【宿題帳(自習用)】発想の転換

「僕らは空の高さを知らないニワトリのような生き物である。」
フレミングは、化膿菌の研究をしていて、たまたま混入した空中の青かびのコロニーには、化膿菌が生えなかったことからペニシリンを発見した。
【参考文献】
他のノーベル賞の受賞者も、セレンディピティによるものが多いが、ノーベル自身がセレンディピティのおかげでお金持ちになった。
ニトログリセリンが発明されていて、爆発力があることは知られていたが、安定した薬品ではなく、とても実用的なものではなかった。
ある日、珪藻土の上にこぼしたところ、安定して使えることが分かった。(異論あり)
【参考記事①】
古くはアルキメデスの「ユリイカ」があるし、キニーネの発見やニュートンのリンゴ、ジェンナーの種痘、水銀写真、合成ゴム、エックス線、経口避妊薬、サッカリン、そして、1990年代前半のバイアグラまで科学は発見の歴史である。
特に、ニュートンは、ケンブリッジ大学がペストで閉鎖されたため、リンカーシャー・ウールソープの故郷に帰っていた時に発見したのだった。(1678年に、最初の神経衰弱の発作に見舞われて、自宅に引きこもったとされる。)
失敗は成功の元。
お酒が清酒になるのは慶長時代で、それまで濁り酒だった。
慶長5年(1600年)のころ、摂津の鴻池の酒造家、山中勝庵の酒蔵で、ある男が叱られた事に対する鬱憤晴らしで、酒の中へ灰をほうり込んだところ、清らかに澄んだ酒となった。
カマドの灰は、アルカリ性で、濁りの成分が凝集されて沈殿し、その上澄みが清酒ということらしい。
【参考記事②】
日本たべもの総覧(32) 酒【さけ】 清酒【すみざけ・せいしゅ】
西鶴の「日本永代蔵」には、「江戸酒つくりはじめて一門さかゆるもあり」とあるが、鴻池は新開発の清酒を江戸に運んで財をなし、すでに元禄には日本一の富商となっていた。
「日本永代蔵 全訳注」(講談社学術文庫)井原西鶴(著)矢野公和/有働裕/染谷智幸(訳注)

大阪の両替商・鴻池の飼い犬のエサは、尾頭つきの「鯛の浜焼き」に、ウナギを卵焼きで巻いた「う巻き」という噺が、上方落語の「鴻池の犬」に出てくる。
方落語「鴻池の犬」
実際には、文人、芸術家らのパトロンとなり、元禄文化が花開いたと言われ、近世初期俳諧集「西鶴五百韻」は、西鶴が伊丹の鴻池本家で創作した成果の一つだった。
近世初期俳諧集「西鶴五百韻」
2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹さんは、東京工業大の助手時代、学生が行ったポリアセチレンと呼ばれる有機高分子の合成を体験するという単純な実験が失敗。
大学院生が触媒の濃度を、1000倍間違えたためにできた失敗作の薄膜が、最終的な大発見へと白川さんを導いた。
有機高分子に、導電性を持たせることができるかどうかという研究にも取り組んでいた白川さんは、偶然できた薄膜の性質を探る研究に乗り出した。
銀色の薄膜もできたが、それをどう生かすか。
それを大きく飛躍させたのが、同時受賞したアラン・ヒーガーとアラン・マクダイアミッドの両博士との出会いだったという。
また、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治さんの不斉合成も、別の実験をしていて、偶然、発見に至ったらしい。
寝耳に水の受賞だった田中耕一さんのレーザー脱離イオン化法も、タンパク質分子の質量を測るため、レーザーを当ててイオン化する手法を考えたが、専門家から、非常識と言われたそうだが、
「私は専門家ではない。
常識にがんじがらめになっていたら、今の研究成果はなかった」
と述べた。
さらに、
「溶媒にグリセリンを混ぜて一回失敗、それを、もったいないからと使って2回目の失敗。
結果を早く見たいと思い、乾く前にレーザーを当てて、実は3回も失敗した。
そのおかげでとんでもない大発見をした」
という。
ただし、これらの偶然は、少々くせものである。
偶然を招き寄せる力があったからだ。
ここから、田中耕一さんの最初の自伝は、「生涯最高の失敗」という名前になったそうだ。
「生涯最高の失敗」(朝日選書)田中耕一(著)

