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【後半ネタバレあり】『ひつじ探偵団』感想:キリスト教とひつじ、あとぬいぐるみ売れ

映画『ひつじ探偵団』を観てきた。タイトルと予告からはもっとドタバタ動物コメディを想像していた。ひつじかわいいし。メェ~探偵だし。ところが実際観てみると意外にもシリアスで、ちゃんとミステリしているウェルメイドな良質娯楽映画で驚いた。

あらすじ

舞台はイギリスの田舎町。ひつじたちは、ひつじ飼いのジョージのもとで幸せに暮らしていた。ところがある日、ジョージが突然殺されてしまう。普段は辛いことを忘れて生きているひつじたちだが、群れの中で一番賢いリリーを中心に、ジョージの死の真相を追うことに。手がかりを追ううちに、ジョージには多額の遺産があったことがわかり、怪しい娘も登場する。ひつじたちは犯人を見つけることができるのか?

かわいいけど、かわいいだけじゃないひつじの社会


メイン登場ひつじはこの三匹

もちろん予告から期待されるとおりひつじはかわいい。だが、意外な犯人もいるし、伏線もちゃんとしている。もっと何も考えていないひつじが事件をドタバタに引っ掻き回すコメディかと思っていたらちゃんと立派にミステリをやっているのだ。ミステリを読み慣れている観客なら消去法的に犯人を当てられるかもしれない。だが一般的な娯楽作品としては、十分に楽しめる完成度だと思う。

そして良かったのが、この映画ではひつじの社会が描かれていることだ。

ひつじたちはただのかわいいマスコットではなく、群れには群れのルールがあり、理不尽な差別もある。傷ついた一匹狼(ひつじだけど)もいれば、誰にも共有できない痛みを抱えたものもいる。共同体の物語としてもよくできているのだ。主人の死という傷を受けた共同体がいかにして再生するか?というのもミステリに並ぶテーマと言えるだろう。

なお吹き替えで観たのだが、メインどころのひつじを井上喜久子、チョー、千葉繁といったベテラン勢が演じており、そこも楽しめた。このレベルのベテラン勢がずっと出ずっぱりで会話劇をやっているのは貴重で、そこをメインに楽しむファンもいるかもしれない。

原作小説があるようだが、かなり映画化で変更されているらしい。私は未読だが、原作ではひつじが草を食いまくるとかなんとか。合わせて読んでみたいものである。

忘れるひつじが、忘れないことを選ぶ

この映画で面白かったのが、ひつじは「イヤなこと、辛いことを忘れて生きていく生き物」として描かれていることだ。ひつじは三つ数えれば何でも忘れることができる。人間とはかなり違う存在だが、全く異なるとは言えない。人間もあまりに辛い記憶や経験をずっと覚えて生きていることはできない。忘れることは生きていくための知恵でもある。つまりひつじたちは人間のカリカチュアと言えるわけだ。

だが、映画のストーリーはひつじたちが忘れることを拒否することから始まる。

飼い主のジョージの死はあまりにも辛い。忘れたい。だが、ジョージの死だけは忘れてはいけない。犯人を見つけなければいけない。ここからミステリが始まる。

ミステリとは、忘れられたこと、隠されたこと、見落とされたことを掘り返すジャンルである。誰かが消した痕跡をたどり、誰かが忘れようとした事実をもう一度見つめ直すジャンルである。

だから「辛いことは忘れる」ひつじが忘れないことを選ぶという始まりは、ミステリの構造に沿った展開なのだ。

ここから先は、映画の終盤や真相に関わる部分にも触れる。

以下、ネタバレあり。

本作はかなりキリスト教的な映画でもある

ひつじはキリスト教的な動物である

そして本作『ひつじ探偵団』はかなりキリスト教的な側面を持っている。

まず大前提として、ひつじは非常にキリスト教と関係がある動物だ。
ひつじは群れで暮らし、導かれるもの、つまり人間の象徴として聖書などで比喩としてよく登場する。そしてひつじ飼いはそのひつじを導くものとして、キリスト、神の比喩になる。

つまりキリスト教圏でひつじとひつじ飼いの物語をやろうとすると、どうしてもキリスト教の重力に引っ張られてしまうのだ。

こっちが勝手にそう読んでいるわけではなく、『ひつじ探偵団』には、一匹狼のひつじセバスチャンが教会を説明するシーンがある。そこで「神はひつじ飼いだ」とハッキリ語るのである。少なくとも、映画の側もこの連想をかなり意識しているように見える。

また、このセバスチャンは教会では「これは私の体」と言ってパンを配るものだ、と聖体拝領のことも説明する。
だがひつじは実際に食べられもする存在だ。この映画では隣の牧場ではひつじは食肉用に出荷されるということが語られる。ジョージはベジタリアンであることも語られる。だからここの「私の体」はひつじの口を通して語られることで、かなりブラックジョーク的にも浮かび上がってくるのだ。

ジョージは「よきひつじ飼い」として描かれている

ヒュー・ジャックマン演じるひつじ飼いの名前はジョージ。これはキリスト教の聖人、聖ゲオルギウスを連想させる名前であるが、本作ではジョージは、ひつじたちの共同体において、かなりイエス・キリスト的な役割を担っている。そもそも「よきひつじ飼い」とは、イエス・キリストが自分のことを指してそういった言葉である。

ジョージはひつじに名前を与える。探偵小説を読み聞かせる。傷ついた一匹狼のひつじを受け入れる。ひつじたちにとって彼は、単なる飼い主ではない。父であり、教師であり、守護者である。

わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
(中略)
わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

