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【連載小説】記憶の星暦盤 第四話「静寂の代償」

「悪夢を消してくれる星読みの先生」の噂が村に広がる。
救いを求める人々の笑顔の裏で、失われていく“記憶”に敦史あつしは気づき始める。



噂というものは、山あいの村においては雪のように静かで、しかし一夜の吹雪で谷を覆うほどに広がる。

――星を読む先生に頼めば、悪夢を消してくれるらしい。

夜ごと吹雪に閉ざされる谷で、その噂は暖炉の火にくべられた薪のように、ぱちぱちと音を立て、あっという間に村人の間を駆け巡った。

最初に天文台の扉を叩いたのは、泣きはらした娘だった。
恋に破れ、涙に濡れたまま眠れぬ夜を過ごしていた彼女は、盤の前に座らされると、力なく目を閉じた。

翌朝、娘は嘘のように晴れやかな顔をして天文台を訪れた。
しかし、その唇から恋人の名は二度とこぼれなかった。誰と別れ、誰を愛していたのか――その記憶ごと霧散していた。

次に現れたのは、飢饉の責めを一身に負い、家族を餓死させてしまった老人だった。
悔恨に押し潰され、己の胸を掻きむしりながら生きてきた老人は、盤に手を置き、後悔を述べた。

その夜も泣きながら眠りに落ちたが、翌朝には穏やかな笑顔を浮かべていた。
だがその瞳は空ろで、亡き娘の名を、二度と発することはなかった。

さらに、産後の不安に苛まれる若い母も訪ねてきた。
夜ごと赤子の泣き声に怯え、眠れぬ日々を送っていた彼女もまた、盤に触れた翌朝には柔らかな笑みを浮かべて立ち上がった。

しかし、その鼻は、自らの子と他人の子の匂いを区別できなくなっていた。

人々の心が軽くなるたびに、記憶は薄皮を一枚ずつ剥ぐように削がれていった。
救いの影には、確実に「失われるもの」があった。


谷に広がった噂は、救済と恐怖の両方を孕みながら、静かに村を揺さぶっていった。

天文台を訪れる誰もが同じだった。

「もう心配はいりません。悪夢は獣が喰らい、つらい記憶ごと消してくれるでしょう」

輝朗てるあきの低い声が観測室に響くと、相談者の呼吸は落ち着き、涙に濡れた頬はすっと乾いていった。
そして翌朝になると、誰もが笑顔で礼を述べ、軽やかに去っていった。

だが敦史は気づいた。
――彼らの口から、親しい人の名がひとつも出なくなったことに。

人の記憶がなければ、共に生き抜いた証や思い出の情景そのものも、記憶からだんだんと剥がれ落ちていくのだろう。
記憶を失った人たちは、言葉数が少なくなっていった。

夕暮れ時の観測室で、輝朗はひとり、失踪した野口の言葉を思い出していた。


この地に来て間もない夜だった。
輝朗が記録を綴っていると、野口が足音も荒く入ってきた。

「やはりな! お前はこの呪具を扱えるのだな、相馬」

すぐ隣で、野口が輝朗の盤を手にしていた。
焼けただれた頬に赤い燈火が影のように揺れている。

「俺もこの盤を見た。上海で手に入れたのだろう? 水沢は知っているのか」

「……いいえ。彼は何も知りません」

輝朗は感情を押し殺し、冷ややかに答えた。

その答えに、野口の口元が嬉しそうに歪む。

「俺も上海でこの盤の話を聞いた時は、実際に見るまでは冗談かと思ったさ。人の記憶を巻き取る呪具なんて、あるわけないと思った。しかし、実際に俺は、人の記憶を垣間見たんだ」