「機会は備えある人だけに恵む」(パスツール)
このような例は、枚挙にいとまがない。
古来、科学における歴史的な大発見や、独創的な論理的展開は、セレンディピティに負うところが多い。
セレンディピティを収穫するセンス。
天才的ひらめきは、確かに、革新をもたらす。
科学の発見などについては、例えば、次のような本を紹介しておく。
「セレンディピティ―思いがけない発見・発明のドラマ」(DOJIN文庫)ロバーツ,ロイストン・M.(著)安藤喬志(訳)

「創造的発見と偶然―科学におけるセレンディピティー」(科学のとびら)G. シャピロ(著)新関暢一(訳)」

「「ふと…(セレンディピティ)」の芸術工学」(神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)赤瀬川原平/佐々木正人/宮本隆司/柳田理科雄/カスパー シュワーベ/夏目房之介/藤田紘一郎/森政弘/鈴木成文(監修)杉浦康平(編)

セレンディピティそのもののメカニズムは、未だはっきりとは解明されていないが、大発見が起こるときの状況を定性的に整理し、概ね、次のような段階が必要であるといわれている。
①偶然その現象に出くわす。
②常識からはずれたその兆候に興味を示す。
③常識を疑い、そこに新たな仮説を立てる。
④その兆候を徹底的に分析し、新たな仮説を裏付ける。
⑤ある現象が起こらないことには、発見のしようがないので「偶然」の出来事は必要条件の一つである。
しかし、起こった出来事に気づかなかったり、常識の枠にとらわれてしまって、実験ミスとして片付けてしまっては、発見にはつながらない。
また、ここまで至ったとしても、新たな仮説を裏付けるに至らなければ、これもまた発見にはつながらない。
すなわち、「出会い」と「実践する行動力」が必要だと言われている。
失敗を怖がっていたら何もできないし、失敗しないことに固執する人間は、失敗を認めない人間になってしまう。
大切なのは、失敗しないことではなく、失敗からどれだけ学ぶか、ということである。
ちなみに「パウリ効果」というものがある。
物理学者ヴォルフガンク・パウリが実験が不得手でよく機材を壊したことから生まれた言葉で、機械装置・電子装置を問わず、ある人物がその装置に触れただけで、あるいは近くに寄っただけで不可解な壊れ方をした場合、その人物が装置にパウリ効果を及ぼしたと言う。
最もすごいのは、ゲッチンゲン大学の研究室での真空装置の爆発事故があった時だ。
爆発事故の現場近くにパウリはいなくて、パウリのせいにはできないはずなのに、後で調べると、事故のあった時、ゲッチンゲン駅に停車した電車の中にパウリがいたことが判明した!?
J・C・カリエールとG・ベシュテルが編集をした「珍説愚説辞典」というのがある。
「珍説愚説辞典」J.C.カリエール/G.ベシュテル(著)高遠弘美(訳)

奇書「万国奇人博覧館」がパワーアップされた本である。
「万国奇人博覧館」カリエール,J.‐C./ベシュテル,G.(著)守能信次(訳)

長くて的を得た副題は、
「世界史や個人の伝記にまつわる、わけのわからない言葉、間違い、誤綴、莫迦げた考え、大胆すぎる仮説を含む。それに加えてかなりの数の愚かしい言葉、ありとあらゆる種類の狂気や空想、空疎な駄弁もあり」
になっている。
ジャン・クロード・カリエールは、
「小間使いの日記」

