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ゆっくりと変わっていくんだ、僕たちは #シロクマ文芸部

こちらの企画に参加させていただきます。

「ゆっくりと」をテーマに、小さな変化の物語を書きました。
静かなコメディとして読んでいただけたら嬉しいです。





「ゆっくりとやりましょう。小心者ってのは、すぐには克服できません」
 講師の黒崎はそう言ってから、安心させるようにゆっくりとうなずいた。

『小心者克服講座』と書かれた公民館の一室に、折りたたみ椅子が円形に並べられている。
 参加者は七人。全員、椅子の端に浅く腰掛けていた。背もたれを使っている者は一人もいない。

 黒崎はその様子を見て、満足そうにうなずいた。
「いいですね。実にいい雰囲気です。みなさん、すでに素質があります」
「素質?」
 小さくつぶやく声があった。
 黒崎は穏やかに説明した。
「小心者というのはですね、才能なんです。慎重で、空気を読み、最悪の事態を先回りして想像できる。普通の人にはなかなかできません」

 端に座っていた会社員風の男が、おそるおそる手を挙げた。
「あの……それは、克服しなくてもいいってことですか?」
 黒崎は少し考えた。
「いえ、克服はします」
 それから声を少し落とした。
「ただし、慎重に」

 何人かが深くうなずいた。

 黒崎はホワイトボードに「第一回」と書いた。
 書いてから二歩下がって眺める。
「……少し大きいですかね」
 黒崎はチョークを取り、半分ほど消した。
「いや、やりなおしましょう」

 もう一度書く。

 第一回。

 また下がって見る。
「……」

 黒崎は小さく「かな」と付け足した。

 第一回かな。

 それを見て、参加者の何人かが安心したようにうなずいた。
 黒崎はチョークを置き、咳払いをした。
「では、最初の訓練に入ります」

 少し間を置く。

「人に見られながら、深呼吸をする練習です」
 円の空気が、わずかに固くなった。
 黒崎は微笑んだ。

「大丈夫です。私も苦手です」


***


 講座は毎週水曜日に開かれた。
 最初の訓練は、本当に深呼吸だけだった。
 円になり、一人ずつ立つ。
 そして、人に見られながら深呼吸をする。

 それだけだ。

 最初の週は、誰もがぎこちなかった。
 二週目には、呼吸が少し深くなった。
 三週目には、終わると拍手が出るようになった。

 黒崎はホワイトボードに

 深呼吸
 成功


 と書いた。

 黒崎は少し考えて、「成功」を消した。
「……成功という言い方は、ちょっとプレッシャーですかね」

 できた

 と書き直したが、それもすぐに消した。

 結局、   

 深呼吸

 だけ残った。


***


 四週目。
 黒崎はホワイトボードに書いた。

 第二訓練
 名前をはっきり言う


 書いてから、また消した。
「はっきり」を消す。
 少し考える。

「……できれば」と書く。

 第二訓練
 名前をできれば言う


 参加者の何人かがうなずいた。
 順番に立ち、名前を言う。
 最初は声が小さかった。
 だが回るうちに、少しずつ大きくなった。
 最後の人は、はっきり言った。

「田中です」

 小さな拍手が起きた。
 黒崎も拍手した。
「素晴らしいですね」
 会社員風の男が手を挙げた。
「先生」
「はい」
「ちょっとよくわからないです」

 黒崎は少し驚いた。

「どのあたりがですか?」
 男は言った。
「結局、この訓練って何に効くんですか」

 黒崎は一瞬考えた。

「その……心の準備といいますか。嫌なことは嫌だと言えるようになるための、一歩です」
 すると女性が言った。
「先生」
 黒崎は振り向いた。
「はい」
「先生、声がちょっと小さいです」

 黒崎は一瞬固まった。

「……あ、すみません」


***


 その次の週。

 参加者たちはずいぶん自然に座っていた。
 背もたれを使っている人もいる。
 円になると、誰からともなく話し始めた。

「この前、会社で意見言えましたよ」
「私も店員さんに注文言い直しました」
「断れなかった飲み会、断りました」

 黒崎は何度も頷いた。
「それは素晴らしいですね」
 会社員風の男が言った。
「先生」
「はい」
「今日の課題は何ですか」

 黒崎はホワイトボードの前に立った。
 チョークを持つ。
 少し考える。
 書く。

 最後の訓練

 黒崎はそれを見て、すぐ消した。
「最後」はプレッシャーかもしれない。
 少し考えて書き直す。

 次の訓練

 男が言った。
「先生、せっかくなんで」
「はい」
「先生も一緒に訓練しませんか?」

 女性が言った。
「そうですよ、一緒にやりましょう」

 七人が黒崎を見た。

 一歩前に出る。
 黒崎は咳払いをした。
「えー」

 七人が見ている。

 少し間を置く。

「私も、この講座に参加したほうがいいかもしれませんね」
 観念したように黒崎は言った。
「席、空いてますよ」
 女性が隣りの席を促す。

 円の椅子に歩いていく。
 そして空いている席に座った。

 会社員風の男が言った。
「じゃあ先生」
 黒崎は顔を上げた。
「はい」

「深呼吸からいきましょう」

 黒崎はゆっくり息を吸った。

 七人が見ている。

 黒崎は息を吐いた。
 肩の力が少し抜けた。

 一人が拍手した。
 やがて全員が拍手した。

 その拍手が鳴り止まないうちに、会社員風の男が、以前とは見違えるような張りのある声で言った。

「先生!」
「はい」
「この講座、今日で終わりなんて、もったいないですよ」

 黒崎は少し面食らった。

「ええ、まあ……一応、全五回の予定でしたから」
「延長しましょう」
 女性が、背もたれに深く寄りかかったまま、堂々と言い放った。

 七人の視線が、一斉に黒崎に注がれた。

 以前の、おどおどとした視線ではない。
 獲物を逃さない、自信に満ちた鋭い視線だ。

「あ、ええと……それは、公民館の予約状況とか、私のスケジュールの確認も……」

 黒崎の声が、みるみる小さくなっていく。

「先生」
 男が身を乗り出した。
「嫌なことは嫌だと、そう教えたのは先生ですよね?」
「はい、それはそうですが……」

「じゃあ、先生が嫌じゃないなら、やりましょう」
「やりましょう!」
「先生ならできます!」

 七人の「元・小心者」たちの声が、室内で力強く響き渡った。

 黒崎は、ホワイトボードに残された「次の訓練」という弱々しい文字を見上げた。
 彼は震える手で手帳を取り出し、真っ白な来週のページを開く。
 黒崎は、手帳をそっと閉じた。
 ほんの少しだけ、静かになった気がした。

 断りたい。

 しかし、あまりにも立派に成長した生徒たちを前に、彼はどうしても「NO」と言い出せなかった。

「……わかりました。来週、やりましょう」

 黒崎が蚊の鳴くような声で答えると、この日一番の、割れんばかりの拍手が起きた。

 黒崎は深く、本日二度目の深呼吸をした。

(了)


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