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アマチュア哲学を語らう夜に向けての往復書簡 第六便 阿部→柿内

2025年2月14日に当店・学術バーQ(東京・上野)で開催予定の対談イベント「アマチュア哲学を語らう夜」。この会に向けて、メインスピーカーの柿内さん・阿部さんお二人に「往復書簡」の形で文章を書いていただくこととなりました。アマチュアとして世界を楽しむには?〈良きアマチュアイズム〉とは何か?〈アマチュア〉なるものをめぐる、お二人のやりとりをお楽しみください。
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学術バーQのマガジン『柿内正午 × 阿部廣二往復書簡企画:2025.2.14「アマチュア哲学を語らう夜」に向けて』

柿内さま

イベントも無事終わり、いかがお過ごしでしょうか。私は授業期間が終わったことにかまけてうだつの上がらない日々を送っておりまして、今はFishmansのライブを観に有明まで来ています。

いやしかし、イベントとしてはお客さんもたくさん入り、大成功だったのではないでしょうか。友人をはじめポイエティークRADIOのリスナーさんや私の関わっている授業の受講生の方など、お越しいただいた皆様には感謝しきりであります。内容も多岐に渡り、充実した会でした。お客さんもそれぞれいろんなことを持ち帰れたのではないかと思います。

と、こんな感じで無難にまとめたくなるところですが、それではあまりにも型にハマりすぎているので、ここからは好きに書いていきます。

まず、↑で「たくさん」「大成功」「多岐」「いろんなこと」と書きました。こうした言葉は、お客さんの数や成功の度合い、発話のトピックやお客さんが考えたことを、何らかの基準で定量化するものです。先のイベントではまずもってこの点、つまり「量」の論理に焦点が当てられたように思います。ポイントは、これらの量が、本来は計測されなくても良かった、あるいは計測不可能なものだということです。例えば、イベントの成功はイベンターやお客さんの感じ方にも寄るので「”大”」成功かどうかは本質的にはわからない。しかし、上の文章では、「成功」をお客さんの量へと還元しました。「成功=◯人のお客さん」という全く証明されていない方程式を作ったといってもいい。

アマチュアは、しばしばこうした(曖昧な)定量的基準を元に、「これをするべきだ」という規範に遭遇します。逆に、それらをしていないときには「未熟者」とされる。このとき、当初あったはずの「楽しい」とか「好き」みたいな感情は捨象され、「これをしなきゃ」が生まれる。本来なら楽しければ、好きであればそれで良かったはずなのに、巧妙にエキスパート的基準により定量化され、段々と行動も枠づけられていく。量が権力として立ち現れてくるといってもいいでしょう。このあたりの話を柿内さんの「会社員の哲学」におけるマルクス読解を手掛かりに議論しました。

このような枠づけは、さまざまなイベントでも観察できるように思います。先日のイベントはこの話から始めましたね。例えばお客さんが行う質問を装った「演説」(イベント内容と関係の薄い自己語り)は忌避される。これはイベントの枠内から逸脱した行為だからです。とはいえ、これはイベンターやお店側の量的な論理を無意識に適用しているからこそ逸脱と捉えられるわけで、客側からしたらそんなの知ったこっちゃないともいえる。

ただ、そこからなんでもありにはならないようにするためにはどうしたらよいのか。イベントが終わった今、そんなことを考えています。実は、柿内さんがイベントにてこういう演説が好きだと表明されたとき、すこしだけ反応に迷いました。イベントでも少し言ったかもしれませんが、私自身はそういうコメント、ちょっと苦手だからです。もう少し正確にいうと、イベントの場へと志向していないコメントが苦手。その場のできごとに参加する志向を持たないならば、そのコメントは、イベンターの「話を聞け!」を逆転させた観客側の押しつけのような気がしてしまう。

無論、柿内さんの意図はわかっているつもりで、場の規範性を打破するコメントってありますよね。それは大変よくわかって、実はそれはそれで全然よいと思っているのです。つまり私の方でも”あり”なコメントと”なし”なコメントの両方があり、その基準がなんなのか、考えあぐねているところなんです。
そもそも「会社員の哲学」においてサラリーマンのあそこまで現実的な抵抗戦略を考えている柿内さんが、単純すぎるアマチュア側のレジスタンスを肯定するはずもなく、上記「好き」発言は後半の糸井重里的な「(抵抗としての)無反省」の議論を通したアイロニーなのだと理解しています。個人的にはあの糸井の議論は大変すっきりしました。