「昼顔」

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」

「欲望のあいまいな対象」

など、ルイス・ブニュエル監督作品や、
「ブリキの太鼓」

「スワンの恋」

など、シュレンドルフ監督作品の脚本家としても知られる人である。
ベシュテルは、堅実な歴史学者で、「万国奇人博覧館」では、ブクテルと表記されていた。
彼らが14年の歳月をかけて古今の言説を集めた。
ところが、序文にあるように、「珍説」「愚説」とは何かという定義が難しい。
ガリレオの地動説は、発表当時、珍説愚説どころか邪説だったが、今では、天動説の方が珍説になっている。
時間とともに珍説が正説に、正説は、愚説にひっくり返る。
中には、珍説愚説でありながら、正論ということもある。
だからセレンディピティは、セイロン生まれなのだ。
「偶然からモノを見つけだす能力―「セレンディピティ」の活かし方」から、例えば、「日本人」に対してのフランスの立派な学識者たちによる、こっぴどい差別発言が読める。
百年ちょっと前まで、日本人は、単なる「好色な野性猿」に過ぎないし、野蛮で醜い獣の状態から進化することなどありえないと断言されていた。
H・G・ウェルズだって、1902年に書いた「空想」の中で「航空機がいつか、大量輸送手段として使われるようになることに、私は懐疑的である」と書いている。
未だに、イギリスでは、地球が平たいことを信じている学会があるというが、こうした説が、ある訳がないとは思うものの・・・・・・いつか正説になることがあるかもしれない。
編者は、フランスの小学校で珍説愚説の授業を義務づけるように提案しているが、確かに失敗から学ぶことも多いのである。
編者は、「流派を超えて、もう一度人間を考え直」そう、「精妙な部分だけでなく、頑迷な頭や古い部分もふくめた、全体としての人間を」という。
そしていう。
「『愚かしさ』はある種の希望であり、果物の種のように人間の中心に存在する」とはいえ、愚説は愚説かもしれない。
1980年に無謀な人体実験まがいの遺伝子治療を手がけ、批判を浴びた米国のマーチン・クライン博士は「科学研究は多数決により進歩したためしはない」
と言い放った。
生命倫理をめぐり開かれた米議会の小委員会だった。
この発言の現場にいた生命倫理学者の木村利人は、会場が緊張とどよめきにつつまれ、民主党のゴア委員長は、博士の人権意識を鋭く批判したと伝えている。
「どちらが正しいのか、歴史の審判を待ちたい、といいたいところだが、現代科学は一旦間違えれば絶望を招く淵を歩いている。」
ベストセラーになったM・S・ペックの「平気でうそをつく人たち」は、次のように書いている。
「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」(草思社文庫)ペック,M.スコッ(著)森英明(訳)

実際には、科学者もまた、私達、一般の人間と同様に道に迷うことが多い。
ところが私達には、科学者を、知的迷路のなかを導いてくれる「哲人王」として祭りあげるという強い性行がある。
私達は、知的怠惰から、科学的思考というものが、趣味や好みと同様に、そときの流行に左右されるものだ、ということを忘れ去っている。
科学の権威筋が現在口にしている意見は、最新のものというだけであって、けっして最終的、決定的なものではない。
養老孟司さんが、「まともな人」でオリジナリティについて書いている。
「まともな人 養老孟司の時評」(中公文庫)養老孟司(著)

「自慢ではないが、私にオリジナリティーはない。
そんなものがあったら原稿は売れない。
あまりにもオリジナルなものは、誰も理解しない可能性があるからである。
誰かが理解するようなもの、そんなものはオリジナリティーではないではないか。
(中略)
じつは、私はきわめてオリジナルな人たちを知っている。
そのほとんどは自分自身の理屈で、自分独自の感情に従い、個性的に行動した人たちである。
そういう人たちはたいてい精神科の病院で治療を受けている。
忘れてはいけないことは自説を信じ続けることである。
どんなに正しい学説であっても最初から受け入れられるとは限らないからである。
そして・・・・・・
セレンディピティは発想の転換である。
とはいっても、みんながみんなノーベル賞を取れる訳ではない。
A・H・マズローは特別な才能を持った人が発揮する創造性と、普通の人が日常生活の中で発揮する「自己実現としての創造性」を区別しながら、両者の間にある共通性や関連にも言及している。
つまり、大切なことは創造性をノーベル賞クラスのものとばかり考えないで、ふだんの生活から生まれるものだと思うことだ。
ノーベル賞の江崎玲於奈はトランジスターの研究でみんな不純物を取るのに一生懸命で、これが至難の業だったので、逆に不純物を入れて研究した。
その結果、「エザキ・ダイオード」というものが生まれたのである。」
因みに、江崎玲於奈さんは、「創造性が肝要といっても、・・・・・・安直な教育ガイドがあるわけではない」と前置きして、しかし、「ノーベル賞を取るために、してはいけない五つのこと」を挙げている(「個人人間の時代」読売新聞社)。
「個人人間の時代―ニューヨークから」江崎玲於奈(著)

