」だと考えてきました。

しかし、考えてみれば逆なのかもしれません。

私が痛むのは、自分の中に何らかの基準があるからなのではないか。

少なくとも、自分の中にそうした基準があるからこそ痛みが生じているのでしょう。

ただし、ここには構造的な皮肉があります。

倫理基準が、「厄介な自分」を許せなくさせるのです。しかし許せないからといって、その気質そのものが消えるわけではありません。

結果として、自分を律するために持っていたはずの基準が、自分を傷つける道具になってしまうのです。


では、この消耗はどこへ向かうべきなのでしょうか。

私は最近、ひとつの考え方に辿りついたような気がしています。

創作です。

ただしここで重要なのは、創作が「癒やし」や「逃げ場」として機能しているわけではない、ということです。

私にとっての創作は、行き場のない排気ガスを安全に処理するための装置に近いものに感じます。

あの終わりのない思考の循環も、物語や映像やキャラクターへと流し込み、再構築する。

その過程を経て初めて、排気ガスは創作へと変換されます。

そして処理装置としての創作には、もうひとつの側面があります。

受け取る人への責任です。

私は作品を書くときも、つい複数の読み筋をシミュレーションしてしまいます。

どんな誤解が生じるか、どこで話が逸れるかを考え、その都度手を入れます。

それは自己防衛というより、本当に届けたい読者が余計なノイズなしに作品へ入ってこられるようにするためです。

外から見れば、ただの面倒なこだわりに見えるかもしれません。


ここで少し、「表現の自由」という言葉について考えてみたいと思います。

私は正直、この言葉をあまり意識したことがありませんでした。どちらかといえば、外向きな文脈で使われるものだと感じていたからです。

一般には、社会へ向けて思想や意見を発信する自由として語られることが多いでしょう。

しかし私が創作をはじめて、実感として掴んでいる「表現の自由」は、少し違います。

それは、自分の中から生まれてしまう排気ガスを、誰にも迷惑をかけず、自分自身の手で燃焼させ、濾過するための自由です。

内心を最後まで処理する自由です。

この考え方は独りよがりに聞こえるかもしれませんが、自分の中にある厄介なものを処理するための建設的で合理的な方法のひとつと考えるようになりました。

だから私は、「表現の自由」の本質は、まず自分自身への検閲をやめることにあるのではないか、と考えています。


おこがましい想像かもしれませんが、歴史に名を残した書き手たちの作品にも、ときどき似た匂いを感じることがあります。

もちろん、彼らが実際に何を考えていたのかはわかりません。

ただ作品を読んでいると、人間への苛立ちや失望、自分自身への違和感や羞恥のようなものが、高度に加工された形で現れているように見えることがあります。

だから私は勝手に親近感を覚えるのです。

尊敬というより、「この人たちも何かを処理していたのかもしれない」という感覚です。

もちろん、それは私の読み方に過ぎません。

それでも私は、優れた作品というものは、完成された人格から生まれるというより、処理しきれない何かとの格闘から生まれることが少なくないように感じています。


「達観しきれない自分」を、私はこれからも抱えて生きていくのだと思います。

ただ、本音を言えば、それを完全に受け入れられたわけではありません。

むしろ私は今でも、もっと軽やかに生きられる人間になりたかったと思うことがあります。

他者の不誠実を受け流し、頭の中で終わりのない反論を組み立てることもなく、自分自身を裁き続けることもなく、穏やかに眠れる人間です。

そうなれたら楽だっただろうと思います。

だから私は、自分のこの部分が好きではありません。

厄介な思考回路も、消えない怒りも、自己裁判の癖も。

美徳だと思ったことはありません。

むしろ長い間、欠点だと思ってきました。

今でも、その認識は大きく変わっていません。

ただ、ひとつだけ変わったことがあります。

それを消そうとすることを諦めたことです。

何度も矯正しようとしました。
もっと軽やかになろうとも、達観しようともしました。

しかし結局、火は消えませんでした。

消えないものを前にして、私はようやく考え方を変えました。

問題は火そのものではなく、火の使い方なのではないか、と。

現実の人間関係で燃やせば破壊になりかねません。

内側に閉じ込めれば自家中毒になります。

だから私は書きつづけることにしました。

高尚な使命感でも、自己表現への憧れでもありません。

出発点はもっと個人的で切実なものです。

内心を処理しなければならないからです。

創作は私にとって、放っておけば自分や他人を傷つけかねない何かを、安全な形へ変換するための設備です。

作品は、その副産物です。

もちろん、もっと健全な生き方があるのかもしれません。

もっと成熟した人間になれる道があるのかもしれません。

ただ少なくとも今の私には、それは見つかっていません。

だから当面は、このやり方で付き合っていくしかない。

この性分は、私にとって誇るべきものではありません。

それでも消えない以上、どこかへ流さなければなりません。

その流れ着く先が創作であるなら、私はこれからも書き続けるのだと思います。

それが好きだからなのか、必要だからなのか。

その違いは、まだ自分でもよくわかっていません。


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