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【掌編小説】解放のステップ#すべて失われる者たち文芸賞

「あ、ねえ。これファックスできないのかな」

 複合機の横をすり抜ける松永さんに声をかけた。振り向いた彼女は私の顔を見ると嫌そうに眉を寄せる。

「できないですよ。ていうか、課長。うちの会社、もうファックス禁止になったじゃないですか」

「でも手っ取り早く送りたいんだよ」

「面倒でもスキャンデータをメールで送ってください」

 スキャンスキャンと呟きながら、複合機をつつく。それを見かねたのか、彼女は自分の書類を机に置いて戻ってきた。

「お急ぎなら代わりに送りますよ」

 私は礼を言うと、宛先の業者名と連絡先を伝える。すると耳元でジャキン、と音がする。

 まただ。また切れた。

 周囲の人に怪しまれないよう、さりげなく周囲に視線をめぐらすと、すぐ頭上に少年が浮かんでいた。背中に翼の生えた八重歯の目立つ少年が、大きなハサミを両手で持って浮いている。

「良かったなぁ、おっさん。これでまたひとつ解放されたぜ」

 少年は私をバカにするように頭上をフワフワと飛ぶ。一人の時以外は無視することにしている。

 この四十年で世界は大きく変わった。新人の頃は、足と電話とファックスを駆使して深夜まで仕事に没頭していたのに、今ではパソコン、ネット、メールになってしまった。直接足を運び面談することで信頼を得たのは昔の話で、今じゃ訪問も電話も嫌われる。まずはメール、良ければウェブミーティング。必死で食らいついてきているつもりだが、カタカナ語を操る若者に「代わりますよ」と同情される。代わられる度、私が不要になる度、ジャキンジャキンと切られていく。

 定年退職を迎え、ジャキンという音と同時に支店長から花束を頂戴する。仕事しかしてこなかった私に、家ですることはない。地に足がつかない心地で一日中リビングに居座る私を、家内は悩まし気に見るようになった。

 やがて孫が生まれると、娘の時にはほとんどしてやれなかった分、何度となく抱かせてもらった。

 他の家事をする娘の代わりに家内が離乳食を食べさせる。その横から私もそっとスプーンを差し出すと、娘から激しく怒鳴られた。

「勝手なことしないで。食器を共有するのはネグレクトなの。お父さんは何もしなくていいから」

 そう言われた瞬間、またジャキンと音がした。八重歯の少年がニヤニヤと笑う。

「良かったなぁ、おっさん。またひとつ解放されたぜ」

 外に出なくなった私はいつの間にか体が弱くなっていたらしい。いつも歩いている廊下の段差につまずき転倒した。大腿骨を骨折し、しばらくの入院を余儀なくされる。リハビリをして一度は家に帰るものの、トイレまでが間に合わなくなり、娘から使い捨ての下着を渡された。

「良かったなぁ、おっさん。これでトイレからも解放されたぜ」

 少年はそう言うとハサミを動かした。

 そう日を置かず、また家の中で転倒した。今度は股関節と大腿骨を折った。治療した病院から転院し、そこから家に帰ることはできなかった。毎日が規則正しく、三食も舌でつぶせる薄味の食事となり、昨日、今日、明日の区別がつきにくくなっていく。毎日のように家内が顔を出し、娘も時々来てくれて、時には孫もついてきた。

 ベッドの上を飛ぶ少年が、ジャキンジャキンとハサミを動かす。

「なあ、坊や。今は何を切ったんだ?」

「おっさん、気にしなくていいんだよ。全部忘れて自由になれば」

 少年は八重歯を見せて安心させるように笑う。

「なあ、坊や。お前は何者なんだ?」

「俺はただのガイドだよ。おっさんをこの世につなぎ留めているものから、自由になる手伝いをしているのさ」

「じゃあ天使なのか? それとも悪魔?」

「さあ。おっさんの好きに呼んでいいよ」

 ふと気が付くと、私のベッドの周りにみんながいた。家内に、娘夫婦、大きくなった孫。

 息を吸おうにも深く吸えず、声をかけようにもヒューヒューと喉が鳴るだけだ。薄着で外出しているかのように、四肢から冷えて体が強張る。うまく動かせない体の中で、唯一動く首を傾け、家内の方を見た。白髪の増えた家内は、私を見つめ穏やかにほほ笑む。

「大丈夫ですよ、おじいさん」

 その言葉を聞いた瞬間、ジャキンと大きな音がする。糸の切れた風船のように、私の体はふわりと浮かんだ。私の右手を小さな手が握る。

「さあ、おっさん。こっちだよ」

 少年に引っ張られ、私の体は病院の天井をすり抜け、雲を越え、大空へ向かって進んでいく。


(1,784文字)



 このお話は、以下の企画に応募するための再掲です。


 このお話のインスピレーション元は以下の詩です。

老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後の磨きをかける。
まことのふるさとへ行くために。
己をこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

「最上のわざ」より抜粋(へルマン・ホイヴェルス『人生の秋に』)


#すべて失われる者たち文芸賞



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