【連載小説】記憶の星歴盤 第二話「夢に現れた獣」
深夜の観測中、輝朗の夢に黒い影が現れる。
それは人の記憶を喰らう獣――夢と現の境界が静かに崩れ始めていた。
戦地から戻り、終戦の報が届いてから暫く時が過ぎても、輝朗は夜ごとに浅い眠りの中を彷徨っていた。
本来なら静寂に包まれるはずの夜が、彼にとっては断末魔の叫びが渦巻く戦場へと変わっていた。
名も顔も忘れがたい。
散っていった戦友たちの声、目の前で血に染まった体。
異国に置き去りにされた者たちが影となって夜ごとに現れ、助けを求めてくる。
その背後には、日を追うごとに大きくなる黒い影が渦を巻いていた。
爆撃に逃げ惑う仲間たちの後ろで、黒い焔のようにゆらめきながら、ずっと様子をうかがっていた。
この影には、盤が関わっていた。
帰りの船の中、輝朗は老翁から託された不思議な盤を眺めていた。
誰に教わったわけでもない。ただ船室で文字を追い、盤を見つめ続けるうちに、彼の中へ古の呪式の意味がじわりと染み込んでいった。
気づけば、輝朗はその秘められた術を「理解してしまっていた」のである。
その夜もまた、輝朗は眠りに落ちることを恐れていた。
疲れ切った身体を投げ出すように、研究室のソファに身を預ける。
意識が深く沈み、悪夢へと引きずり込まれていたことにさえ、気づかなかった。
「輝朗……。輝朗! 大丈夫か?」
肩をそっと揺さぶられて目を覚ますと、そこには敦史|《あつし》がいた。
心配そうな眼差しのまま、ぬるくなった水を差し出している。
「だいぶうなされていたぞ」
「……ああ、大丈夫だ。少し、夢を見ていただけだ」
喉を潤しながら、ようやく呼吸が整った気がした。
「今は無理をするな。できることは俺に任せて、少し休暇を取ったらどうだ?」
敦史の言葉には、確かな温もりが込められていた。
だが輝朗の胸の奥には、夢の余韻が重く沈んでいた。
あの老翁が語った「獣」の予言――それが、ただの比喩などではないという確信が、じわじわと心を侵食していた。
あれは、ただの象徴などではない。
夢に現れる、あの黒い影。
あれこそが「獣」なのではないか。
数日後。
秋の夜更けの風は、頬を刺すように冷たかった。
ふと目を覚ました輝朗は、部屋の窓辺に立ち、星空を仰いでいた。
無数の光が穏やかに瞬いている。だがその美しさの奥には、何か得体の知れない気配が潜んでいるように感じられた。
布団に横になると、彼の意識は珍しく深い眠りの闇へと沈んでいった。
……次の瞬間、彼は夜の吹雪に閉ざされた森に立っていた。
身を切るような寒風が吹きすさび、足元は雪に埋もれている。
吐く息は白く、音すらも飲み込むような沈黙が辺りを包んでいた。
そのときだった。
木々の闇の奥から、巨大な影が音もなく現れた。
それは虎のような形をしていたが、実体はなかった。
黒い霧のように輪郭が揺れ、異様に赤く光る双眸だけが、闇を裂くように輝いていた。
「……夢を喰らう獣、か」
ぽつりと呟いた瞬間、低く重い声が頭の奥を揺さぶった。
――夢に現れ、記憶を喰らう――
「記憶……? それは、何の記憶だ?」
――人が、他者を想う記憶だ――
意味を咀嚼する暇もなく、輝朗の頭の中に怒涛の映像が流れ込んできた。
戦場で励まし合った仲間。戦友の名。
そして別れの時。遠方で知らせを受けた恋人の訃報。
ひとつ、またひとつ。
確かにあったはずの名前と姿を宿した記憶が、闇に溶けるように消えていく。
「やめろ! なぜそんなことを……」
――支配だ。お前が私に記憶を渡す役になれば、この世の支配者になれる。私は力を増し続ける。ただそれだけだ――
冷気とともに、獣の姿は霧の中へと消えていった。
「――ッ!」
息を呑む音が、静寂に落ちた。
輝朗は上体を跳ね起こした。胸を叩く鼓動が痛いほどに速く、額には冷たい汗が幾筋も流れていた。
見慣れた寝室の天井。
窓を打つ晩秋の風の音。
すべてが現実のはずなのに、どこか薄い膜を隔てた世界にいるようで、感覚が遠のいていく。
「これは……ただの夢じゃない」
震える声が、寝室の闇に溶けていった。
窓の外で降り出した雨が吹き荒れるたび、獣の低い囁きが耳奥でこだまする。
静かに、確かに、存在していた。
いつしか輝朗は、自分が「役」を引き受けつつあるのを悟りはじめていた。
抗えば抗うほど、運命に絡め取られていく――その感覚に、凍えるほどの恐怖が芽生えていた。
敦史に話すべきか。
脳裏に親友の顔が浮かぶたび、言葉は喉に張り付いたまま動かない。
告げれば、彼をも危険に巻き込む。
だが黙っていれば、この影はさらに自分を深く侵すだろう。
友情に縋りたい思いと、暗い秘密を抱え込まねばならない恐怖。
その狭間で揺れる胸中は、裂ける寸前だった。
――奪え。人々の記憶を。支配者となれ。渡せ、多くの記憶を――
思わず耳を塞いだ瞬間、激しい吐き気とともに膝を折った。
冷たい床に手を突き、荒い息を繰り返す。
抗おうとするほど、獣の黒い闇が迫る。
そのとき、不意に扉の向こうから敦史の足音が近づいてきた。
「輝朗、いるか?」
輝朗は唇を噛みしめた。
――開けてはならない。
この扉を開けば、彼をもこの闇に引き込んでしまう。
敦史の足音が遠のいていくのを、彼はただ息を殺して待った。
静寂に戻った室内で、低く湿った囁きが忍び込む。
――渡せ。多くの記憶を。抗えば、奴さえ消してやる――
その言葉と同時に、机の上の紙片から文字がひとつずつ掠れ落ちていく幻を見た。
最後に浮かんだのは――敦史の名。
「やめろ……!」
守るべき存在を思うほど、獣の囁きは深く纏わりつき、現実に濃い闇を落とし始めていた。
「条件はただ一つだ。敦史だけは守れ!」
――器であるお前が望まぬことは出来ぬ。だが、その望みもやがて変わるかもしれぬ――
脳裏に響く不気味な声が消え去っても、なお部屋には重苦しい気配が漂っていた。
「輝朗……大丈夫か?」
「大丈夫だ! すまない。今行く」
ふと机に目をやった輝朗は、思わず息を呑んだ。
星暦盤の裏に、細い赤い亀裂が走っていた。
灯火に照らされ、まるで血管のようにじわじわと光を放ち、盤そのものが生きているかのように脈打っている。
冷や汗が背筋を伝う。
――自分はすでに、獣と結びついてしまった。
その確信が胸を凍らせる一方で、奇妙な熱を、静かに灯していた。
→ 第三話「雪割草の映す未来」に続く
※次回からの更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。
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