この日を、わすれない
シャーリィの手は、握ると最初はひんやりとし、だけど少しずつ温もりが染み出てくる。
まるで彼女自身のような手触りだった。
木の葉がすれ合うざわめきと、木漏れ日が斑点を落とす苔の地面を進みながら、フィンは胸の高揚を持て余しながら歩いていた。
王国最北端の第六都市グラウカから、さらに北上すること数日。
そろそろ森の終端が見えてくるはずだったが、一向にその気配はない。
「んで? 帝国いったらとりあえずどうすんの? 冒険者ギルドに登録していきなりG級クエ受注しまくって荒稼ぎすんの? 報酬覧を一瞥しただけで溜息とともに素材全売りすんの?」
「言ってゐる意味はよくわからんが、ひとまずそれは最終手段だ。あくまで目的は移民希望者の面々と、フィンくんが帝国で根付ける場所を探すことである。」
「そうだぞレッカ! お前の空気を読まない武力がなくともなんとかなる状況を作るのが第一なのだっ!」
「おかしい……ぜってぇおかしいぞ……この超天才いくらなんでも軽んじられすぎじゃね……? ていうかそうだよ!!!! 俺王国を救った報酬的なサムシングぜんぜん貰ってねえぞよく考えたら!!!! 畜生ちょっと引き返してゴネてくる!!!!」
「やめんか見苦しい。」
「ぐぇっ!!!!」
背後の賑やかなやりとりを聞き流しながら、フィンはそわそわと落ち着かない。
シャーリィがこちらの手を握って離さないのだ。
彼女が横にいるということはすなわち、いつその唇が寄せられてきて、湿った囁き声が吹き込まれてくるかわからないということだ。
なかなかに緊張を強いられる状況だった。
ふと、頬が体温の接近を感じた。
――ねえ、フィンくん。
「ひゃいっ!」
くすくすと笑いながら、彼女は優しく潤んだ目で見つめてくる。
――帝国って、剥き出しの空が広がってるって聞いたの。お日様の光が直接降り注ぐ世界だって。
「そうみたいでありますね。樹上庭園がずぅっと続いている感じだと思うのでありますっ」
――わたし、すっごく楽しみ。樹の幹や梢に遮られない空間がどこまでも続いてるなんて、きっととってもすてきなところよ。
フィンも、空自体は頻繁に見ていたが、いずれも汚染大気で濁った陰鬱な曇天ばかりであった。
だから彼女の気持ちは少しわかる。
そわそわに、わくわくが加わった。
「もしかしたら、地平線が見られるかもしれないでありますよっ」
――ちへいせん?
「何もない開けた場所では、地面と空の境界線がくっきりと見られるらしいのでありますっ。むかし図鑑で見たのでありますっ」
――ふしぎ。想像もつかない。
彼女の輝く瞳や、白磁の肌を意識するたびに、フィンの胸中には息を呑むような感動が沸き起こる。
この美しい人を、星々が煌めくような笑顔を、ぼくはきっと守り抜こう。
そして――いつの日か必ず、この人の声と魔力を取り戻そう。方法はまだ見当もつかないけど、ソーチャンどのならきっと相談に乗ってくれるはずだ。
そう、厳かな決意が心身を引き締めるのだ。
……さしあたっては、直射日光という名の暴威から。
「シャーリィお姉ちゃん、木の葉を透かさない日光はとても強くて、エルフの人には肌に毒かも知れないのであります」
目を瞬かせるシャーリィ。
「だから、斬伐霊光で日傘を作るのであります。シャーリィお姉ちゃんの美容はぼくが守るのでありますっ」
にぎりこぶしで力説する。
シャーリィは、目を細めてこちらを見ている。どこか、眩しいものを見ているような眼差しだった。
身を乗り出し、その顔が近づいてくる。
また何か囁きかけてくると思って、フィンは心機を固めて待ち受けた。
だから、頬に湿った感触が弾けたときも、一瞬何が起きたのかわからなかった。
ちゅっ、という音を残して、彼女のかすかな息遣いが遠ざかってゆく。
なにをされたのか、ようやく理解に及び、フィンは困った顔をした。
「あのぅ、シャーリィお姉ちゃん……前の時も言おうと思ってたでありますが……女の人が、男の人と気軽にそういうことをするのはあまり良くないと思うのであります……」
どうして? と言いたげに首を傾げるシャーリィ。
「だって、だって、あんまりそういうことするとコウノトリさんが赤ちゃんを運んできてしまうのであります。赤ちゃんのお世話は大変だと聞いたであります。不用意にそういうことをするのは無責任なのであります」
唇に人差し指を当てて、しばし思案する姫君。
やがて、考えがまとまったのか、にへら、と笑いながら再び顔が近づいてくる。
――これは、どっちだ!?
