参議院の議席変遷で辿る戦後政治の「大きな流れ」〜55年体制の確立まで〜
少し時が経ちましたが、先の選挙の結果は事前に予測できた人はほぼいないような驚きの結果でした。遡れば公明党の連立離脱や中道改革連合結成も衝撃でした。
そこで、今回の記事では、近年の複雑怪奇な選挙や政治を俯瞰してみるために、戦後間もない時期で、かつ今と同様に政局が激動だった時期の、参議院の会派別の議席数の変遷をまとめてみました。
本当は衆議院でやりたかったのですが、信頼のできる資料が参議院の方が整理されていてわかりやすかったので、参議院をみていくことにします。政局や各勢力の立ち位置については、中公新書の『戦後日本政治史』を主に参考にしました。過去の歴史を知ることで、現在の政治の状況をよりよく理解することができ、未来の見通しもわずかながら見えてくるのではないでしょうか。
【参考文献】
•境家史郎『戦後日本政治史』(中公新書、2023年)
•門松秀樹・久保田哲・後藤新・福沢真一・半田英俊・丹羽文生・吉田龍太郎『日本政治史入門』(一藝社、2022年)
【参考資料】
【注意点】
※参議院の会派の議席数の変遷を見ていきます。政党の議席数とは異なるケースも多いです。会派名と政党名は合致しないこともあります。
※グラフは選挙結果ではなく、各選挙後の国会召集日時点での議席数です。
※政治の動きに触れる際には、衆議院に触れることもあります。
※参考資料の情報をもとに、私がグラフを作成しました。
※個別具体的な細かい政策ではなく、歴史(政治)の大きな流れを捉えるため、「政局」と「理念」に注目していきます。
主要勢力の紹介
●日本自由党(自由党系列)※グラフでは青。
→旧立憲政友会正統派の鳩山一郎を中心とした43名が結成。鳩山が1946年衆議院選挙後に公職追放に処されると吉田茂が党首になる。こののち、鳩山と吉田の抗争が政局の中心となる。鳩山は最終的に「第二保守党」側へ。
●日本社会党 ※グラフではオレンジ。社会党右派や民社党は黄色で表現した。
→1945年11月初頭、戦前の無産政党系議員が結集して西尾末広らが結成。当初は西尾末広ら右派議員が主導権を握っており、共産党とは距離をとる。連立政権崩壊後は左派が有力に。西尾ら右派が度々反発して、分裂と統一を繰り返す。
●日本進歩党(民主党系列、「第二保守党」)※グラフでは水色。
→日本自由党以外のその他大多数の保守系政治家(旧立憲政友会、旧立憲民政党)の現職議員(273名)が結成。大多数が戦前主流派の翼賛議員で構成されていたため公職追放令で大打撃を受けて、自由党系列を下回る。この系列の政党は「第二保守党」ともいわれる。流れとしては簡略化すると、進歩党→民主党→国民民主党→改進党→日本民主党。
●日本共産党 ※グラフでは赤。
→1922年結党。幹部が出獄し、表舞台での活動を開始。
前史
1946年4月に終戦後初の衆議院選挙が行われ、翌月には第一次吉田内閣が発足しました。そして、1947年3月に政界再編が起こります。進歩党が自由党を離れた芦田均を党首に迎えて、民主党となったのです。さらに、中道志向の中小政党が合併し、三木武夫を指導者とする国民協同党が誕生しました。こうして構図が定まると、1947年に4月20日参議院選挙、4月25日衆議院選挙が行われたのです。
その結果として、参議院は以下のようになりました。
第1回通常選挙(1947年4月20日)後
1947年 5/20 第1回国会(特別)時点

