今日をその日とすることにした
明後日まで夫がいない。夫は昼の便で時差のある場所へ義母と一緒に飛び立っていった。三日間ドキドキワクワク一人暮らし体験のはじまりである。
30数年生きてきて、私は一人暮らしをしたことがない。
日本にいた頃は1日でも早く渡航費用を貯めて会社を辞めたい、そのためになら毎日3時間通勤にかけることも厭わない、という”自分の時間”の価値を完全に見誤った貧乏根性で会社からの家賃補助の提案を断り実家に居座った。こちらにきてからはシェアハウスで他人とシャワーとトイレを奪い合ったり譲り合ったりする生活を送ったのち、ぬるっと夫との同棲へと切り替わった。
一人暮らしをしたくなかったわけではなく、日本にいた時はお金の事情で、そしてこちらに来てからもまたお金の事情で、まあ全てはお金の事情で、常に誰かがいる暮らしを選択してきたのだ。
***
久しぶりに一人で食べる夕食になにか変わり種を、と思い日本酒を開けることにした。円錐形のボトルに入った雪椿。手頃な価格なのに甘口で飲みやすい。何かとっておきの時のためにと日本から持ってきていたのだけれど、とっておきとは、はて、どんな時かとタイミングを見計らいすぎて既に2年が経っている。誕生日もお正月も記念日も2周通り過ぎている。このまま3周目も無事に通り過ぎる未来が容易に想像できるので、今日をその日とすることにした。
金箔を思わせる雅な封を切って出てきたツイスト式のキャップをひねる。
開かない。
手の汗を拭い、もう一度力を込める。
開かない。
今度は硬くなった瓶詰めのジャムを開ける時のようにお湯でキャップ部分を少し温めてみた。
開かない…!
キャップが硬すぎる。ック!と歯をギリギリさせて鼻息荒く力む私の声だけがキッチンに虚しく響く。はじめての一人暮らし(もどき)を満喫しようとお酒で開会宣言をするはずが、まさかの開会できない危機。早くもここで夫を召喚したい衝動に駆られる。
これで開かなかったら大人しくお茶を飲もうと最後に渾身の力を込めてキャップをひねり、もう息が持たない…!というところで、ようやく、カチャリとキャップが動いた。達成感と筋肉の衰えに手が震える。
久しぶりに呑む日本酒は文句なしに美味しかった。
二十歳になり初めてお酒を酌み交わした時、いつも一人で晩酌をしていた酒呑みの祖父はようやく仲間ができたと大層喜んでくれた。こういうシンプルなやつが一番美味しいんだと塩茹でされたえんどう豆をつまみにチビチビ呑んで、祖父の昔話を聞く。祖母や母はまたか、、と聞き流していたけれど、阿賀野川で鮭をとり、逆立ちして外を歩き回っていた少年時代の話、道を間違えてトラックで1kmほどバックで戻ったという運送業時代のこわい話、よく沐浴させてやったもんだと自慢気に言う私が生まれた時の話、酔っ払いながら話してくれるそのどれもが祖父の青春だったんだなと私はいつも楽しみに聞いていた。
お酒に口をつけ、そんな昔話を思い出す。
…誰かと話したい。
特にオチもないこんな昔話を誰かに聞いてもらいながら呑みたい。
充電中だったスマートフォンを手に取り、すぐに出てくれそうな妹に電話をかけた。
***
夫が帰ってくるまであと二日。
私はすでに一人暮らしに負けている。

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