また、イベントでも話題に出たように、量の論理はエキスパートやプロ側が押し付けるだけではない。他ならぬアマチュア側が、他のアマチュアに量の基準を押し付けることがある。このあたりをいわゆる「ハイアマチュア」問題として議論しました。エキスパートに近づいたアマチュアは、いやそうしたハイアマチュアこそ、あるべき方向を枠付けてしまう。

思うに、ここまで書いてきた問題は、我々が量の論理とどのように付き合うのかということなのだと思います。「付き合う」と表現したかったのは、量の論理を単純に否定するのではなく、それをうまく乗りこなしていくということを企図するためです。

量はそこまで否定されるべきものでしょうか。無論、量化はある種の物象化の論理であるわけです。しかし、そうして物象化されたものは、ある種のゲームとして、アマチュアに楽しみを提供することがあります。昆虫採集であればどれくらいたくさん採れたのかや、どれくらい大きい虫が採れたのか、などです。私自身、これらのゲームにアマチュアが絶対参加するべきだとは思いません。一方で、アマチュアの楽しみとしてこれらがあるのは容易に想像できる。

重要なのは、現在自分が関与している楽しみが何に枠づけられているのか、当事者自身が自覚してることなのではないでしょうか。無論、何らかの押しつけに対しては抵抗するべきです。一方で自分が納得できるゲームならば参入するのもよいでしょう。納得を超えて、魅力を感じることもあるかもしれません。我々は、ゲームから逃れることはできません。であるならば、自分がどんなゲームに参加しているのか、自覚的でありたい。このように自覚できるならば、違うゲームが存在する可能性にも気がつけると思うからです。

もちろん、そこには自由意志の問題が関わります。つまり、自分で決めたと思っていたものが、何らかの枠組みによって規定されていおり、枠を認識できているわけではない可能性です。ただ、私としては、たとえそれが括弧付きの主体性であっても、それに賭けていきたいと思っています。

以下はジェームズ・ミラーが書いたフーコーの伝記的作品「情熱と受苦」に記されていた、フーコーがある学生に語ったとされる言葉です。

「自由は見つけられるーーーしかしつねに、ある文脈においてだが。普段の闘いの原動力を作動させるのは、権力だ。それから逃れることはできない。しかしそのゲームは君自身が行うものだと知ることに自由が"存在する"。権威におもねってはいけない。真理は君自身の内にある。怖がってはいけない。自分を信じなさい。生きるのを恐れてはならない。そして、死ぬのを恐れてはならない。勇気を持ちたまえ。やらなければと君が感じることをやりたまえ。望み、創造し、超越しなさいーーー君はゲームに勝てるだろう。」

「情熱と受苦」 pp.372-373

糸井的な「(抵抗としての)無反省」も、ゲームへの自覚も、結局は定量化による権力の枠内で作動する。しかし我々は、「ゲームを行っていること」それ自体を知ることができる。その認識可能性にこそ自由が存在するのだとフーコーは言っているのでしょう。アマチュア的実践が持つ倫理とは、内容自体ではなく、ゲームとしての認識可能性にこそある。だからこそ、今回のイベントでやったように、我々はもっとアマチュアについて語るべきなのだと思います。今回のイベントで私が得た最も重要な洞察は、まさにそのようなものでした。

最後のお返事にも関わらず、またうだうだと書いてしまいました。ただこんな議論を仕掛けたら、柿内さんはどう反応するのでしょう。お返事を聞くのが楽しみで仕方ありません。ぜひまたイベントやりましょう。最後と書きましたが、往復書簡も細々続けてもいいかもしれません。なにか問いかけたいことがあったらまたお手紙を書きます。柿内さんも、もしよろしければ、思いついたことがあればお送りくださいませ。締まりのないお返事で恐縮ですが、こんなところで筆を置かせてもらいます。

▼本企画の登場人物

柿内正午(かきない・しょうご)
ただの会社員。「町でいちばんの素人」を理念とし、いち生活者としての非専門的な読み書きによる雑駁な活動を行なっている。著書に『プルーストを読む生活』、『会社員の哲学』など。

阿部廣二(あべ・こうじ)
東京都立大学特任助教。昆虫採集を行う人々(虫屋)が虫を採集するプロセスについて、認知科学の観点から研究しています。また、会話や身振り、伝承など、人々が日常的に行っている実践に広く関心があります。

▼2025年2月14日のトークイベント「アマチュアの哲学を語らう夜:〈素人〉の良きあり方を考える」の会場はこちら
学術バーQ : https://sites.google.com/view/q-gakujutsu/home

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