衆議院選挙とほぼ同時に行われていますが、衆議院と異なる大きな特徴としては、保守系の無所属系議員が形成した独立会派・緑風会が圧倒的な存在感を持っていることがあげられます。また、保守系2党は公職追放の影響もあって振るわず、社会党が大躍進しました。
社会党はこの時点では右派が主導権を握っているため、共産党と距離をとり、民主党(「第二保守党」系列)と中道の国民協同党に接近して、中道連立政権を目指しました。その結果、社会党、国民協同党、民主党の3党連立政権が誕生することになります。首班は片山哲社会党委員長、政権の要は社会党右派である西尾末広官房長官です。
しかし、中道連立政権を主導する片山・西尾は、連立を組む保守系の民主党と、社会党内の左派の板挟みとなってしまいます。その結果、右と左双方から攻撃され、中道連立政権は限界を迎えてしまいました。その後は連立与党の民主党•芦田内閣を経ますがこれも短命で終わってしまいます。
こうして中道連立政権が失敗に終わると、その後、自由党系列(民主自由党)の吉田茂へと政権が戻ります。吉田は1949年の衆院選で自由党系列の民主自由党が過半数を獲得したことで基盤を固め、第三次吉田内閣が発足しました。民主党は民主自由党との連立に踏み切りますが、党内は連立派と野党派で対立しており、最終的には、連立派が民主自由党と合流して自由党になり、芦田均ら野党派が国民協同党と合流して国民民主党が結成されることになります。この時代にも国民民主党があったのですね。そして、選挙の時が訪れます。
第2回通常選挙(1950年6月4日)後
1950年 7/12 第8回国会(臨時)時点

複雑な政界再編を経て、保守系政党としては、吉田茂の自由党系が優位に立つことが明確になりました。「第二保守党」の国民民主党は勢いがありません。やがて、国民民主党は解散して重光葵を総裁に改進党が結成されることになります。一方で、社会党は右派が主導した中道連立路線が失敗と評価されたことで、左派が主導するようになっています。
第三次吉田内閣での最大の争点は講和条約と日米安全保障条約の是非でした。『戦後日本政治史』と私が大学で受講した政治史の授業のノートを参考に各勢力の立場をまとめてみます。
「単独講和論」=講和条約賛成:米国など西側諸国とだけ早期に講和する
「全面講和論」=講和条約反対:ソ連など東側陣営とも同時講和すべき
【主要勢力の立場】
●自由党:講和条約賛成・安保条約賛成
●国民民主党(「第二保守党」):講和条約賛成・安保条約賛成
(芦田均の主導で全面講和論から転換した)
●社会党右派:講和条約賛成・安保条約反対
●社会党左派:講和条約反対・安保条約反対
➡これがきっかけで対立が決定的となり、社会党が右派と左派に分裂することになります。
また、「憲法問題」も争点となりました。
①改憲・自主防衛派:自由党反吉田グループ、「第二保守党」(=改進党)
②短期的には改憲は不要、日米安保基軸•軽武装:自由党(吉田茂)
③護憲・非武装中立派:左派社会党
➡自由党内反吉田グループは鳩山一郎・岸信介らが中心で、のちに、自由党は2つに分かれて戦うことになります(吉田自由党と鳩山自由党)。
なお、吉田率いる自由党が自由主義的経済政策を進めたのに対し、鳩山•岸•改進党ら「第二保守党」系は経済計画や社会保障を重視するという違いもありました。「第二保守党」は、安全保障では吉田茂より強硬な「再軍備」を主張しつつ、経済•社会政策面の立ち位置はむしろ社会党寄りだったのです。このような安全保障や経済面の対立は、自由党系と第二保守党系が合同して自民党が結成されてからも、内部の路線対立として今日まで影響を与えることになります。
このように、左派も右派も講和条約や憲法問題をめぐって、分裂傾向にあり、政局は複雑怪奇な状況が続いていました。そして選挙が訪れます。
第3回通常選挙(1953年4月24日)後
1953年 5/18 第16回国会(特別)時点