①従来の行きがかりにとらわれ過ぎてはいけない。さもなければ飛躍の機会を見失う。
②他人の影響を受け過ぎてはいけない。
③無用なものはすべて捨てなければならない。
④闘うことを避けてはいけない。そのためには独立精神が必要である。
⑤安心感、満足感に浸ってはいけない(何か絶対なものを信じなければいけない)。
穐山真澄他「創造性研究ハンドブック」は、次のような生活態度・特性がある人が創造的な人だという。
「創造性研究ハンドブック」穐山貞登/堀洋道/古賀俊恵(著)

・関心の広さ
・好奇心の強さ
・好みの複雑さ
・あいまいさに対する寛容さ興奮しやすさ
・熱中しやすさ
・忍耐強さ
・強情さ
・勤勉さ
・機敏さ
野口悠紀雄さんは、「「超」発想法」の「発想はどのように行われるか」というまとめで、次のように書いている。
「「超」発想法」 (講談社文庫)野口悠紀雄(著)

①創造的な活動においては、あらゆる可能な組み合わせをいちいち比較考慮するのではなく、直感的な判断によって無視皆組み合わせを最初から排除している。この直感的判断を支配しているのは、「審美的感情」である。
②重要な科学的発見の多くは、偶然のきっかけで得られたように見える。
しかし、重要なのは、それに先だって、発見者が考え続けていたことだ。
これが潜在的な意識の活動を始動し、そこで発想が行われていたと考えられる。
したがって、発見のプロセスを、没頭期、潜伏期、啓示期に分けてとらえることができる。
科学にブレークスルーをもたらすときは、どこかにセレンディピティがあるように思う。
謙虚に自然界に教えを請う、自然現象や生物現象を、丹念に観察する姿勢が、セレンディピティを収得するセンスにつながるように思える。
既成概念の強い秀才は、謙虚さに欠けて、セレンディピティを見逃す可能性がある。
自分の仮説にしがみつくあまり、「あ、これは失敗した・・・・・・」と容易に方向を変えてしまって、宝物のような現象を見過ごしてしまうかもしれない。
不思議な現象の再現性を追求するしつこさが、もうひとつのセンスであろう。
信濃の南佐久郡に伝わる昔話に「ぼっこ食い娘」というのがある。
「日本の昔話29 信濃の昔話」稲田浩二(監修)岩瀬博/太田東雄/箱山貴太郎(編)

長者の娘に求婚しに行った男たちがみんな逃げ帰ってくる。
娘が棺桶から死体を取り出して食べているというのだ。
ところが、ある男がよく観察してみると、鬼のお面をかぶった娘が、お餅で作った人形を食べていることが分かった。
見破られた娘は、「この人こそ夫にふさわしい」といって、めでたく結婚する。
これは、山姥だと思い込んだ男たちへの教訓なのである。
アンリ・ポアンカレも、関数論の発見が他のことをしていた時、道路を渡ろうとしていたとか、馬車に乗ろうとしていた時に、インスピレーションが生まれたという。
モーツァルトは、ビリヤードをしている時に、「魔笛」のメロディが生まれたというし、
モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
モーツァルト:歌劇「魔笛」パ・パ・パ・・・[二重唱]
非常に敬虔なカトリックだった作曲家のハイドンは、世の中も、あらゆる才能も神の恩寵の結果であると信じ、作曲に行き詰ると、ロザリオを握って、聖母マリアへアヴェマリアを祈りながら部屋を中を行き来したそうです、
すると書ききれないほどのインスピレーションが頭の中に溢れかえったそうである。
ノーベル賞の湯川秀樹さんは、漢文学者の家庭に生まれ、兄弟とも文科系である。
尾崎紅葉も、夏目漱石も、日本の古典や外国の小説も読んだ。
旧制中学時代には、文学サークルに所属し、同人誌に童話を書いたこともある。
「文学的な「美」も理論物理学が私たちに見せてくれる「美」も、そんなに遠いものではないと、今でも思っている。
それどころか、暇ができたら、童話でも作りたいという気持ちは、今でも私の心の底に残っている。」(湯川秀樹『旅人』から引用)
「旅人 ある物理学者の回想」(角川ソフィア文庫)湯川秀樹(著)

