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朝の10分間が起こした小さな奇跡

緑が丘中学校の校長がある年の3月に打ち出した、いささか突飛な方針だった。「朝の短学活前の10分間、担任の裁量で自由に活動してよし」。
教師たちの間には戸惑いが広がったが、私はこれを好機と捉えた。担任を受け持つ1年B組で、1学期の間は「朝読書」を取り入れたのだ。静寂の中でページをめくる音だけが響く教室。それはそれで、美しく穏やかな光景だった。

しかし、秋風が吹き始め、校庭の銀杏が色づく頃、私はふと、「静」の次は、「動」があってもいいんじゃないかと思い始めた。

「みんな、明日からは本じゃなくて、これをやるぞ」 私が掲げたのは、小さな箱に入ったカードの束。『五色百人一首』だ。

教室がざわついた。「百人一首? うわ、勉強くさい」「古文なんてわかんないし」 予想通りの反応に、私はニヤリと笑う。 「ただの百人一首じゃない。これはスポーツだ。しかも、たった20枚で決着がつく」

通常の百人一首は100枚ある。全部覚えるのは苦行だし、1ゲームに時間がかかりすぎる。だが、この『五色百人一首』は、札が色別に20枚ずつに分けられているのだ。ルールは簡単。1対1の対戦。お互いの陣地に10枚ずつ。相手の札を取れば、自分の札を送り込む。自分の陣地が空になれば勝ち。
20枚なら、ゲームはわずか数分。そして何より、「僕でも覚えられるかも」という予感を子供たちに抱かせる。

文化祭の余韻が残る10月末、1年B組の「朝の革命」は始まった。 最初は渋々だった男子生徒が、女子生徒に完敗した翌日、目の色を変えて登校してきた。「くそっ、あの札だけは絶対取る!」と、休み時間に教科書ではなく百人一首の暗記表を睨みつけている。 男女の体力差は関係ない。あるのは、努力した量と、一瞬の集中力のみ。

教室の空気は一変した。 「『あきの』……ハイッ!」 パァン! と乾いた音が教室に響く。 わずか3分間の攻防。朝のけだるい空気は消し飛び、そこには真剣勝負の熱気が渦巻くようになった。

年が明け、1月。校内には伝統行事である「校内百人一首大会」が迫っていた。 各クラスから3人1組のチーム2組と、個人戦の代表2名を選出する。しかもこの大会、学年別の部門はない。1年生から3年生までが入り混じる、無差別級トーナメントだ。

私は少し不安だった。 クラスで取り組んだのは、五色のうちの「青」と「黄色」のみ。全100枚のうち、実質40枚しか触れていないのだ。 「相手が3年生だと、さすがに厳しいかな……」 職員室で組合せ表を見ながら、私は弱気なことを考えていた。だが、それは生徒たちを甘く見すぎていたと、すぐに思い知らされることになる。

大会当日、体育館は異様な緊張感に包まれていた。 1年B組の代表チームが対峙したのは、優勝候補の3年生チーム。体格も知識も上の先輩たちだ。 読み手が、上の句を読み上げる。 「『ひさかたの』……」

その瞬間だった。 「ハイッ!」 電光石火。B組の代表生徒の手が、3年生の陣地にある札を弾き飛ばしていた。 下の句が読まれるずっと前、最初の数文字で勝負が決まったのだ。 「え……? なんでそんなに速いの?」 3年生が呆然と呟く。

私は震えた。あいつら、冬休みの間に残りの60枚も全部覚えてきやがったのか。 教えたのは「楽しさ」だけだった。けれど、彼らは勝手に「強さ」を求めて走り出していたのだ。 五色百人一首という入り口が、彼らの中に眠っていた負けず嫌いの魂に火をつけた。たった20枚から始まった自信は、いつしか100枚すべてを制する武器に変わっていた。

「すごいぞ、B組!」 ギャラリーの1年生たちから歓声が上がる。 快進撃は止まらなかった。団体戦も、個人戦も、上級生を次々となぎ倒していく1年生たち。その姿は、小さな革命軍のようだった。 彼らの手にかかれば、百人一首は古臭い勉強ではなく、最高にスリリングなeスポーツのような輝きを放っていた。

そして、決勝戦。 静まり返る体育館の中央、畳の上に座っていたのは、1年B組の生徒同士だった。 団体戦も、個人戦も、決勝のカードは「B組 vs B組」。 完全優勝。 もはや、そこに私の指導など関係なかった。彼らは自分たちの力で、朝のたった10分間を、人生で忘れられない栄光の時間へと変えてしまったのだ。

表彰式で並ぶ彼らの誇らしげな顔を見ながら、私は思った。 子供たちの可能性に、限界なんて色をつけてはいけないのだと。


この物語は実話をもとにしたフィクションです。
※登場する人物名、学校名などの団体名はすべて仮名です。

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