社会党は全体として伸長していますが、左右に分裂しています。左派と右派の比較だと、左派が優勢です。保守系を見ると、自由党が第一党ですが、のちに、自由党を離れた鳩山らが「第二保守党」の改進党と合流して、日本民主党を結成することになります。
その翌月に日本民主党は、左右の社会党と共に内閣不信任案を提出して、吉田内閣を総辞職に追い込みます。さらに、早期の解散総選挙実施を約束して、左右の社会党の同調を取り付けて反吉田連合を形成することに成功したため、首班指名で鳩山が指名されることになりました。こうして、1955年2月に総選挙が実施されることになったのです。
参議院では自由党が日本民主党を圧倒していますが、この1955年の衆議院選挙では、鳩山率いる民主党が「鳩山ブーム」で185議席を獲得して、112議席の自由党より上回りました。鳩山は吉田に対抗して、憲法改正による再軍備、日ソ国交回復による対米一辺倒からの脱却を掲げていました。
もっとも、この結果は、日本民主党にとっても決して大勝利ではありませんでした。両社会党が躍進し(ただし左派がより躍進)、ついに、再統一を果たしてしまったのです。
こうなると、保守系の2党は危機感を持ちます。自由党系と「第二保守党」系(民主党系)の共倒れが継続していては、合同した社会党に対抗できないからです。こうして、自由党と民主党の間で、合同の機運が高まりました。
1955年11月、自由党と民主党が合同して自由民主党が誕生しました。初代総裁は鳩山一郎、初代幹事長は岸信介と、旧民主党の色合いがやや強めのスタートでした。長年争ってきた自由党系と「第二保守党」系がついに合体したのです。こうして、保守と革新がそれぞれ分裂した多党による混戦状態は終了し、自民党と社会党が対峙する「55年体制」の構図が確立しました。
参議院でも、緑風会議員の多くが自民党に流入することになり、自民党と社会党の二強時代に突入していきます。それでは、第4回、第5回通常選挙の結果を見てみましょう。
第4回通常選挙(1956年7月8日)後
1956年 11/12 第25回国会(臨時)時点

この選挙では社会党が大躍進し、共産党と合わせて鳩山政権の改憲に反対する勢力が1/3を超えることになりました。
鳩山は念願の日ソ国交回復の実現のため日ソ共同宣言の調印を果たすと、退陣を表明しました。
その後、石橋湛山内閣を経て、1957年2月に憲法改正を宿願とする岸信介が首班の内閣が成立しても、改憲は困難な状況でした。
第5回通常選挙(1959年6月2日)後
1959年 6/22 第32回国会(臨時)時点

この選挙では、自民党が勝利しましたが、社会党は憲法改正阻止が可能な1/3を確保しています。
そして、翌年の1960年、「60年安保」として知られるように、保守と革新の衝突が頂点に達することになります。
ここで、社会党に動きがありました。安保改定が争点になったことで、社会党内で左右の対立が激化し、右派の西尾末広は衆院議員38名、参院議員16名を擁する民主社会党(のちに民社党)を結党することになったのです。こうして、社会党は両社会党統一から4年で、再び左右に分裂してしまいました。
民社党は革新政党を自称したものの、実際は中道的、あるいは右寄りな政党でした。中規模政党ではありますが、与党と野党第一党の間で一定の存在感を発揮しました。外交安全保障政策は自民党に近く、民間大企業の労働組合から支援を得ていた点で、現在の国民民主党に近い立ち位置です。外交安全保障や憲法問題を大きな要因とした野党の分裂の起源がここにあります。
こうして、この次以降の選挙では、民社党の存在や、それに加えて公明党の登場、共産党の躍進により、再び多党化が進んでいくことになります。
その後
その後しばらくの間、自民党と社会党の対立を軸にしながらも、民社党、公明党、共産党の3つの中規模政党を合わせた5党が主要勢力となります。その時代の議席数の変遷をグラフだけで駆け足で見ていきたいと思います。





社会党が徐々に弱体化して、多党化が進んでいるのがわかると思います。昭和61年(1986年)段階では一強多弱と言える状況にもなっています。実はこの次の参院選(1989年)では社会党が一気に盛り返すのですが。
中道の中規模政党である公明党・民社党(公民両党)としては、自民党につく「自公民路線」と、社会党につく「社公民路線」が選択肢としてありました。公明党が自民党と連立を組むのは、ずっと後の1999年のことで、それまではずっと中道の野党として、自民党と野党第一党の社会党の間で揺れていたのです。左派の野党第一党である社会党も、中道を目指す「社公民路線」と共産党と連携する「社共共闘路線」の間で揺れ動いていました。これは、社会党ポジションを立憲民主党、民社党ポジションを国民民主党に置き換えれば、現在の関係性にもかなり通じる構図となっていると思います。
まとめ
こうやって見ていくと、中道改革連合結成レベルのダイナミックな離合集散が頻繁に行われていたことがわかると思います。そして、歴史が韻を踏んでいるかのように、現在と似たような構図や流れを様々なところから見出すこともできます。また、自民党の抱える内部対立や、野党分裂の起源をこの時代に見出すこともできます。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