湯川の話に、老子や荘子などの中国の古典がよく出てくるが、それは物理学の思考を邪魔するのではなく、助けとなっていたのである。
漢学の家の湯川を物理学へ導いたのは、長岡半太郎さんとの出会いだった。
「一流の科学者になりたかったら小説をたくさんお読みなさい」と諭されたのだった。
ノーベル化学賞を受賞した福井謙一さんは、小学生のころ、絵描きになりたいと思った時期があった。
旧制中学時代には、文学博士を夢見ていた。
旧制高校時代は、理系の学生だったのに、もっぱら勉強したのは文系の学問だったという。
「創造をめざすには、せまい勉強はためにならない、努めて広く学ぶことが大切」と福井は書いている。
空想力、想像力は、創造力とは、無縁ではない。
入沢康夫さんに「未確認飛行物体」という詩があり、「薬缶だって、/空を飛ばないとはかぎらない。」と歌っている。
【参考記事③】
「未確認飛行物体」の音読授業をデザインする
ヤカンだって空を飛んで、砂漠の花に水をやって戻ってくるかもしれないのだ。
日本のセレンディピティの同義語に「棚からぼた餅」があるが、似て非なるものである。
なにもしないで実りは得られない。
セレンディピティによる幸運は完全に偶然的に起こるものではなく、普通の幸運「ラッキー」とは違う。
偶然幸運を得るためには、本人の努力、経験や経験の中に意味を見出す能力が必要である。
繰り返すが、何もせずぼーっとしていたら偶然いいことが起こることは、棚からぼたもちであるが、それに対してセレンディピティでの幸運とは、懸命な努力の結果として得られる小さな偶然によってもたらされる幸運なのである。
宝くじが当たったり、1億円を拾ったりするのとは違うのである。
オリジナリティなんてものも、降って涌いてくるものではない。
天地開闢の時に、全て出尽くしたと考えれば楽だ。
私達が書いている言葉なんて、全部載っている本がある。
辞書という本だが、そんな風に諦めたところから始めて、小さな工夫を積み重ねて行こう。
ものの見方を変えていこう。
科学の発見だけでなく、凡人の私達にもセレンディピティはある。
誰の話であったか、説明だったかは忘れたが・・・・・・
・脱線の方をしっかりと覚えていたり、宴会よりも二次会の方がおかしかったり。
・間違って借りてしまった本が面白かったり。
・映画館の二本立て(古い!)で目当ての映画よりもB級映画の方が感動したり。
・レコード(古い!)を買ってB面(古い!)の方がよかったり。
・ミスタードーナッツへ行っておまけの方がよかったり。
・姉とつき合っていて妹の方と結婚してしまったり。
・落語の「猫の皿」のように猫よりも餌を食べている皿の方が高かったり。
もっとも「猫の皿」は行商人が、たまたま入った茶店の猫をふと見ると、その価値三百両という「高麗の梅鉢」で餌を食っていて、なんとか手に入れようとするお話なのだが、亭主を騙して猫と一緒に皿を買おうとすると、亭主は「皿はダメです。その皿があるとなぜか猫がよく売れるんです」と・・・・・・
つまり、確信犯だったというオチ。
原話は、江戸時代の戯作「大山道中膝栗毛」である。
【写真で遊ぶ!アイデアとタイトルで魅せる物撮り】




【関連記事】
【雑考】垂直思考と水平思考
https://note.com/bax36410/n/nc041319885eb
【雑考】対位法的思考
https://note.com/bax36410/n/nef8c398b72cb
【雑考】複雑系思考法
https://note.com/bax36410/n/neaab25206650
【宿題帳(自習用)】ふと目を向けた風景、しゃがんだ時に見えるもの。
https://note.com/bax36410/n/nad27a9739ea4
