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🤩❤🥰【GO to KASHII キャンペーン】「椎山、関谷二つの樫椎家」


樫椎(かしい)は歴史と文化の宝庫! 見どころ満載の樫椎に観光に行こう!

現山主である椎山樫椎家(しいやま かしいけ)の他に関谷樫椎家(かんごく かしいけ)という二つの『樫椎家』がそれぞれ本家を主張している。

両兜とも館長制作の段ボール製レプリカが樫椎博物館に展示中(入場料¥3,800)

戦国時代から江戸時代初期まで椎山城に1つの樫椎家しか存在しなかったが、寛永9年3月22日に一家分裂の大事件が起こった。

『樫椎家絵日記』によると寛永9年3月22日の良く晴れた日、当時の樫椎家当主であった樫椎実籾(かしい さねもみ)と長男 実太(さねた)が、

『屯食と酒を持ちて桜にも見つつ遊ばむと言ひいだしき』
「おにぎりや酒を持って桜でも見て遊ぼうぜ」と言い出したとある。

数人のお気に入りの家臣を連れて関谷の川のほとりで花見をして、
特に当主の実籾が鎧兜を着たり、女装をして踊りはしゃいで浮かれていたと記されている。

家臣たちと笑い、悔しさを末代まで忘れぬため『愚かなる先代 実籾』を描いて欲しいと実太が、
当時有名な蛇内流の絵師に描いて貰ったという『樫椎実籾公桜下傾奇絵図』関谷樫椎家所蔵。


ところが、遅く起きて来た次男の実次(さねつぐ)は、父 実籾と兄 実太が自分を置いて遊びに行ったことに「なぜ僕を置いて花見に行くのだ!」と顔を真っ赤にして涙を流して激怒した。

『などかおのれを置きて桜狩りに行くべきなり、父上、兄上、かくなって上は二度と樫椎の城の敷居は跨がせぬ』
と乱心し、城に戻れない様にしてしまった。

浮かれていた当主 実籾や長男 実太たちが気付いた時には次男 実次によって樫椎城を兵で固められていたと書かれている。

ところが、夜になり当主の実籾が「寒いから帰りたい」と女装姿のまま、こっそりと次男 実次に許しを請い樫椎城に帰ってしまった。

そればかりか翌日には、次男 実次一派に脅されて家督を 次男 実次に譲って隠居してしまったと記されている。

一方、本来正統な後継者であった関谷に取り残された長男 実太の元には、実太に仕える者多数が城を出て関谷に向かったとある。

そして、実太に仕える者たちが持ち出してきた甲冑、刀剣を身に着け、
寛永9年5月22日、樫椎 実太は樫椎城奪還の兵を挙げた。

初めは攻城戦に苦戦していた実太軍であったが、特に父 実籾への怒りから、
皆が声を上げ、その怒り凄まじく、10日後には落城が見えて来た。

しかし、今日にも城が落ちるというその日に、早馬の伝令があり、

「今度の家光という将軍は家督争いなど騒動があると、バンバン"お家取り潰し"にするヤバい将軍らしく、つい先日もあの加藤清正の子まで改易されたらしい。」

その情報が入ったことで、既に 次男 実次は泣きじゃくり、前当主 実籾は『自分だけは許してくれ』と使いの者をよこしていたのに、
樫椎1万石を守るため、城を落とすことが出来なくなってしまったと、
『本家樫椎家絵日記』に記されている。

実太はやむなく関谷に戻り、『本家』を名乗りながら、現代までその血筋は『関谷樫椎家』として存続している。

一方、椎山樫椎家の『元祖樫椎家絵日記』には、

『逆賊実太返り討ちにし、実太泣きつつ関谷に追ひ返しき』
「逆賊の実太を返り討ちにして、実太を泣かせながら関谷に追い返してやった」
と書かれている。

未だに椎山衆と関谷衆はとても仲が悪く、うっかり「どちらが好き」とか「どちらの兜が格好いい」などと話すと思わぬ恨みを買う可能性があるので、観光の際には細心の注意を払った方が良い。

観光中、『後をつけられている』と感じたら遠慮なく仔馬宿公民館へお越し下さい。椎山衆か関谷衆に敵の間者(スパイ)と疑われている可能性があります。樫椎の人間は激しやすいので、あまり刺激せず、公民館に来るか、来れない場合は「東京(大阪)から来たのですが、東京(大阪)より凄い見所はありませんか?」などと聞くと、逃げるようにいなくなり、ついてこなくなる傾向があります。

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