彼女が発言しようとしているのか、それとももうひとつの狙いがあるのか、この段階では判然としない。
――でも、ご両親とはキスしてたのよね?
「家族は大丈夫なのであります」
――どうして?
「ど、どうしてって、それは、よくわからないでありますけど、とにかくそういうルールなのでありますっ」
今度はフィンの正面にシャーリィが回り込んで来て、薄く艶やかな唇を近づけてくる。
「あわわ、ダメでありますよっ」
逃げようと体が動くも、手を繋がれているので逃げられない。力ずくで振りほどくなどフィンには決してできないことだったから。
せめて唇は避けようと精一杯俯くが、すると今度はおでこに濡れた感触が走った。
「あっ、もぉ~~!」
フィンは頬を膨らませる。
瞬間、耳元で囁き声。
――フィンくんのお父さんとお母さんの分まで、わたしがいっぱい、い~っぱいキスしちゃうねっ。
「ふぇぇっ」
フィンは困り果てた。シャーリィの言葉に耳を傾けないわけにはいかないが、その予備動作はキスと見分けがつかない。つまりフィンには自衛する手段がないのだ。もし赤ちゃんが運ばれてきてしまったら、それは要するにフィンとシャーリィの赤ちゃんということであり、誰がその子におっぱいをあげるのかと言えばシャーリィしかいないのであるが……
横目でシャーリィの体を確認し、眉間を揉み解す。
……出そうにないなぁ。困ったなぁ。
――今何か失礼なこと考えてない?
「考えてませんっ!!」
くすくすと声なき笑いがさざめいた。
そして、彼女は何かに気づいたのか、こちらの腕を引いてきた。
今度は何でありますか、と言いかけて、フィンもそれに気づく。
前方。
木々の狭間から、眩い光が差し込んでいた。まるで白いカーテンが斜めに張られているかのように、くっきりと形が浮かび上がっている。
――あそこで、森が、終わっている。
思わずシャーリィと視線を交わし、同時に駈け出した。
どきどきと、わくわくが、たまらない思いとなって足を動かす。
光はどんどん強くなり、まるで白く煌めく海の中に飛び込んだかのようであった。森特有の湿度と静寂が薄れ、不思議な匂いが漂ってくる。
やがて、二人は森から飛び出した。
眩い陽光に、最初は何も見えなかったけれど、目が徐々に順応していった。
「……わぁっ」
声が出る。
透けるような蒼穹。一面の群青の草原。風が吹き、波打つように陰影が移動してゆく。
息を呑むほど、信じられないほどに開けた眺め。小さな花が、ぽつぽつと灯火のように揺れている。
遠く大気に霞む彼方には、さまざまな形の湖が点在していた。茶色い四足歩行の獣が、水辺でたむろしている。
目を見開き、言葉を忘れて見入った。やがてシャーリィと目を合わせ、笑い合う。
二人の前には、白い道が伸びていた。オブスキュアとの交易をする商人たちが作り上げたものだろう。道の真ん中にも草が茂っている。
この道を進んだ先には、何が待ち受けているんだろう。
これから訪れる新たな暮らしと、数々の出会いの予感に、フィンの胸は期待と不安でいっぱいになった。
ぎゅっとシャーリィの手を握る。きっと何があるにせよ、今この手にある温もりだけは、変わらず輝いていることだろう。
森とは異なる植生の、微かに甘い薫風が吹き抜け、少年の心を洗っていった。
二人は後ろを振り返り、のんびり歩いてくる三人に手を振った。
「ソーチャンどの! レッカどの! リーネどの! 早く早く~!」
早く三人にもこの光景を見てほしくて、手を振りながらぴょんぴょんした。
「すっごく不思議でありますっ!」
フィン・インペトゥスの、新たな日々が始まった。
【王国編/完】
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