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自由恋愛の原風景としての略奪

略奪愛とは、すでに配偶者や恋人がいる相手の関係を断ち切り、自らと恋愛関係を築く行為だとされている。そして現代では、これがしばしば糾弾の対象となる。しかし、そもそもその「悪」とされる根拠はどこにあるのだろうか。私は、この風潮に一石を投じたい。略奪愛は必ずしも「悪」ではなく、むしろ自由恋愛が本来有する流動性と選択の自由を回復させる契機ですらあると考える。

確かに、婚姻中の略奪は異なる。これは民法上の不貞行為に該当する可能性があり、婚姻という契約体系の外側から関係を撹乱することになりうる。契約違反を誘発する点で、これを礼賛することはできない。しかし、恋人関係は法的保護の対象ではなく、制度としての拘束力はない。語弊を恐れず言えば、恋愛関係は「所有権」ではなく「双方の意思の継続」によってのみ成立している。

ここで問題となるのは、「恋人がいる相手を好きになること自体は、倫理的に非難されるのか」という点である。私はそうは思わない。むしろ、人の感情はもっと不確かで、もっと流動的で、時として既存の関係を突き破る力を持っている。好きになってしまったという事実は、所有物の略取ではなく、感情の発火にすぎない。
人は「彼氏がいるから好きになるのをやめる」「彼女がいるから関心をなくす」といった機械のような制御はできない。恋愛は、合理性の外側に位置する営みだ。

略奪という概念をあらためて捉え直すべきだと考える。
それは、「相手の気持ちがいまどこに向いているか」という事実を露呈させる出来事でもある。恋人がいても、より深く惹かれる相手が現れれば、そちらへ舵を切ることがある。その判断を下すのは、略奪した側ではなく、当の本人である。つまり、略奪は誰かの恋人を奪い取る行為ではなく、「比較の結果、選び直した」という主体的意思の表現であり、自由恋愛の領域に属している。

もちろん、虚偽の情報や意図的な操作を行い、関係を壊すよう仕向ける行為は別問題だ。それは略奪ではなく、単なる不誠実である。しかし、まっすぐな恋情を伝え、その結果として相手の心が動くのなら、それを非難する理由はない。恋人がいるからという理由だけで感情を封じる方が、不自然ではないか。

恋愛は競争であってはならないと言われることがある。だが、恋愛の維持には不断の努力が必要なのも事実である。恋人という肩書によって安心し、磨き続けることを怠った結果として別の誰かに惹かれたのだとすれば、それは所有権の侵害ではなく、関係の更新である。むしろ、略奪が存在することで、恋愛関係は死蔵化せず、惰性に陥らず、互いが自らを磨き続ける要因になる側面すらある。

略奪という語は、どこか暴力性を帯びて響く。しかし、その実態はもっと静かで、もっと人間的なものだ。誰かに出会い、心が動き、今の気持ちと比べ、心惹かれる方へ歩み寄る。その連続こそが自由恋愛の原風景である。
略奪文化は恋愛を荒廃させるのではなく、むしろその流動性と選択の自由を活性化させる火種ではないか。固定化された独占の構造を、静かに、しかし確実に揺さぶる営みなのだ。

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