「……そうでしたか」

「星の配列を読める者は、この盤を操作できるというのは真実のようだな」

動じない輝朗に、野口は嗤うように言った。

「そうだ。水沢には俺から伝えてやろう。こんな呪具などを持つお前を、正義感の強いあいつはどう思うだろう?」

「構いません。それに、望むなら、これは差し上げます」

輝朗は机の上に盤を押しやり、無表情に告げた。
だがその眼差しには、相手を突き放す冷たい光が宿っていた。

野口は挑発に乗り、貪欲に盤へ手を伸ばした。

「この盤を扱うには、呪式が必要です。野口さん……貴方なら、裏の文字を読めば簡単にわかるでしょう」

「これが……この文字が盤を動かす呪式か。……なんだ。星の配列と、文字を組み合わせれば良いだけじゃないか」

「……そのようです」

全く動じない輝朗に、野口は苛立った。

「やはり俺は選ばれし者だ! 相馬。お前はこの呪式を俺に伝えるために盤を渡されただけだ。お前には、到底扱えまい」

野口が呪式をつぶやき、指先で刻印をなぞった瞬間、燈火が揺れ、赤い紋様が脈打った。
一瞬、野口の顔から血の気が引き、瞳孔が震えた。

「ここはどこだ?……そこにいる黒い影は何だ……!」

声は掠れ、観測室の空気が一気に凍りついた。

輝朗は静かに立ち上がり、背を向け、冷たく呟いた。

「その盤と共にここから出ていけ。二度とこの場に顔を出すな」

野口は盤を胸に抱いたまま悲鳴を上げ、

「来るな! 近づくな!」

と言い残し、闇へ逃げ込むように去っていった。

それからの彼は「黒い影がいる」と譫言のように繰り返すばかりとなり、ある朝、彼の寝台に盤だけを残し、姿を消した。


夜の帳が下り、天文台の窓硝子が霜で白く曇っていた。
灯を落とした観測室の奥で、輝朗はひとり、盤の上に指を滑らせていた。

その指先は迷子のように刻印をなぞり、触れるたびに血のような赤光が淡く瞬いた。

野口が敦史にこの盤のことをどこまで話したかは分からない。
だが、もうこの呪いの渦に彼を巻き込むわけにはいかなかった。

野口がいなくなった今、敦史を逃がしたい。
自分に失望して東京へ戻ってくれること――それだけが、彼を守る唯一の方法だった。

その時、扉が軋む音がして、敦史が入ってきた。手には資料の束。
だが、その顔には言いようのない怒りが宿っていた。

「輝朗、また、それを使っているのか」

「観測に必要だ。お前には関係のないことだ」

「関係ない? 野口さんが消えたのを、まるで何事もなかったみたいに言うのか!」

敦史の声が、冷えた室内に響いた。

それでも輝朗は顔を上げず、盤の上に視線を落としたまま、静かに言葉を返す。

「野口さんは、自ら望んで呼んだんだ。あの影を。俺たちにはどうすることもできない。柏木教授に黒い影を見せたのも、恐らく野口さんだ」

「じゃあ、お前は? 輝朗。野口さんと同じ道を辿る気か?」

沈黙が、まるで二人の心臓を射貫くように、空間を支配した。

その一瞬、盤の縁がかすかに脈打ち、赤い光が敦史の頬を照らした。
まるで盤が、輝朗の代わりに呼吸しているかのようだった。

輝朗は息を整え、低く呟いた。

「……東京に戻れ、敦史。お前はここにいてはいけない」

「何を言ってる。俺たちは――」

「俺は、もうお前と同じやり方で人を救えない」

その言葉に、敦史は一瞬、息を呑んだ。
目の前の親友は、どこか遠くを見ている。手の中の盤を通じて、誰か別の存在と会話しているかのように。

「帰れ、敦史。……俺のそばから離れるんだ」

振り絞るような声。
敦史の胸の奥に、長い裂け目が走った。――友情が、崩れ落ちる音がした。

長い沈黙の後、敦史が口を開いた。

「輝朗。覚えておいてくれ。俺は、何があっても輝朗の手を離さない」

敦史の声は静かだったが、強い決意が込められていた。

その夜、天文台の外では雪が降り続いていた。
しかし室内の燈火は、誰もいないのに消えなかった。

盤の表面が微かに光を放ち、呼吸していた。

敦史は、その後も輝朗の相談に立ち会い、一部始終を黙って見守った。
親友が人を救おうとしていることは理解できる。戦火の地獄を知るからこそ、他人に同じ苦しみを背負わせたくないのだろう。

だが、救済とは本当に記憶を奪うことなのか。
忘却とは、これまで積み重ねてきた証をも切り落とすことではないのか。

冷たい疑念が敦史の胸に巣を作った。
それでも彼は沈黙した。親友を信じたいという思いだけが、彼を支えていた。

やがて敦史は、輝朗と共に相談に訪れる人々の声に耳を傾けるようになった。
皆が声を揃えて言った。

「先生のおかげで楽になった」と――。

確かに彼らは笑顔だった。
だがその笑顔は、薄い和紙に描かれた絵のように、指で触れれば破れてしまいそうな危うさを帯びていた。

「輝朗、これは救いじゃない。人の魂を空にしているだけじゃないか」

敦史の声は震えていた。

「空になれば人は従順になる。怨みも争いも消える。理想の社会の始まりだと思わないか?」

輝朗の言葉は静かに落ちた。
その指先は盤の刻みを撫で、燈火に照らされた線刻が微かに赤く揺らめいた。

「記憶を取り去り、平和を築くというのなら、それは心を空にした墓場と変わらない」

敦史の反駁に、輝朗は目を伏せて囁いた。

「墓場ほど静謐で、美しい場所はないだろう?」

その瞬間、盤の裏に走る赤い亀裂が脈打つように光り、敦史の心臓を冷たく掴んだ。


第五話「友情に刻まれる影」に続く
※次回の更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。

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🔖 本作は小説家になろう「秋の文芸展2025」(テーマ:友情)に参加しています。
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