2026年モデルのZ900RSが欲しい。でも、整いすぎてるから迷う。
たぶん論点は「整う」という言葉が、いつのまにか褒め言葉として独り歩きしていることだと思ってる。
「整いました」は、本来は混沌としていたものに一本の筋が通る瞬間だった。
謎かけで言う「整いました」は、バラバラだった言葉がひとつの構造に収まる快感だ。
AとBが遠く離れているように見えて、実は同じ場所でつながっていた。
その発見の瞬間に「整う」がある。
でも、サウナブーム以降の「整う」は少し違った。
心身のノイズを消す。
疲れをリセットする。
余計なものを抜く。
自分をニュートラルに戻す。
もちろん、それはそれで悪くない。
疲れている人間には必要だ。
ただ、その言葉があまりにも気持ちよく流通しすぎた結果、「整っていること」そのものが価値になってしまった。
整った生活。
整った身体。
整ったメンタル。
整ったデザイン。
整ったプロダクト。
整ったバイク。
そしてバイク。
2026年モデルのZ900RSも、「すべてにおいて乗りやすく、整った」と言われる。
ポジションが自然。
操作が軽い。
低速でも扱いやすい。
アクセル操作はシルキー。
振動が少ない。
電子制御が優秀。
誰が乗っても怖くない。
たしかに優秀でしょうね。
文句のつけようがないんだろうよ。
でも、そこで思ってしまう。
整ってどうするの。
綺麗におさまってどうするの。
暴れちゃいけないのか。
バイクは、乗り物である前に、少しだけ人間を乱すものだったはずなのに。
エンジンの機嫌をうかがう。
思ったより曲がらない。
ブレーキが信用できない。
振動で手がしびれる。
信号待ちで熱い。
意味もなくうるさい。
でも、その不完全さの中に「こいつを乗りこなしている」という感覚があったはず。
整っていないから、関係が生まれる。
完璧に調律されたものは、こちらを必要としないでしょ。
誰が触っても同じように動く。
誰が乗っても同じように気持ちいい。
それはつまり、個人の癖や未熟さや工夫が入り込む余地が少ないということでもあるから。
「万人に受ける」は、いまの時代においてかなり強い正義なんよ。
使いやすい。
わかりやすい。
安全。
快適。
失敗しにくい。
炎上しにくい。
誰も傷つけない。
誰も置いていかない。
それは社会としては大事だよ。
でも、表現や趣味や乗り物の世界まで、全部その基準で測り始めると、だんだん息苦しくなるってこと。
尖っているものは丸められる。
うるさいものは静かにされる。
扱いにくいものは改善される。
クセは個性ではなく欠点として処理されるの。
そして最後に残るのは、「よくできているけど、別に欲しくはないもの」だったりしちゃう。
たぶん、つまらなさの正体はそこにあると思う。
完成度が低いからつまらないんじゃない。
完成度が高すぎるから、こちらの感情が入る隙間がないんだと思う。
整っているものは、綺麗。
でも、綺麗なものがいつも強いとは限らない。
むしろ記憶に残るものは、どこか歪んでいるよね〜。
変な音。
変な形。
変な操作感。
変な匂い。
変な重さ。
変な癖。
そういうものが、人間の中に引っかかるはず。
「整う」は、混乱を終わらせる言葉なの。
でも趣味の面白さは、混乱が終わらないところにある。
サウナで整うのはいい。
疲れた身体を戻すのは大事だし。
でも、バイクまで整いすぎなくていい。
音楽まで整いすぎなくていい。
街まで整いすぎなくていい。
人生まで整いすぎなくていい。
暴れるものがあるから、こっちも生きている感じがするんだから。
すべてが乗りやすく、扱いやすく、清潔で、失敗しにくくなった世界で、最後に残る問いはこれだと思う。
それで、何が面白いのか。
整ったあとに、何をするのか。
いや、そもそも。
整わないまま走ることにしか出せない速度が、あるんじゃないかな。