ヨハネによる福音書 第10章

重要なのは「この囲いにいない他の羊」である。この箇所をひいて考えると、ジョージと隣の牧場のひつじたちの関係がかなり意味深に見えてくるだろう。

ジョージはベジタリアンであり、隣の牧場に土地を貸している。劇中で隣の牧場主とジョージが揉めているシーンがあるが、劇中では明言されないのであくまで推測だが、あれはひつじを食肉にしていることを契約違反だとジョージが怒っているのではないだろうか?だとすれば、ジョージは「この囲いにいない他のひつじ」のことも気にかけているひつじ飼いだということになる。
そして映画では、最終的に隣の牧場のひつじ=「この囲いにいない他のひつじ」も救われて一つの群れになっているのだ。これも聖書のイメージと重なっている展開である。

また、ジョージが傷ついたセバスチャンを担いでいたシーンだが、セバスチャンを首筋で支え、両の手を上に伸ばして担ぐヒュー・ジャックマンの姿は、まるで十字架に掲げられるキリストに見えないだろうか。
考えすぎかもしれないが、この映画で「神はひつじ飼いだ」といい、聖体拝領のネタまで出しているのを観ると、ジョージにキリスト的なイメージを重ねるのは決して無理筋ではないと思う。

ただし担がれているのはあくまでひつじであり、あのシーンはむしろ、ルカによる福音書の15章、「いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩」くキリストのイメージなのかもしれない。

ジョージは死ぬが、忘れられないことによって永遠になる

ジョージは死ぬ。

だが、ひつじたちは忘れないことを選ぶ。この映画のひつじたちは本来、つらいことを忘れて生きる。だがジョージの死だけは忘れない。その死を記憶し、彼が読み聞かせていた探偵小説の知識を使って事件を解く。
ジョージは生き返りこそしないものの、リリーの前にまるで本物かのような幻影となって現れ、彼女を導く。
そして、冬生まれの子ひつじにジョージという名前が付けられ、ひつじたちは、死者の記憶を群れの中で受け継いでいくことを選ぶ。

これもかなりキリスト教的だ。

キリスト教において、キリストの死は忘れられるべき死ではない。共同体はその死を記念し続ける。死者の記憶が、共同体を形作る。まさにこの映画でひつじたちが達成したことだ。

だが、ヒュー・ジャックマンの存在がこの映画を説教臭さから救っている

だがこの映画をキリスト教的な説教臭さから救い出しているのがヒュー・ジャックマンという役者の存在力だ。

ジョージはひつじ視点からすれば理想の申し分ないひつじ飼いに見えている。だが、映画を見ればわかるところだが、人間社会の中のジョージは聖人とは程遠い存在だ。子供二人を育てられなくて養子に出しているし、教会とは何らかの揉め事を抱えているように見えるし、トレーラーハウスに住んでいる姿は偏屈で孤独を自分から選んでいる人物に見える。田舎町の人間からすれば結構面倒くさい男でもあったのではないだろうか。
そこがヒュー・ジャックマンらしいところだ。善良だが、孤独で不器用でもある男。

ジョージは映画ではすぐに殺されてしまうが、演じるヒュー・ジャックマンの存在力が彼を厚みのある人物にしているし、映画に説教臭くない温かみを加えているのではないだろうか。

忘れることができないひつじモップルのキャラクターがいい

この映画のメイン登場ひつじのリリー、セバスチャン、モップルは皆好きだが、なかでも忘れることができないひつじのモップルのキャラクターはとても良くないだろうか。

嫌なこと、辛いことはすべて忘れて生きているひつじの群れの中で、全ての記憶を持ったまま生きているモップル。その孤独はいかばかりであったろうか。すべての死を覚えたうえで子ひつじに「ひつじは死なない、雲になるんだよ」と語るモップル。誰にも共有できない哀しみを抱えながら優しい言葉を言える強いひつじなんだよ……。

そんな彼に同じくひつじの死を覚えている仲間のリリーができたことや、忘れられるはずだったジョージの死という悲しい記憶も継承するひつじの群れという共同体ができたことは非常に喜ばしいことだ。

ウェルメイドで、かなりキリスト教的な羊映画

以上のことから考えると、『ひつじ探偵団』は、まずウェルメイドな娯楽ミステリである。

伏線もあり、意外な犯人もあり、ひつじたちのキャラクターも立っている。頼りない警察官が、ひつじたちに誘導されながら最後には探偵役として成長していくのもいい。突飛な舞台設定を一発ネタで終わらせず、ミステリ、キャラクター、テーマの回収まできちんとやっている。

そのうえで、この映画はかなりキリスト教的な映画でもある。

ひつじは人間や信徒の比喩であり、ひつじ飼いは神やキリストの比喩である。本作はその構図を、劇中の教会説明や聖体拝領ネタによって、かなり自覚的に利用している。

ジョージはひつじたちにとって、よきひつじ飼いである。彼は死ぬが、忘れられず、名を継がれる。そして彼の囲いの外にいたひつじたちまで救われる。

つまり『ひつじ探偵団』は、ひつじが事件を解くかわいいミステリであると同時に、よきひつじ飼いを失った群れが、その死を忘れず、名を継ぎ、囲いの外のひつじまで迎え入れて、共同体を作り直す映画でもある。

ひつじを扱う映画は、キリスト教圏ではどうしてもキリスト教的になってしまうのかもしれない。

だが『ひつじ探偵団』は、その必然をかなりうまく娯楽映画の中に織り込んでいる。

そして、それはそれとして、映画館でひつじのぬいぐるみは売ってほしかった。売れよ!機会損失だろ。


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