ザッカーバーグが買い占めた“街”の終わり方──「隣人って、やめられるんだっけ?」
Facebook創業者マーク・ザッカーバーグは、
カリフォルニアに邸宅を建て、隣接する家を次々に買い占めた。
これはただの“富豪の豪遊”の話じゃない。
わたしたちが当たり前だと思っていた「隣人関係」や「街というものの意味」が、
どのようにして書き換えられていくのか──
了解。以下、Z世代向けの空気感を意識しつつ、
柔らかく、でも骨のあるトーンで仕上げたnote用エッセイです。
「隣人って、やめられるんだっけ?」
約39兆8000億円の資産を持つMetaの、マーク・ザッカーバーグが
カリフォルニア州パロアルトの住宅街で、総額170億円で富裕層の高級住宅11軒次々と買い占め、
まるで“私設王国”のように改造しているという話。
相場の数倍で隣接物件を連続取得。空き家化も交え、実質的な“囲い”。
地下に約200坪の空間を掘り、複数の家を改装し、パーティーやプライベートスクールを開き複合施設化、
監視カメラと警備車両を配置して、騒音や交通の負荷は近隣へ。
周囲の住民にはノイズキャンセリング・ヘッドホンを配る……。
これに対し行政は空洞化、街のルールは外部資本に最適化されたってこと。
あまりに現実離れしていて、一瞬フィクションかと思った。
けど、これは現実なのよ。
そして、いまの社会が“どこにズレているのか”がものすごく浮き彫りになった出来事でもある。
「スキマ」がなくなった街
パロアルトはもともと、大学教授や技術者が集まる静かでオープンな街だった。
子どもが路地で遊び、近所の人が顔を合わせれば「元気?」と声をかけ合うような、
都市だけどどこか“共同体”のにおいがする場所。
でも、ザッカーバーグが移り住み、周囲の住宅を買い取り、囲い込み、
警備や監視が常態化したことで、街は静かに変質した。
それは、“音”や“会話”が減ったという意味じゃない。
「スキマ」がなくなったの。
スキマって、ただの空白じゃない
ここで言う「スキマ」は、“空いてるスペース”って意味じゃないよ。
人と人とのあいだにある、予定調和じゃない余白のこと。
偶然すれ違ったときに生まれる挨拶、ちょっとした世間話、行き過ぎた改築へのひそかな違和感──
そういう、“語られないけど大事なもの”が生きてる空間。
ザッカーバーグのやっていることは、
そういうスキマを札束と監視と制度で“埋めて”いく作業に見える。
あまりに静かに、でも確実に、“隣人”という関係性が解体されていく。
本当にそれがやりたかったの?
ここでふと疑問に思う。
「何でもできる人が、それをやる?」
資産40兆円。世界に名前が知れ渡ってる人が、
“本当に”やりたかったことが、住宅街のコントロールと地下空間の構築だったのか?
自分の街を、まるでセキュリティテストの実験場のように作り変えることだったのか?
それが悪いとは言わない。
でも、何でもできるからこそ、その選択の意味は重い。
静けさって、そんな風につくるものだっけ
今回の記事で印象的だったのは、騒音や不快への“配慮”として配られたという
ノイズキャンセリング・ヘッドホンの話。
絶望的に面白くて、冷静に怖い。
「音を消す」ことで、問題をなかったことにするっていう発想。
本当の静けさって、そうやって無理やり作るものじゃない。
あんたのビジネスはそーやって成功したんだろうけど、これはお前のビジネスとは違う。
静寂も街の喧騒も、誰かと呼吸を合わせながら、声の強さや間を調整していくことで生まれるものだよ。
つまり、共同体のバランスの中で“音”って育まれるもの。
じゃあ、富豪はどう振る舞えばいいのか?
「お金があるから何してもいい」じゃなく、
「お金があるからこそ、どう振る舞うかに責任がある」ってこと。
お金って、“他人の時間”や“他人の余白”を一瞬で買えてしまうもの。
だからこそ、その使い方にはセンスと倫理が必要になるはずなの。
「隣人である」って、選べるの?
ザッカーバーグがやっていることを見ていると、
「隣人であることをやめた」という宣言に近いわ。
でもそもそも、“隣人であること”って、自分の意思だけでやめられるんだっけ?
そこに他者がいて、生活が重なって、はじめて成立する関係じゃないのかな。
街って、制度や土地所有の話じゃなくて、
「偶然の出会いにどう応答するか」という態度の集合体だったはず。
資本主義の仕組みそのものを、こういう人々に握られているのかと思うと、もう無力感も残らない。
